銀の月 (7)

そして、翌日。クラピカは仕事先だったノストラード財団の元へと戻って行った。
クラピカの気配が消えたのを感じ、オレはようやくそっと自分の部屋から出る。
なんというか、やっと起きあがれるようになったとたん仕事に戻っていくとは、本当に真面目というか律儀というか、まあ、そこがクラピカらしいと言えばらしい所なのかもしれないけど。
「…………」
オレはクラピカの姿が消えたがらんとした殺風景な部屋を見回した。この部屋の主がいる間には一度も訪問さえしなかった部屋だ。
クラピカはオレを冷たい奴だと思ったろうか。仲間意識の低い奴だと思っただろうか。
まあ、当たり前か。誰だってそう思うよな。オレがクラピカの立場だったとしてもそう思うだろう。
あれほど礼儀を重んじるクラピカが出発の挨拶もしにこなかったことがその証拠。
オレは小さく溜め息をついてクラピカがいた部屋に背を向けた。とたんにオレの背後から声がかかる。
「溜め息つくくらい後悔してんだったら、ちゃんと顔見せてやりゃよかったんじゃんねえのか? え? キルア」
「………………」
思ったとおりのレオリオの嫌みな口調。
「クラピカ、出発したの?」
まともに返すのも癪に障るんで、オレはそんな分かり切った話題で、言葉を濁した。
「ああ」
レオリオは素直に頷く。たった今、空港へクラピカを送ってきたところなんだそうだ。
「で、おっさんはおいてけぼりってわけだ。主治医の名が廃るねえ」
「オレくらいの名医になれば、離れてても診察くらいできるんだよ」
「何が名医だよ。卵にすらなってないくせに」
「そう言うこというか? てめえは……」
さり気なさを装って軽口を叩いてみると、レオリオはちゃんとそれに乗ってきてくれた。こういうところ、たまにこのおっさんも案外勘がいいんだろうななんて考えてみる。
「ああ、そうだ。クラピカがお前によろしく言っておいてくれって言ってたぞ」
トンと壁にもたれて腕を組み、レオリオがにやっと笑った。
「オレに? ゴンに、の間違いじゃないのか?」
オレがそう切り返すと、レオリオは、そのにやり笑いのまま首を振った。
「いいや、お前にだよ。なんたって名指しで頼まれたんだからな」
「……まさか……」
一度も見舞いに行かなかったオレに、クラピカが名指しでよろしくって? あり得ない。そんなこと。
「何疑ってんだよ、てめえは。マジだって」
どうしても信用しようとしないオレの態度に、レオリオは呆れた顔でポリポリと頭を掻いた。
「クラピカからお前に、直々の伝言を頼まれた。いいか。言うぞ」
「え……あ、う……うん」
なんとなく気構えてしまうのは何なんだろう。
「気を遣わせて悪かったって。お前には感謝してる。本当に有り難うってさ」
「…………え?」
感謝している。有り難う。
ふと、ハンター試験の最中、あの軍艦島脱出のあとのクラピカの笑顔と握手の為に差し出された手を思い出した。
あの時のクラピカの手は、白くて柔らかくて、なんだか心がくすぐったくて。とても気持ちが穏やかになった。
まだ、クラピカの心が闇に捕らわれていなかった頃。
もう二度と戻らない平穏な日々。
「本当にそう言ったの? クラピカ」
「ああ」
「有り難うって?」
「ああ」
「何で? だって、オレ、一度も……」
「顔見せなかったからって、お前がクラピカのこと放って置いたなんて、あいつはこれっぽっちも思ってないよ。むしろ、それがどういう意味なのか、あいつはちゃんと知ってたんだよ」
「知ってた?」
それは、どういうことだろう。知ってたって。
「世の中には、そばに居ることで癒える傷もあれば、反対に距離を置くことで癒える傷もあるんだってことだろ」
「なん……だよ……それ」
「お前はいろんな意味で最善を尽くそうとした。あいつはそれを知ってたんだ」
クラピカが闘っていたのは闇。オレ達を手招きしていた闇。
オレの後ろには闇が潜んでいる。人を殺したことがあるという、どうやっても消せない闇が。
クラピカはオレの側に来ちゃいけないんだ。何度も何度も心の中でそう思ってた。
クラピカがその手を血に染めてさえなお、オレはずっと繰り返し祈ってた。
来ちゃいけないって。闇に落ちちゃいけないって。
あんたを救えるのは、きっとオレ達の対岸にいる奴なんだって。
オレじゃ駄目なんだって。
クラピカは気付いてた。本当に、気付いていたんだろうか。
オレと、オレ自身の闇を。
「知ってたよ。気付いてたよ。これは本当のことだ。だからあいつはお前に感謝してるって言ったんだ」
レオリオの言葉はすとんとオレの耳に届く。
「あーあ、オレもお前を見習わなきゃな……なんて」
大きく伸びをしながらレオリオが言った。オレは思わず瞬きをする。
オレを見習うってなんだよ。
オレは闇の住人で、あんたは光の住人だ。
あんたはオレ達の対岸にいるっていうのに。どうしても手の届かない対岸にいるっていうのに、何を言ってるんだろう。
「オレとあんたは違う」
ついそうつぶやいたオレに、レオリオは分かっているよとでも言いたげな視線で頷いた。
「ああ、もちろんそうさ。だからオレは医者になるんだ。早く」
「…………」
「必死で勉強して、一日でも早く医者になって、オレはオレのやり方であいつの傷を癒してやるんだ。そうしなきゃ、さすがに自分が許せねえよ」
「…………」
「知ってるか? キルア。医者ってのは、あらゆる傷を治すために存在してるんだぞ」
にっと笑いながらレオリオはそう断言した。
「オレは、もう、オレの目の前で誰かが傷つくのを見るのは嫌だからな。だから、オレは傷を癒す為に医者になる」
傷を癒す為。あらゆる傷を癒す為。
そっか。そうだよな。レオリオは医者になるんだ。あらゆる傷を癒す医者に。
オレには決して行けない場所へレオリオは行くんだ。
行ってしまうんだ。
でも、それは決して嫌なことではなくて、悔しいことでもなくて。
そういうのとは全然違ってて。
「せいぜい頑張れよ」
「おうっ」
力強く頷きながら、レオリオはくしゃりとオレの髪をかき回した。
レオリオのごつごつした指が髪に引っかかってちょっと痛くて、ちょっとくすぐったくて。
でも、オレはなんだか久しぶりに自然に笑えたような気がした。

 

FIN.  

2006.11.23 脱稿 ・ 2007.01.20 改訂

  

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