櫻花 (4)

展示スペースに展示されているのは、『自然』をテーマにしたたくさんの写真達だった。
小さな一輪の花から、壮大な山の写真まで。
所狭しと並べられている写真の中には、かなりハッとするほど目を惹かれるものも何点かある。
本当に、聖香が言うとおり、この中の何人かはこの先プロとして食べていくつもりなのがありありと解るようだ。
自分と数年しか年も違わないだろう大学生。
もっともっとうまくなりたい。
手を伸ばして、せめて此処まで近づきたい。
そして、もっと上へ向かって歩いていきたい。
遼にとっての永遠の憧れや目標は、やはり自分の父であったが、そこへ辿り着くまでの長い道のりの途中の小さな目標が、今、目の前に並んでいるような気がした。
「これ…いいな」
中でも一番遼の目を惹いたのは、真っ白な雪柳の写真だった。
春先の、まだ冷たい風の中、一瞬雪のように見えるその白い花は、真っ白なその色で全てを包んでくれるような気がする。
強くてしなやかな。
そんな柳の枝を彷彿とさせるその姿から、この花は雪柳と呼ばれるようになったと聞く。
「…雪柳…か…」
「花の写真って良いよね。優しくって好きだな」
聖香の言葉に遼はそっと頷いた。
優しい、優しい、花の写真。
「真田君は花の写真は撮らないの?」
「え、ああ、前に桜の写真は撮ったよ」
「桜? うわぁ、どんな桜? 満開の桜って綺麗よね」
「うん」
確かに綺麗だった。
桜も。桜の中の伸も。
「…………!」
おもわず、一番大事にしまってあるとっておきの一枚の写真の事を思いだし、遼の頬が熱くなった。
ああ、もう。どうして、こんなに事あるごとに伸の事ばかり考えているのだろう、自分は。
『こいつじゃなければ駄目』
「………?」
まるで遼の心に追い打ちをかけるように秀の言葉が頭の中に響いた。
『あいつでなければ駄目』
違う。秀だけじゃない。確かもっと前にも同じ言葉を聞いたことがある。
あれは、確か。
ふと、遼は少し前、偶然耳にした当麻と征士の会話を思いだした。
“あいつは柳に似てるな…”
そうだ。当麻は確かそう言った。
“なあ…征……やっぱり、奴も柳と同じで、あいつでなければ駄目なのかな……”
“………”
“駄目なの…かな”
征士はそう訊いてきた当麻に何も答えなかった。
ただ、何も言わずじっとそんな当麻を見つめていた。
あいつでなければ駄目。
二人が話していたことは、自分には解らない昔の話。
永遠に思い出すことなどない昔の話。
柳。
それは、烈火の前の仁の戦士だ。いつだったか聞いたことがある。
『奴も柳と同じで、あいつでなければ駄目なのかな。』
その時、ようやく遼は理解した。
奴とは誰で、あいつとは誰なのか。
自分は何処かで、柳と同じ目をして同じ誰かを想っているのだろう。
同じ誰か。
「……………」
伸。
初めて出逢った時、一瞬女の子かと思った。
男にしては少し高めの甘い声で自己紹介をした伸。
生まれ年は同じだが、早生まれなので学年は一つ上なのだと聞いてとてもビックリしたのを覚えている。
白い肌も柔らかそうな栗色の髪も澄んだ緑の瞳も、何だかがさつな自分と同じ男だとは思えなくて。
こんな細腕で本当に戦えるんだろうか。そんな不安さえよぎったというのに。
なのに。
伸は強かった。
気がつけば、反対に自分のほうが護られる立場で。
でも、伸はいつも苦しそうだった。
敵を倒す度に、まるで自分が傷ついているかのように苦しげに眉を寄せ、今にも泣きそうな目をして。
だから。
護りたいと思った。
力の及ばない自分自身の不甲斐なさに腹をたてながらも、ずっとずっとこの人を護って戦っていきたいと思っていた。
永遠に手にはいることがなくても。それでも、この力の続く限り。
護りたいと思っていた。あの、愛しい人を。
大切な。大切な愛しい人を。
きっと駄目なのだ。
今更ながらに解る。
あいつでなければ駄目なのだ。
何故なら、こんなに胸が苦しいから。
“あいつ”のことを思うだけで、こんなに胸が苦しいから。
「真田君?どうかしたの?」
立ち止まったままぼんやりと写真の前から動こうとしない遼に、とうとう聖香が声をかけた。
「そんなに気に入った?この写真」
「え、あ、うん」
曖昧に誤魔化しながら、遼は写真の下にある撮影者のネームを見ておやっと首をかしげた。
「これ撮った人、聖っていうんだ」
「ええ、そう。聖(ひじり)っていうのはペンネームだけどね。本名は聖彦(まさひこ)。私の兄さんなの」
「えっ!?」
遼は目を丸くして聖香を振り返った。
「お兄さん?」
「そう。私が写真始めたきっかけって、兄がやってたからなのよ。昔、一緒に撮影旅行に連れてってもらって、その時初めて一眼レフのカメラを手に持ったの。ずしっと重くって、なんかその重さが良いなあって思ってね。単純でしょ」
「きっかけなんてそんなものだよ。オレだって父さんが写真やってなかったら興味持たなかったかも知れないし」
「あら、じゃあ、私達似たもの同士じゃない」
くすくすと肩を揺らして聖香が笑った。
可愛いと思った。
実際、聖香はかなり可愛い部類に入る少女だ。
しかも頭がよくて機転が利いて、隣にいる女の子として申し分ないと思う。
でも。
「ごめん」
ぽつりと遼が言った。
とたんに、ピクリと聖香が笑顔を引っ込めた。
「…真田…君…?」
「オレ、如月さんのこと、すごく可愛いと思う。一緒にいて楽しかった。今日も、此処に案内してくれてとても感謝してる。でも…オレ……」
「好きな人、いるんでしょ」
「………!?」
当たり前のように言った聖香に遼の方が絶句した。
「あ……」
「何でわかるのかって?当たり前じゃない。女の子をなめちゃいけないわよ」
「………………」
「最初に会った時から……ううん、初めて真田君の写真見たときから、それくらいピンときた。まさかはっきり言ってくれるとは思ってなかったけど」
そう言って聖香は再びくすりと笑った。
「真田君優しいから、きっと何にも言えないだろうなあって思って、こっちから予防線張っておいたんだけど、その必要もないくらい、もっと優しかったのね、真田君って」
「………………」
「普通、優しい人って相手を傷付けないようにって、はっきり断ることしないじゃない。泣かせたくないからとか何とか。でも、もっと優しい人はそんなことも全部含めて、ちゃんとごめんねって言ってくれる人だと私思う」
「じゃあ、本当に優しいのはオレじゃなくて秀だ」
秀が言ってくれなかったら、背中を押してくれなかったら、自分は何も言えずに今日の日を終えてしまっただろう。
不思議そうに首をかしげて、聖香は遼を見上げた。
「秀?」
「オレの大切な仲間の1人だ」
「……………」
「秀だけじゃない。征士も、もちろん当麻も…それから……」
「……………」
「それから、伸」
「……伸…………?」
「ごめん。オレはきっとまだ子供なんだ。今の自分の気持ちがどういうものかもはっきり言ってよくわかってない。だけど、如月さんとは、同じものを目指す同志として、友達として、これからも一緒にいたいと思う。それだけしかオレ言えない」
「……………」
大切な人。
その人のことを考えるだけで胸が痛くなる。
これが恋なのか解らないけど。
それでも、確実に今一番大切だと思える人がいる。護りたいと思える人がいる。
この感覚が恋というなら、自分は間違いなく伸に恋をしているのだろう。
だから、その気持ちに嘘はつけない。
「……私がね、真田君を好きだなって思ったの、きっと真田君が恋をしていたからなのね」
ぽつりと聖香が言った。
「誰かを想っている真田君の目がとっても好きだなって思ったの。カメラのレンズ越しに見ているであろう景色まで、全部含めて、ああ、この人はとっても大切な人の為に生きてるんだなあって、なんかそんなふうに思ったの。私の感性もなかなか捨てたものじゃないってことね」
ふっと肩をすくめて聖香は言った。
「友達でいましょう。同志でいましょう。私達」
「……如月さん……」
「でも、私は、真田君の写真のファン第一号だから。それだけは忘れないでね」
そう言って、聖香はふわりと笑った。
その笑顔はほんの少し伸に似ていた。

 

――――――「お帰り、遼、どうだった? 楽しんできた?」
笑顔で玄関まで出迎えに来てくれた伸を見て、ふっと遼の表情がほころんだ。
やわらかな伸の笑顔。
これが欲しい。
他の誰でもない、一番大切な人のさりげない笑顔。
それさえあれば、何もいらないと思える。優しい笑顔。
この胸の痛みも、この胸の温かさも、それが恋というものならば自分はあえてその気持ちを認めようと思う。
「…遼? どうかしたの?」
じっと自分を見つめる遼の視線に戸惑ったように伸が尋ねた。
「遼?」
「何でもないよ。伸。ただいま」
「…お…かえり」
なんだかとても倖せそうな遼の笑顔につられて伸がふわりと微笑んだ。
「楽しかった? 写真展」
「うん。如月さんとも色々話が出来て楽しかった。つれていってもらった所も伸の好きそうな場所だよ。今度行かないか」
「今度? でも、僕写真とかよくわからないよ」
「写真じゃなくて、そこって展示だけじゃなくってバザーとか朗読会とかもやるらしいんだ。この間は宮沢賢治の朗読会をやったって如月さん言ってた。伸、好きだろ、宮沢賢治」
「あ…うん」
「じゃあ、行こう?」
「うん。そうだね」
伸がにこりと頷くと、更に嬉しそうに遼が笑った。
「そうだ、遼。おなかの具合どう? 実は今ちょうどマフィンを焼いてるところなんだけど、食べる?」
「ああ、食べる食べる」
「じゃあ、焼きあがったら持って行くよ」
パタパタとキッチンへ駆け戻る伸を見送って、遼が居間へと向かうと、居間にはちょうど食後のコーヒーを手に皆が集まっていた。
いつもはすぐに書斎へいってしまう当麻までがまだ残っている。
居間へ現れた遼の姿を認めて、さっそく秀が身を乗り出してきた。
「どうだった? 遼」
「あ、うん。どうだったっていうか……」
「楽しかったか?」
「まあね」
ストンと征士の座っているソファの隣に腰掛け、遼がほっと息をついた。
「写真展って言っても、小さなパン屋の片隅を借りた展示スペースだったんだけどさ。なかなか良かったよ。特に如月さんのお兄さんの撮った写真が綺麗だったな」
「如月の兄貴? あいつの兄弟って写真やってたのか?」
当麻が意外そうに目を丸くする。さすがに同じクラスでもそこまで彼女の事情には詳しくないようだ。
「うん。色遣いが綺麗だね。一番目を惹いたかな。それでさ、オレ」
「……………?」
ほんの少しためらいながら、遼がいたずらっ子のような目をして笑った。
「今度新聞部に入部することにした」
「はぁ?」
秀が突拍子もない声をあげた。
「なんで突然新聞部? お前、記者にでもなるつもりか?」
「違うよ。新聞部っていっても写真担当。校内新聞なんかに載せる写真とか撮ったりする役」
「それはそうだろうが、遼は報道カメラマンになりたかったわけではないだろう」
征士も不思議そうに遼にそう訊いた。
「うん。それはそうなんだけど、今は少しでもいろんな写真を撮りたいんだ。父さんは動物専門だったけど、オレは他にも風景だって撮ってみたいし、人物も撮りたい。色々な可能性を探りたいんだ。如月さんはオレの話を真剣に聞いてくれた。同じものを目指す者同士としてオレのことを認めてくれた。目もかなり良いと思う。だから的確なアドバイスもくれるんじゃないかな」
「おいおい、遼」
秀が驚いて遼のそばに走り寄り耳打ちしてきた。
「それでいいって、如月さんは言ったのか?」
「彼女のほうから提案してきてくれたんだ。オレがお兄さんの写真気に入ったっていったら、今度会わせてくれるって言ってくれて、それから、どうせなら新聞部に入ってくれないかって。ほら、うちの学校は写真部ないしさ」
「それってお前……ちゃんと…」
「言ったよ。秀に言われたとおり。オレ、ちゃんと言った」
「………………」
「ちゃんと言ったその上で、たくさん話をしたんだ」
「…ふーん」
なんだか嬉しそうに秀は大きく頷いた。
「じゃ、頑張れよ」
「ああ」
短く答え、遼はソファから立ち上がった。
「じゃあ、オレ、明日新聞部のみんなに写真見せる約束したから、整理してくる」
「おうっ」
片手をあげた秀に軽く手を振り返しながら遼は二階へと上がって行った。
トントンと聞こえる軽やかな遼の足音を聞き、当麻が微かにため息をつく。
「何というか、いつもいつも前向きな奴だな」
「そこが遼の良いところだろ」
「まあな」
「あれ? 遼は? せっかくマフィン焼けたのに、もう二階へ上がっちゃったの?」
焼き上がったマフィンを手に居間へ顔を出した伸が、残念そうに口をとがらせた。
「写真の整理するって言ってたから、持ってったら食うんじゃないかな」
秀が二階を指差しながらそう言うと、伸はそれはそうだと、マフィンをトレイに乗せたままくるりと踵を返した。
「じゃあ、持ってってあげようかな」
「え、おい、それ全部持ってく気か? オレ達の分は?」
「キッチンにまだ残ってるから取ってきて食べなよ」
「お前、随分と遼に対する時と態度違わないか?」
「気のせい気のせい」
秀の不満そうな声ににっこりと余裕の笑みを返し、伸はそのままスタスタと二階へ上がっていった。
やれやれと秀が肩をすくめると同時に当麻が椅子から立ち上がる。
「お、気が利くじゃん、当麻」
「何が?」
くるりと振り返った当麻は微妙に機嫌が悪そうである。
「何がって、立ち上がったってことはもちろんキッチンへマフィン取りに行くんだろ」
「マフィンは取ってきてやるが、コーヒーのお代わりは自分でいれろよ」
「わあったよ」
すでに空になっていたマグカップを手に秀はトンっとソファから飛び降り元気に居間を出ていった。
「当麻」
「…ん?」
ふと、思いついたように征士が顔をあげて当麻を見た。
「何だ、征士」
「あまり、焦るなよ」
「……え?」
何の事かわからずに当麻が一瞬目を丸くする。
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
「…………」
再び新聞を広げてしまった征士をしばらく見つめ、当麻も秀を追うように居間を出ていった。
廊下へ出るとキッチンから美味しそうな匂いが漂ってきている。伸の作ったマフィンと秀のいれているコーヒーの匂いだ。
「……………」
ふと、階段の下で立ち止まり、当麻はじっと二階を見上げた。
焦ってる。自分が?
自分は焦っているのだろうか。
焦っているとしたら何に対して。
当麻の頭に、先程の遼の顔が浮かんで消えた。
未来を見つめる遼。
その姿をまざまざと見せつけられる度に、自分の心がチクリと痛むのがわかる。
「……………」
当麻はくしゃりと前髪を掻き上げ、小さくため息をついた。
「本当だ。征士。オレは焦っているのかもしれない」
もう一度チラリと二階を見上げ、当麻は今度こそキッチンへ向かって歩きだした。

FIN.      

2002.9 脱稿 ・ 2002.12.15 改訂    

 

前へ  後記へ