櫻花 (2)

好きということ。
とてもとても倖せなはずのその感情は、どうしてこんなにまで苦しい心と同居しているのだろう。
パタンと自分の靴箱を閉じ、上履きに履き替えて、遼はぼんやりと天井を見上げた。
鞄の中には、まだ昨日の手紙がそのまま残されている。
差出人を捜したい気持ちと、知りたくない気持ちが遼の中でずっとせめぎ合っているのだ。
自分の何処がいいのだろう。
それとも秀達が言っていたようにからかわれているのだろうか。
初めて手紙を見つけた時は、ドキリとして心臓が口から飛び出るのかと思った。
何だかくすぐったくて、だんだんと頬が熱くなっていった。
それなのに、どうして今はこんなに胸が苦しいのだろう。
夕べの伸の顔が、どうしてこんなに頭の中にちらついて離れないのだろう。
階段の下で、伸は不安気な顔をして見上げていた。
自分の言葉で傷付けてしまったのではないかと、気にして。
「……………」
遼は小さくため息をついた。
伸にあんな顔をさせて、どうして自分は伸に対して何でもないと言って笑うことすら出来ないのだろう。
誰よりも伸を安心させてやりたいのに、どうして、自分は自分の感情を伸の前でコントロール出来ないのだろう。
どうして伸を見ると、こんなに胸が苦しくなるのだろう。

 

「なんか、落ち込んでる? 遼」
重い足取りで廊下を歩いていく遼の背中を見ながら、伸が隣に立つ当麻に聞いた。
「そう、見えるか?」
「見えるっていうか……うん。ちょっとね」
「そう見えるんなら、そうなんだろう」
「そういう無責任な返し方しないでくれる?」
「すいませんねえ。無責任な男なもので」
「……………」
呆れたように伸が当麻を見上げた。
「気にならないの? 遼の事」
「何言ってんだ。遼の心配係はオレじゃなくてお前だろ」
「なんだよ、それ」
「大体、遼の場合は、落ち込んでるじゃなくて、戸惑ってるって感じだろ。あいつ、今までまともに女の子とつき合うとかそういった事には一切縁がなかったみたいじゃないか」
「……まるで、自分はあるみたいな言い方だね」
「相手が名乗り出てくれれば、まだ違うんだろうけどな」
わざと伸の言葉を無視して、当麻は話を続けた。
「大体、遼みたいな奴相手にした場合、名乗らなきゃ一生気付いてもらえないくらいわかるだろうに、あいつも」
「………えっ?」
思わず伸が眉を寄せた。
「当麻」
「………ん?」
「ねえ、何か、今の言い方、すごく引っかかるんだけど」
「何が?」
「……何か、まるで手紙の主を知ってるみたいな言い方じゃなかった?」
「………………」
当麻が微かに唇の端をあげて、ニッと笑った。
「そうか?」
「そうだよ」
「んー」
勿体ぶった口調で腕を組み、当麻が伸をチラリと見た。
「知りたい?」
「……えっ?」
「お前が知りたいって言うなら、特別に教えてあげよう」
「……………」
伸が疑わし気な目つきで当麻を見返した。
「何? それは」
「実はさ。オレの推測では、あの手紙出したの、オレのクラスの奴だよ」
「………!?」
「そっくり同じ筆跡の奴、知ってるんだ」
「筆跡?」
「そう」
「筆跡って……ちらっとしか見てないだろうに、そんなの解るの?」
「解るさ、それくらい。それに、そいつ新聞部の部員だし、今回の遼の写真の審査してくれたうちの1人じゃなかったかな」
「新聞部の……?」
「そう。可能性大だろ」
「………………」
なんとも言えない顔で、伸は遼が歩き去った廊下の先を振り返った。
「そっか……」
ぽつりと伸がつぶやく。
「………………」
「君のクラスの子なんだ。遼に手紙だしたの」
「………………」
「良い子?」
「ん…ハキハキした子だよ。頭も良いし。うちのクラスの学級委員もやってる」
「へえ」
つぶやく伸の姿がほんの少しだけ寂しそうに見え、当麻はすっと伸の正面に回り込んだ。
「伸」
「何?」
「……寂しいのか?」
「…………?」
伸が驚いて顔をあげた。
「な…何言ってんだよ急に。僕は……」
「知ってるか、伸」
伸の目を覗き込むように見つめて当麻が言った。
「差出人不明の手紙はただの手紙でしかないけどな。相手が誰だかわかると、ただの手紙は人間になるんだ」
「……………」
2・3度瞬きをして、伸は再び廊下へと視線を向けた。
もちろん、もうそこに遼の姿はなかった。

 

――――――「…………?」
誰かの視線を感じたような気がして遼はふと教室へ入る前に足を止めた。
授業開始の5分前の廊下はザワザワと生徒達でごった返していたが、誰も遼を気にとめているいるらしき人物は見あたらない。
やはり気にしすぎなのだろうか。どうかしている。
そんなことを思いながら再び教室のドアに手をかけようとした時、ふいに後ろからポンと背中を叩かれ、遼は驚いて振り返った。
「あれ? 秀」
「よっ。どした?どっかから熱い視線でも感じたのか?」
「なっ…!?」
「やっぱラブレターなんか貰っちまうと、緊張感が違うのかねえ」
「そうじゃない! オレは別に……」
焦って遼は言い返した。
「それに自分の名前も書かない手紙は信用できない。からかわれてるんじゃないか、とか言ったのお前じゃないか」
「いやいや、それは言ったかもしんないけどさ。オレ、本気で、んな事思ってねえぜ。だいたいからかうにしても相手は選ぶだろう。やっぱ」
「……?」
「いいか。騙したりからかったりしてさ、へたに落ち込む奴とか、んなことしても面白くない奴相手にバカなことするわけねえじゃねえか」
「ちょっと待て。それってオレがすぐ落ち込むタイプだって言いたいのか」
「いーえぇ。別にそんなこと言ってねえって」
おおげさに両手を振り回して秀は否定した。
「お前の場合は、何だろう。そういう気が起こらない相手ってのかな」
「……よく解らない」
「まあ、あんま気にすんなよ。それよりさ、今日昼休みに新聞部の部室に来てくれってさ」
「新聞部の? 何?」
「うん。オレも詳しく訊いてないんだけど、コンクールで提出したネガがどうだとか言ってたぞ」
「ネガ?ああ、提出したやつか?」
「だと思う。うちの担任に伝言頼まれたんだ。会ったら伝えといてくれって。よろしくな」
そういえば、秀のクラスの担任は新聞部の顧問だったはずだ。
ちょうどチャイムが鳴ったのをきっかけに、遼は秀にわかったと短く答え、そのまま教室へと入っていった。

 

――――――昼休み。遼は秀に言われたとおり、新聞部の部室へと顔を出した。
型の古いワープロとパソコンが数台並んでいるその部屋は、昔は何かの資料室だったらしいが、ずっと使われていなかったらしく、数年前からは新聞部のささやかな活動場所となっていた。
そういえば、昔は全部ガリ版を刷って印刷していたのだが、最近はワープロ等でもデザインや編集作業が出来るようになってずいぶん便利になったのだと眼鏡の部長が言っていたのを聞いたような気がする。
「すいません。真田ですけど」
コンコンとノックをし、ドアを開けると中には誰の気配もなく、遼はおやっと首をかしげた。
「いない……のかな? 誰も」
中に入って遼はシンとした室内を見回した。やはり誰もいないようだ。
誰もいないとなると出直すしかなさそうだと、遼が諦めて帰ろうとした時、遼の後ろで派手に物を落とす音と女の子の小さな悲鳴が聞こえた。
「……!?」
「やだ! ごめんなさい。誰もいないと思ってたからビックリしちゃって……」
どうやら、両手に山程の資料や本を抱え勢い込んで部室に駆け込んできた少女は、予想外の侵入者に驚いて抱えていた資料の束を落としてしまったらしい。
慌てて床へしゃがみ込み、少女は床に散らばった資料の紙をかき集めだした。
「あーもうやだ。せっかくそろえたのに」
「ご…ごめんオレ……あの…」
「……!?」
少女を手伝おうと遼が慌てて膝をついたとたん、その子は再び途中までかき集めていた資料をバサリと見事に手落とした。
「やだ!! 誰かと思ったら、真田君!?」
「えっ? あ…うん」
「どうしてこんな所に……あっ、そうか。ネガ取りに来たのね。うちの顧問、また呼びつけるだけ呼びつけておいて忘れてるんでしょ」
「あの…」
「いつもこうなんだから。ごめんなさい。確か昨日、あっちの机にまとめておいたはずだから…」
「いや…あの…」
「すぐ出すからね」
「あの、そんな焦らなくていいよ。まずこれを何とかしなきゃ」
立ち上がろうとした少女を制して、遼は床に散らばったままの資料を指差した。
「あ…やだ。そうよね。ごめんなさい」
そういって再び少女は床にしゃがみ込む。
「何やってんだろ。あたし。ごめんなさい。これ片づけたらすぐ出すからね」
女の子ってみんなこんなふうに機関銃のようにしゃべるものだったろうか。面白いな。
ふと、そんな事を考えた遼の目が床のある一点で止まった。
「……!?」
資料の紙に埋もれてちらりと見えたそれは、遼にとって随分と記憶に新しいものだ。
「あの…それ…」
「…えっ?」
「その…便せん…君の?」
「……!!!」
遼の視線の先に気付き、少女はガバッと資料の中から便せんを引き抜くと、真っ赤になって背中に隠した。
おかげで途中までそろえたはずの資料の束は再び床へザアッと散らばり落ちる。これではいつまでたっても一向に片づかないだろう。
「あの……」
おずおずと少女が遼を見上げた。
「……見た?……ってか、バレた?」
「……………」
まじまじと遼は真っ赤になっている少女を見下ろした。
少女が隠した便せんは、まさに昨日遼がもらった例のラブレターに使われたものと、まったく同じものだったのだ。
「あ…じゃあ、やっぱり…」
「あの…えっと…こういう時、どうすればいいのかしら」
本気で戸惑いながら、少女は遼を伺った。
恥ずかしさに真っ赤になっている少女。柔らかそうな髪がふわりと肩にかかっていて、大きな瞳はやけに睫毛が長く見える。なんだか不思議な生き物を見るような目で少女を見ながら、同じように戸惑った口調で、遼はようやく口を開いた。
「あの…と…とりあえず名前教えてくれると嬉しいかな…?」
「あ…やだ。ホントごめんなさい」
ぺこりと頭を下げて少女がお辞儀をした。
「私、如月聖香っていいます」
「きさらぎ…せいか…さん?」
「ええ。この新聞部の部員で、写真とイラスト担当。クラスはD組。真田君の事は、今回のコンクールで知りました」
「D組? D組って当麻と同じクラス?」
きょとんとした顔で、聖香が顔をあげた。
「当麻って…あ、羽柴君? やだ、真田君って羽柴君と知り合いなの?」
「うん。知り合いっていうか何ていうか…」
「やだ。全然知らなかった。そうなんだ」
恥ずかしそうにうつむく聖香の髪からふわりとシャンプーの香りがした。
そんな聖香は、なんだかとても可愛らしかった。

 

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