櫻花 (3)

「はい。出来上がり。お皿だして」
「おうっ」
秀が差し出した皿の中に器用にオムレツを乗せ、伸は火を止めたコンロの上にフライパンを戻した。
「えっと…これで最後だっけ」
「ああ。5人分ちょうど。じゃ、これにもソースかけるぜ」
「うん。お願い」
さっそく湯気の立ったデミグラスソースの入った小鍋を持ち上げ、秀が鼻を鳴らす。
キッチンテーブルにはふわふわと柔らかそうなオムレツが5皿、所狭しと並んでいた。
今日の夕食はオムレツとコーンサラダ。付け合わせにアスパラのベーコン巻き。コンソメスープという品目である。
5皿全部にデミグラスソースをかけ終え、秀が鍋を置いた時、ちょうど遼がキッチンへと顔を出した。
「お、ちょうどいいとこへ来たな、遼。運ぶの手伝ってくれよ」
「あ、うん。あのさ……」
「………?」
遼が少し言いにくそうに伸の背中に向かって声をかけた。
「あの…さ。伸」
「何?」
伸は調理を終えたフライパンを熱湯で洗っている最中である。手だけはしっかり動かしながら、それでも背中越しに遼の様子を窺った。
「どうしたの? 遼」
「あ、うん。オレさ、明日夕飯いらないから」
「……えっ?」
キュッと蛇口を閉め、伸が改めて遼に向き直った。
「夕飯いらない? 何、外で食べて帰ってくるの?」
「まあ…そんなとこ」
「誰と? 珍しいね。遼が外食なんて」
遼だけじゃなく、この家のみんなは滅多に外で食事などして帰ってはこない。
珍しいこともあるものだと、伸はまじまじと遼を見た。
遼もさすがに居心地悪そうに口ごもる。
「あんまり遅くならないようにしてくれれば、うるさいこと言う気はないけど……あっ!」
ふきんで手を拭きながら、伸が突然大声をあげた。
「もしかして、遼、如月さんとデート?」
「………!!!!」
ボッと火がついたように遼の頬が赤くなった。
「如月さん?」
秀が何のことかと目を丸くすると、遼は真っ赤になったまま慌てて伸の方へと詰め寄った。
「何でお前が知ってるんだよ」
「何でっていわれても、もしかしてホントにビンゴだったんだ」
「ホントも何もオレ誰にも……あっ、当麻か!?」
そういえば聖香は当麻と同じクラスだと言っていた。
遼はギリッと唇を噛んでくるりと伸に背を向けた。
当麻の奴。よりによってこんなに早く勘づいて伸にべらべらしゃべるなんて。いや、あいつのことだ。勘づいたんじゃなく、もしかしたら最初から知っていたのかもしれない。だとしたらもっと許せない。
「おいおい、ちょっと待てよ。遼。何が何だかわからねえんだけど、オレ」
今にもキッチンを飛び出そうとしている遼をなんとか押しとどめて秀が呆れたように言った。
「いったい誰なんだよ、如月さんって……あっ!!」
言いながら、さすがに秀も気付いたようだ。
そうなのか、と伸に目で確認をしたあと、秀はほうっと感心したように遼を見てニヤリと笑った。
「何々、こんなに早く見つかったんだ、ラブレターの主」
にやにやと笑う秀を遼が嫌そうな顔で見返した。
「で、明日は何? 何処でデートなんだ?」
「…別にデートじゃないよ。如月さんがオレに見せたい写真展があるからよかったら行かないかって」
「写真展!? おまっ…そういうのをデートって言うんだよ」
「違うって言ってるだろ!」
「まあまあまあ」
真っ赤になって否定する遼の手に無理矢理料理の乗った皿を押しつけ、自分もトレイを手にすると、秀は肩で遼の背中をキッチンから押し出した。
「とりあえず料理運びながらゆっくり聞かせてくれよ。で、可愛い子か?」
「秀!! だから違うって!!」
二人の声がキッチンから遠ざかっていくのを聞きながら、伸がおもわず小さくため息をついた。
「…………」
「今のため息は誰の為のため息なんだ?」
「当麻?」
いつの間にか入れ違いにキッチンに顔をだした当麻がトンッと壁にもたれて腕を組んだ。
伸は小さく肩をすくめて、誤魔化すようにテーブルの上の調味料の瓶を棚へと戻す。
「遼の奴、明日デートなんだって?」
当麻が探るように伸に聞いた。
「そうみたいだね」
「で、伸ちゃんとしては複雑な心境なわけだ」
「……別に」
ふいっと当麻から視線をそらした伸の横顔は、確かにほんの少し複雑な表情をしていた。

 

――――――「んな照れることないじゃんか。可愛い子なんだろ」
カチャンとダイニングテーブルの上に皿を並べながら、秀は興味津々という様子で遼にそう訊いてきた。
「そりゃ…可愛い子だけど、お前が想像してるようなことは何にもないよ」
「想像って?」
「だから、あの手紙はファンレターみたいなものだって彼女は言ったんだ」
「ファンレター?」
「ああ。だから、あまり深く考えないでくれって。名前書かなかったのも返事を期待してたわけじゃないから、わざと書かなかったんだって」
「へえ」
聖香は当麻の予想通り、今回のコンクールで写真の審査を担当したメンバーの1人で、遼の写真に一目惚れをしたのだと言っていた。
こんな写真を撮れる人とはどんな人なんだろう。
そういった興味から遼のことを気にかけるようになり、今回の手紙はある種ファンレターのようなものだと、聖香は誤魔化すように笑ってそう言ってきた。
当麻のクラスの学級委員。
ハキハキしてて明るくて、物怖じしない聖香は、当麻ともそれなりに仲が良いのだそうだ。遼が当麻の知り合いだと知っていたら、あんな手紙書かなかったのにと、恥ずかしそうに舌を出した聖香は確かに可愛かった。
「如月さんもオレも写真好きだから…」
「ふーん」
「だから……」
「……………」
なんとなく、やはり居心地悪そうに遼はうつむいた。
秀はじっとそんな遼を見て、小さく肩をすくめた。
「ま、そうだな。あんま気にすることないよな。楽しんでこいや。同じ趣味を持った者同士の良い友達関係って理想だよ」
「……うん」
「でもな、遼。そうならそうって、ちゃんと言えよ」
「……えっ?」
「向こうが言ってこないからって曖昧にしてたら、傷つくのはお前じゃなくて、如月さんだぞ」
「……………」
「つき合うつき合わないってんじゃねえけど、今この現時点でお前の気持ちが他にあるなら、それはそう言ってやれよ」
「……え…あ……」
「…今は何とも思ってないけど、他に好きな子がいるわけじゃないからつき合ってみてもいいってんなら、おおいにつき合え。応援するよ。でもさ、そうじゃないんなら………」
「そうじゃないなら……?」
「お前にとって…こいつじゃなきゃ駄目だっていう奴が他にいるなら…」
「…………」
ギクリと遼の表情が強ばった。
こいつじゃなければ駄目。
まるで何かのキーワードのように、その言葉が遼の頭を駆けめぐる。
そんなふうに誰かを想う気持ち。
自分の気持ち。
それは何処にあるのだろう。
如月さんは可愛い。誘われて嫌ではなかった。
別に今、他につき合っている女の子がいるわけでもない。断る理由もない。
では、何故、こんなに胸が痛いのだろう。
この胸の痛みの原因は何処にあるのだろう。
「……でもまあ、当麻じゃねえけど、やっぱそうなのかなあ」
独り言のように秀がつぶやいた。
「………?」
「前さ、当麻が言ってた。お前見てると、烈火を通り越して柳の事を思いだすって」
意味がわからず、遼はキョトンとした表情で秀を見返した。
「オレ、あんまり昔の事って覚えてねえんだけど、柳はずっとずっと斎の巫女の事好きだったんだなあ。ずっとずっと。なんか、お前見てて、そのこと思いだしたよ」
「それって…」
その時、玄関で征士のただいまという声が微かに聞こえ、秀は慌てて大きく首を振った。
「あ…わかんなきゃいいよ。何でもないから」
「…………」
「ただ、誰にも忘れられない気持ちってのはあるのかなって思っただけ。それだけだから」
なんだか取り繕ったような笑顔を向け、秀はさっさと残りの料理を運ぶためキッチンへと駆け去って行った。
廊下から微かに聞こえてきた征士を迎える秀の声が、ほんの少し遼の心に引っかかる。
でも、それが何の意味を表すのかは、遼にはわからなかった。

 

――――――翌日の放課後。聖香に誘われて遼が向かったのは、写真展とは名ばかりの小さなパン屋だった。
「えっ…此処が?」
素直に驚きを示した遼を見て、聖香がくすりと肩をすくめて笑う。
「ごめんなさい。驚いたでしょ。此処って別に個展だとかをやってる写真展じゃないのよ。このパン屋の一角に小さな展示スペースがあって、そこによくいろんな物の展示とか、バザーみたいなことやってるの。今日はちょうど私の知り合いの人達の展示だったから、いいかなって…」
店先に置いてあるメニューの書かれた看板の隣には、しゃれたデザインの木の椅子が置いてあり、そこに『本日の催し』の文字が書かれた木のボードが立てかけてあった。
どうやら今日は、とある大学の写真サークルの展示会のようだ。
促されるまま店内へ入ると、入り口付近には、できたての美味しそうなパンがずらりと並んだ棚が2列平行に置いてあり、その向こうにカウンター型のレジがある。
レジの奥はそのまま厨房になっているらしく、白い割烹着を着た人達が数人パンを焼いたり、粉をこねているのが見えた。
此処で購入したパンはそのままその場で食べられるようになっており、店の中央には、その為の大きな木のテーブルと椅子が並べられている。天井は高く、上の方まで吹き抜けになっていて、ガラスには綺麗なステンドグラスがはめ込まれていた。
言ってみればパン屋兼喫茶店兼展示会場のようなものだ。
「あの奥に展示場のスペースがあるの」
聖香の指した店の奥の一角には確かに小さなスペースがあり、何点かの写真が飾ってあるのが見えた。
「今日の展示は、この近くの大学サークルの出展なんだけど、この中から未来の有名写真家がでるかもって思うと何かわくわくしない?」
「そうだね」
「私もそのうち此処に作品とか展示したり、自分の撮った写真でポストカードとか作って販売したりしてみたいんだ」
「へえ。販売って……そっか、バザーもやるって言ってたね」
「そうそう。カードを飾って、気に入ったのがあったら自由に持っていけるようにしてね。お代は此処にって貯金箱か何かを置いておくの」
「なるほど。善良市だ」
「そういうこと」
吹き抜けの天井にステンドグラス。暖かみのある木のテーブルに椅子。
全体的に柔らかな印象を持つこの店の雰囲気は、なんだかとても居心地が良い。
柔らかな自然光を生かした優しい空間を見上げ、遼はほうっと息を吐いた。
「あれ? ピアノまで置いてあるんだ」
ふと、展示スペースの手前に置いてある見事なグランドピアノに気付き、遼が尋ねると、聖香はそうそうと明るく頷いた。
「すごいでしょ。此処って展示だけじゃなくって、ピアノの演奏会や朗読会みたいなものも開催されるの。たいていはボランティアや市のサークルの人達がやってるんだけど。この間は宮沢賢治の朗読会をやってたんじゃないかな」
「宮澤賢治?」
「そう。読んだことある?」
「あ、うん。『銀河鉄道の夜』とか『よだかの星』とか、あと『雪渡り』とか」
「へえ、詳しいんだ。真田君で意外に読書家なの? 銀河鉄道の夜はともかく、他の作品がそれだけすらすら出てくるってことは結構読み込んでるみたいだけど」
「そうじゃない。ただ…」
ほんの少し遼は口ごもった。
宮沢賢治の作品は伸が好きだと言っていた。だから、読んでみようと思ったのだ。
伸がどんな気持ちでこれらの作品を読んでいるのか知りたくなって、それで思わず手に取ってしまった。
なんだろう。
この店の雰囲気の所為だろうか。
それとも昨日秀に言われたことが心にひっかかっている所為だろうか。
さっきから遼の頭の中には伸の事ばかりが浮かんでくる。
昨日も、伸はあれ以降、夕食の時でさえ多くを追求しようとしなかった。
ただ、いつものように笑って、楽しんできてね、と。
その笑顔を見たとたん、遼の胸がズキンと痛んだ。
どうしようもなく、ズキンと痛んだのだ。
「ちょっと…知り合いが好きだって言ってたから興味があって」
「ふうん」
意外そうに目を丸くして聖香がくすりと笑った。

 

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