サクリファイス (7)

瞬が望んでいたのは死だ。
だから瞬は他の奴らと違ったのだ。
欲が無いわけではない。何も望んでいないわけではない。
瞬の望みは、オレ達には理解できないところにあっただけなのだ。
8歳の時、その手で人を殺してしまった時から、瞬の時間は止まってしまった。
死にたくて。死にたくて。
でも、誰も瞬を殺してはくれなかった。
そして、瞬は強くなる。どんどん。どんどん。
望んでもいない強さが瞬の中に蓄えられていき、ますます誰も瞬を殺せなくなる。
「雨が降ってた」
瞬が言う。
「いつもいつも、雨が降るたび僕は兄さんの事を考えていた。僕が殺してしまったあの人のことを」
瞬。
「僕は兄さんを僕の心から消したかった。だからあの人の命を奪った。奪ってしまったものは返さなきゃ。返さなきゃいけないのに」
「………………」
「死のうと思ったんだ。何度も何度も。でも駄目なんだ。兄さんが邪魔をするんだ。兄さんが言うんだ。死ぬなって……解ってる。兄さんは僕の事を想ってそう言ってくれているんだってことくらい」
「………………」
瞬の瞳に涙が溢れてきた。
それはどこまでも透明で、澄んでいて、オレは目をそらすことも出来ず、じっと瞬を見つめていた。
「僕は兄さんに生かされてきた。兄さんだけが、僕のすべてだった」
「…………」
「ボク達は孤児だったんだ。僕はお母さんの顔も覚えてない。頼れるの兄さんだけで、信じられるのは兄さんだけで。だから、兄さんの言葉は、僕にとって絶対の響きを持ってた」
「…………」
だから?
兄貴が言ったから、こいつは死ぬことができなかったのか?
死のうとするたび、兄の声が邪魔をし続けたっていうのか?
死にたくて。でも、死ぬことは許されなくて。
ぐにゃりと歪んだ瞬の心は出口を求めて叫び出す。
それは、兄に対する憧れでも憧憬でもない。
支えであった兄の存在は、いつの間にか瞬を縛り付ける鎖へと姿を変える。
がんじがらめに縛り付けられて。瞬の心が悲鳴をあげる。
誰にも届かない悲鳴を。
「こんなになってまで、兄さんの言葉が僕を縛り付けるんだ」
『瞬、死ぬな』
どうして?
『生き延びて帰ってくるんだ』
どうして?
『無事に戻ってこい』
どうして?
『聖闘士になって戻ってこい』
何の為に?
『瞬』
もう、許してよ。これ以上僕を縛り付けないでよ。自由にしてよ。
僕が悪かったことくらいわかってるから。
僕がいつも貴方の足手まといだったことくらい知ってるから。
僕さえいなければ、貴方はもっと楽に生きられたことくらいわかってるから。
だから、お願い。
もう解放して欲しい。僕を自由にして欲しい。
僕を……。
「彼を突き落とした崖に僕はあの後、何度か行った。何時間もそこにたたずんで、僕はじっと海を見ていた。彼を呑み込んでしまった海を」
「…………」
「そこへ行くと、兄さんの声が聞こえる気がした」
「…………」
「そして、僕は諦めたんだ。諦めて、そして決めたんだ。聖衣を持って日本へ帰るって」
「…………」
解ったよ。帰るよ。
聖衣を手に入れて帰るよ。貴方のもとへ。
だから。
そうしたら、貴方の元へ帰ったら、貴方は僕を殺してくれますか。
ねえ、血まみれになった僕の身体を切り裂いて、僕を殺してくれますか。
そして、僕が殺した彼の代わりに、僕の命を受け取ってくれますか。
ねえ、兄さん。
兄さん。

死を望むたびに聞こえてきたのは兄の声。
生き抜けという兄の声。
死を望む人間に、それはなんと陳腐に聞こえただろう。
生きるとはなんだろう。
正義とはなんだろう。
正しいこと。間違っていないこと。
では、その判断基準は、何処にあるのだろう。
正義の為なら、死をも厭わない。それは言い換えれば正義を貫くためには相手を殺してもいいということなのだろうか。
自分の為に拳をふるうことは悪いことで、女神の為に拳をふるうことは正しいことなのだろうか。
解らない。
だから、一番解りやすいのは、目には目を。
奪ってしまったものと同等のものを相手に与える。
それだけが真実。
でも、与え損ねた瞬の命の受取人は何処にもいない。
瞬の命は、誰の手にも受け取られず、宙ぶらりんになって浮かんでいる。
「なあ……お前が、前に言った、オレに殺されるわけにはいかないって、あれ……あの意味って……」
「…………」
「お前は、兄貴に自分の命を与えようと思ってたからか。だから、兄貴以外の誰かに殺されるわけにはいかないって。そういうことか」
「…………」
「自分を殺していいのは兄貴だけだって、あれ、自分が命を与える相手は兄貴だって言いたかったのか?」
「レダ……」
何だか、胸がムカついた。
ムカついてムカついて、吐き気がしてきた。
こいつは勘違いしているんだ。大きな勘違いをしているんだ。
瞬が命を奪った相手は、決して兄ではない。
兄ではあり得ないのに。
オレは知らず血の滲むほど唇を噛みしめていた。
「……瞬、お前、言ってることがめちゃくちゃだぞ」
「うん」
「第一、お前が殺したのはお前の兄貴じゃない」
「うん」
「だから、お前の兄貴は、お前に死を与えてなんかくれない。お前が自分の命をそいつに与えたくても、そいつは決して受け取ろうとなんかしない」
「うん。そうだね。解ってる」
「…………」
「解ってるよ」
「…………」
「僕は、最初から解ってたんだ」
「…………」
「解ってたんだ」
「…………」
「ごめんね。レダ」
初めて。
初めて、瞬が愛しいと思えた。
そして、オレは、改めて瞬を殺してやりたいと思った。
瞬を救うために。
他の誰でもない、瞬を救うために。

 

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