RE:スタート -第2章:消えた記憶−(1)

その朝、当麻はものすごい頭痛と共に目を覚ました。
時計を見ると、午前5時前。目覚ましも鳴らないような時間帯だ。その証拠に征士は隣でまだ規則正しい寝息をたてている。
征士より早く目が覚めるなんて、オレもいよいよヤキがまわったかな等、考えながら、当麻は勢い良く起きあがり、トンっと軽やかな音をたてて床に降り立った。
ところで動きが止まる。
「あれ……?」
何かとても大事なことを忘れているような気がして、当麻は部屋の中を見回した。でも、目に入るところには何も引っ掛かってくるものはない。しばらく思案した当麻は、結局気のせいだろうと判断してタオルを手に部屋を出た。
後ろ手にドアを閉じ廊下に出ると、誰も使っていない向かいの部屋のドアが目についた。
「……?」
また、何かを忘れているような気がした。でも、やはり何も思い当たらない。
夢見でも悪かったのかなと気を取り直し、階下へ降りようとした時、再び当麻の足が止まった。
ゆっくりと振り向き、さっき通り過ぎた部屋のドアを見る。
「…………」
何か、どうしてか解らないが、気になって仕方ない。
当麻は諦めたようにため息をつくと、この心のもやもやを解消する為に、とりあえずドアを開けて部屋に入ってみた。
部屋の中はとても殺風景で、やはり長い間誰も使っていない部屋だ。
何がこんなに気になるんだろうと、訝しげに当麻は部屋の中を探るように歩き回った。
何か、とても、とても大切な事を忘れている。でもそれが何なのか思い出せない。
それはひどく気持ちの悪い現象だった。
ふと、当麻の視線が窓際のベッドの上に落ちた。何気なくそばへ寄り、ベッドを見下ろしてみる。
「…………」
そしてそのまま、しばらくの間じっとベッドを見下ろしていた当麻の目が、突然大きく見開かれた。
「征!! 来てくれ!!」
大声で向かいの部屋の征士を呼ぶと、当麻は何かを探すように、部屋の中をあちこち掻き回しだした。
「どうした、当麻」
いくら寝起きが良いとはいえ、当麻の叫び声に無理矢理叩き起こされた形になった征士は、もろに不機嫌そうな顔をして自分の部屋から出てきた。そして、ドアが開いたままになっている向かいの部屋へと顔を覗かせる。
「いったい何事だ。朝っぱらから……」
「征!! 伸が消えた!!」
当麻が真っ青な顔をして、征士を振り返った。
「……は?」
征士が怪訝そうな顔をして、当麻を見返す。そして、次に征士の口から信じられない言葉が飛び出した。
「……伸?……誰だそれは」
「…………!」
とたん、当麻は膝の力が一気に抜けたように床に崩れ落ちた。
「お、おい、当麻?」
慌てて征士が助け起こすと、当麻は真っ青な顔をして征士にしがみついたまま、誰も寝ていないベッドに目を向けた。
「いったいどうしたんだ? 当麻?」
「…………」
「何騒いでんだよ、当麻。こんな朝早くに」
騒ぎを聞きつけ、秀と遼が寝ぼけ眼で部屋に入って来た。すると当麻はパッと征士から離れ、すがるように二人のもとへ駆け寄った。
「秀! 遼!!……伸を覚えてるか!?」
「……伸……?」
征士と同じく、二人とも怪訝そうな顔をして当麻を見返すだけだ。
「……遼! 覚えてないか!?……本当にお前の中に欠片でも伸の記憶は無いか!?」
じれたように遼の肩を掴み、当麻は強く揺さぶった。
「当麻……? どうしたんだよ、一体。」
「思い出してくれ! 遼!!……お前の中にあるはずだ。伸の記憶が……」
「…………?」
「……遼……お前の事を誰よりも想っていた大切な仲間だ。……伸を……伸を思い出してくれ……早くしないと、オレ達の中から完全にあいつが消えてしまう……!」
「ちょっと、痛いよ」
掴まれた腕の力の強さに遼が顔をしかめる。
「いったい何なんだよ。伸って誰だ?」
「いい加減にしろ、当麻」
征士の手によって引き剥がされるように遼から離され、当麻は茫然とその場に座り込んだ。
「…………」
遼が探るような目を当麻に向け、それをそのまま征士の方へと移動させる。
「どうもよくわからないんだが、伸……という者がいなくなったらしい」
困惑した表情で征士が遼からの無言の問いかけに答えた。
「……伸?」
遼が低くつぶやき、ゆっくりと部屋の中を見回した。
カーテンもかかっていない窓。無機質な色のシーツ。壁際に設えてある本棚には、一冊の本もなく、うっすらと埃が立っている。
ずっと長い間、誰も使っていなかったと思える部屋には、そこに誰かが住んでいたという気配は欠片もない。
伸が消えた。
この部屋からも、自分達の記憶の中からも。
伸が消えた。
当麻は、自分の身体が震えだすのを止めることが出来なかった。

 

――――――「なるほど。だいたいの話はわかった。いや、わからないことだらけだが、とりあえずお前の言いたいことは理解した」
「征士……思い出したのか? 伸のこと」
勢い込んで聞いてくる当麻に、征士は首を振りながら困ったように眉を寄せた。
「いや、伸が云々というのはわからない。だが、それとは別に私達の過去の戦いや、お前の記憶バンクとしての使命は覚えているからな。恐らくこの中でお前だけが記憶を失わなかったのは、そのおかげだと考えられる。となるとお前の言っていることも嘘ではないという予想は立つ」
「征士……」
「それにお前がこのような意味のない嘘をつく奴じゃないということを私は知っている」
そう言って征士は安心させるようにふっと笑みを浮かべた。
「お前の期待にどこまで応えられているかわからんが、とりあえずはこれが私からの精一杯だ」
「……なんかよく分かんねえけど、オレもお前の言うこと、信じるぜ。当麻」
「オレも」
征士の隣で、秀と遼もコクリと頷く。
当麻は張りつめていた気持ちを解くように、ようやくホッと息を吐いた。
征士の言っていることを集約すると、伸に関する記憶がなくても、その周りで起こった出来事や過去の記憶、鎧戦士としても使命は、変わらず皆の記憶の中にあるということなのだ。
であれば、欠けたピースを埋めるように、少しずつ記憶のパズルを完成させることは出来るかもしれない。
「じゃあ、改めてオレが言ったことをどう思う?」
居住まいを正し、ゆっくりと当麻は三人の顔を見回した。
「どうって……半分納得出来て、半分理解不能って感じかな……」
秀が腕を組みながら答えると、残りの二人も同じように頷いた。
「だが、朝起きた時も今も、何か妙な違和感を感じている状態なのは間違いないな」
「征士、違和感って具体的にはどんな感じだ?」
征士の答えに当麻が身を乗り出す。
「そうだな……なんと言うか記憶が重複してるような……私達以外に誰か…お前の言う伸のことだと思うが、そういう者がいたと覚えてる私と、そんな者は最初からいなかった、出逢っていないのだから知らなくて当然と考えてる私が心の中に混在してるみたいな」
重複した二つの記憶。
片方は伸のことを知っていて、もう片方は伸のことを知らない。まさにパラレルワールドだ。
「つまり、俺達の過去が重複しちまってるってことだな」
「過去が重複?」
当麻の言葉に、秀がきょとんとした顔で首をかしげた。
「言っただろう。ガソリンスタンドでの事故によって、征士と伸が過去へ飛ばされたんだって。そこでの伸の行動が結果としてオレ達の過去を変えてしまったんだ。つまり伸は水滸としての目覚めを迎えられず、新宿へ集結しなかった。結果、オレ達は伸を欠いたまま戦うことになったという過去だ」
「だから、オレ達とも出逢わなかったっていうことか?」
「簡単に言えばそういうことだ。その所為で、オレ達には二つの過去が存在することになってしまった。伸に出逢った過去と、伸と出逢わなかった過去だ」
当麻の説明に征士が感心したように頷いた。
「わかるような、わからないような。にしても随分とSFまがいのことを言うんだな。もっとお前は現実主義者だと思っていたが」
「充分現実主義者だよ、俺は。理論上タイムマシンは作れるって考える程度にはな」
「……?」
戸惑ったように征士が当麻を見ると、当麻も驚いたように征士を見返していた。
「今の……」
「ああ」
つい先日、同じような会話をした。
いや、同じような、どころではない。まったく同じ会話をした。
征士が眉をひそめながらこめかみに手を添える。
ガソリンスタンドでの爆発事故。飛ばされた過去の時間。
ゼリーのような重い空気。飛び出してきた妖邪兵。振り下ろされた鎖鎌。
そしてそれを見つめる黒曜石の瞳。
「正人……?」
「……!?」
当麻がはっとなって顔を上げた。
「思い出したのか?」
「いや、まだ……おぼろげだが…でも」
「…………でも?」
「正人の目を…思い出した」
「………!」
「烈火と同じ、黒曜石のような瞳だった」
あの時、背中に傷を負い意識のなかった伸を抱えて飛んだ。地面を蹴った瞬間、見えていないはずなのに、視線が重なった。
名前は木村正人。
本当ならあの時亡くなったはずの伸の幼馴染。
伸が護った命。
当麻と征士はお互いに確かめ合うように相手を見た。
「……そういう…ことか……?」
絞り出すような声で征士がつぶやく。それを確かめるように当麻が静かに頷いた。
「だが……そんなこと。過去を変えるなど…出来るのか?」
「死んだはずの正人が生きているんだ。それを考えれば何が起こっても不思議はない」
「……じゃあ、犯人は正人…なのか?」
「それはわからん。なんといっても正人は普通の人間だったはずだからな」
当麻の言葉に征士も頷いた。
確かに、正人は普通の人間だったはずなのだ。しかし、彼は死ぬはずの歴史を伸によって変えられた。では、死ななかった正人は、その死ななかったということで何か力を手に入れたのだろうか。
力を手に入れた正人は、どうやってかは解らないが、過去を変えたのだろうか。
伸が新宿へ集結する直前か、それとも水滸の鎧を見つける前か。何処かの時間へ飛んで、伸が自分達と出逢わないように細工をしたのだろうか。
だが、そうだと仮定してもまだ疑問は山ほど残っている。
なにより昨日のあれは……あの人は……。
懐かしい黒曜石の瞳を思い出し、当麻と征士はお互いに確かめ合うように相手を見た。
忘れようとしても忘れられない、彼の人。
伸のベッドの上で、じっと伸のことを見つめていた烈火。
ひるがえったカーテン。一瞬熱くなった部屋の空気。
“水凪を……水凪を連れて行ってもいいだろうか……”
そうつぶやいた烈火の言葉。
烈火とは自分達の前身の世においての烈火の戦士だった男の名前だ。
そして水凪は水滸。
遥か昔。戦国の世。敵は阿羅醐だけではなく、戦いと混乱が支配し、いまだ日本の平定は先の話だった時代。山奥の隠れ里に、その時代の彼らは集結した。
そして烈火は、その名が示す通り、仁の珠を持つ炎の戦士だった。
もしかして、烈火は今度こそ。あの時出来なかったことをしようとしているのか。
正人の力を借りて。
いや、逆に、正人が烈火の力を借りたのか。
「……で、当麻……これからどうするつもりなんだ?」
秀の問いかけに当麻は静かに首を振る。
「やることはひとつ。とにかく一刻も早く、オレは伸を探し出す」
「どうやって探すのだ。私達の元には、もう伸の情報は何もないのだぞ」
征士の言葉に、一瞬その場にいる全員が表情を硬くした。
そうなのだ。伸はもういないのだ。
伸の使っていたはずのベッドは冷たく、荷物も何ひとつない。愛用のマグカップも、お気に入りの食器も、使っていた歯ブラシも、服も本も何もかも。
もう、何もないのだ。
「あるさ。情報はオレの記憶の中に」
当麻がきっぱりと言い切った。
「オレが覚えている。伸の顔も声も何もかも。絶対忘れたりしない。……オレは何が何でも伸を探しだして、もう一度伸に出逢う」
「……だが、大丈夫なのか? 私達と伸は別々の時間を過ごしてしまった。我々は出逢ってさえいないのだぞ」
遼と秀がはっとした顔をして征士を見る。
「だから、伸はもう私達のことを覚えていないかも知れない」
考えてみれば、自分達には当麻という記憶バンクがそばにいたが、伸にはいない。僅かな記憶を拾い集め、修復してくれる者はいないのだ。
「それでも……オレは伸に逢いたい」
「当麻……」
「オレには伸が必要なんだ。オレの中から、あいつが消えてしまうのだけは嫌だ。伸に出逢うことのない人生なんて考えたくない」
「…………」
「オレは伸にめぐり逢いたい」
当麻が言った。それだけが真実であるかのように。

 

――――――「遼、ここにいたんだ」
伸が使っていたはずの部屋のベッドに腰掛け、窓の外をぼーっと眺めていた遼の所に、秀が大荷物を抱えて入ってきた。
「秀? どうしたんだ、その荷物」
「いや〜、当麻が言ってただろ。本当はこの部屋、オレと伸の部屋だったって」
「ああ、そういえば」
「だからこっちに引っ越してこようと思ってさ。お前、一人部屋になるけどいいよな」
「ああ、それは構わないけど」
答えながら遼はぐるりと部屋を見回した。
比較的広めの部屋。備え付けのベッドは二つ。今はどちらも使用されていないが、ここは本来、伸と秀が使っていたのだ。
「オレのベッド、どっちだと思う?」
「そっちだな」
僅かも迷うことなく、遼は入口に向かって左側、自分が座っていなかった方のベッドを指さした。
「やっぱそう思うか。オレもそうだと思ったんだ」
言いながら秀もベッドの上にどさりと持っていたシーツや枕を投げ下ろした。
「うん。こっちのほうがしっくりくる」
「だな」
目を合わせ、お互いにやりと笑みを浮かべる。
消えたと思っていた記憶も、落ち着いて考えればちゃんと何処かに残っている。それを感じるだけで少し安心出来るのは、やっぱりこの記憶が本当のものだからだろうか。
「そういえば、当麻は無事にあっちに着いたかな」
空気を入れ替えようと窓を開けながら遼がつぶやいた。
数少ない記憶を頼りに、当麻は今、伸の地元へと向かっているのだ。
「この時間じゃまだ新幹線の中だろ。山口の萩って結構時間かかるぜ」
「……そっか……遠いな、萩は」
窓の外、伸は遙か彼方の地に居るのだ。
当麻の、征士の言葉によって、少しずつ遼の中に伸の記憶がよみがえる。
”遼……”
呼ばれたような気がして、遼ははっと顔をあげた。
「どうした? 遼」
「思い出した」
「何を?」
「声」
唐突な遼の言葉に、秀が不思議そうに首をかしげる。
「声って……もしかして伸の?」
「そうだ。伸の声」
伸の声を思い出した。
“どうしたんだい? 遼”
“何が食べたい? 遼”
“遼、おはよう”
“おやすみ、遼”
そんなふうに、伸はいつもいつも殊更、遼の名前を呼んでくれた。
「綺麗な声をしてた。そうだよ。伸だけ学年ひとつ上なのに、声変りもまだなんじゃないかってくらい高くて柔らかいトーンの声で…さ」
「ああ、そういえば……」
「いつもすっごい優しい声でオレの名前を呼んでくれた」
耳に心地いい柔らかな声。柔らかな笑顔。
「優しいねえ……そりゃ、お前は伸の一番のお気に入りだったからな」
当然のようにそう言って、秀がにやりと笑った。
「……え?」
「だから当麻も、散々お前に言ってたんじゃねえか? 思い出せって。っつーか、思い出せるはずって」
「……そう…か……」
「でもさ、確かに伸の声は耳に心地いいけど、オレなんかお小言ばっか言われてたからなあ。優しいとは微妙に違ったりして」
「お小言? どんな?」
「あんまりハンバーガーばっか食うな。栄養考えろ、とか」
「それって、ちゃんと秀の身体のことを心配してくれてたってことじゃないのか」
「そうとも言う」
そう言って秀が今度は声をあげて笑った。つられて遼の顔にも笑みが浮かぶ。
こんなふうに会話を続ければ続けるほど、確信が持てる。本当に伸は自分達のそばにいたのだと。そして、心の中に伸の存在が確かな形となって作られていくのは、なんだかとても楽しくて、倖せな気持ちがした。
「やっぱ、優しいんだよ、伸は」
「だな」
お互い顔を見合わせてもう一度笑顔になった時、階下から征士の声が聞こえてきた。
「二人とも、今から珈琲を入れるが、降りてくるか?」
「あ、行く行く」
遼の反応を見もせずにすかさず答え、秀が元気にドアを開けた。
「行こうぜ、遼」
「あ……うん」
秀に促され、遼もベッドから腰を上げ、階下へ向かう。
階段を飛ぶように駆け下り、二人同時にキッチンに顔を見せると、何故か、征士は二人を呼び付けたにも関わらず、珈琲豆の袋をいくつもテーブルに並べたまま難しい顔をしていた。
珈琲メーカーの電源ももちろん入っていないようだ。
「どうした? 征士」
征士のうしろに回り込み、秀が窺うようにテーブルに目を向ける。
「いや…こんなに豆の種類があったのだなと思って」
「そう言えば……」
並んでいる豆は、一般的によく聞く名前のブレンドやモカなどから、あまり聞き覚えのない、マンデリンなどまで多種あった。
「伸だ……」
つぶやくように遼が言った。
「伸がそろえたんだよ。これ。その日の気分や、気温、湿度によって飲みたい味が変わってくるからって……」
「そうだ! 珈琲なんか、そんなどれも変わんねえだろって思ってたのに、伸が淹れてくれると全然違ってて、ビックリしたんだ」
遼に同調して秀も声をあげた。
「なるほど。では、これも伸だな」
そう言って征士が開けた冷蔵庫には、作り置きと思われる手作りドレッシングの瓶が並んでいた。
学校で強制的に行われる調理実習以外で、まともに料理等した覚えのない自分達が使っていたとは思えないほどきちんと整理され、そろえられた調味料や手作りドレッシングの数々。
「なんだ。ちゃんと此処にはあるんじゃねーか。伸の痕跡が」
おもわず三人は示し合わせたように、ぐるりともう一度キッチンを見回した。
間違いなく此処にいた自分達以外の誰か。
そういえば、ここはその誰かが一番好んで立っていたテリトリーだった。
ぼんやりと、まるで陽炎のような淡い記憶が、少しずつ形を成していく。それがなんだかとてもとても嬉しくて。
遼は珈琲を注ぐ為のマグカップを3つ食器棚から取り出したところで、もうひとつ何かを思い出したようにふと手を止めた。
「……なあ、征士」
「なんだ?」
「伸の好きな色って水色だ」
「……え?」
征士が振り返ると、遼は今さっき自分が取り出したマグカップの置いてあった棚を、じっと見つめていた。
「このマグカップさ、みんなでおそろいにしようぜって、それぞれの色違いでそろえたんだよな、確か」
「ああ」
「そん時、征士が緑を選んで、当麻が紺色、秀が橙、オレが赤。で、あともう一色は水色だった」
言いながら、遼はキッチンのテーブルの上に、征士用の緑色のマグカップと、秀用の橙色のマグカップ、遼用の赤色のマグカップを、というように順番にコトリと置いた。
そして確かめるように、棚の中に残っている当麻用の紺色のマグカップと、隣に不自然に空けられた何もない空間を振り返る。
ああ、そういえば。
この棚には、色違いで5つのマグカップが並んでいた。
緑と紺と橙と赤と、そして水色。
確かにあった。水色の、伸用のマグカップ。
伸は少し大きめのこのマグカップに並々と珈琲を入れ、本を読みながらゆっくり飲むのが好きだった。珈琲はインスタントじゃなく、ちゃんと豆を挽いて。
部屋中に広がるあの香りが好きなのだと言っていた。だから、出来るだけ手間をかけて豆を挽きたいのだと。
「ちゃんと覚えてるんだな。オレ達も」
噛みしめるように秀が言った。
ひとつずつ。ひとつずつ、思い出していける。
伸の好きな色。
伸の好きな食べ物。
伸の好きな本。
伸の好きな音楽。スポーツ。映画。いろんなもの。
「そうだ、遼。珈琲を飲み終わったら、買い物に行ってくれないか?」
「買い物……?」
征士が選んだ豆はブレンド。とりあえずその豆で三人分の珈琲を淹れて二人に手渡しながら、ふと思いついたように征士がそんなことを言いだした。
熱い珈琲をフーっと息で冷ましながら、遼が首をかしげる。
「いいけど、何を買ってくればいいんだ?」
「伸のものだ」
「………?」
「まずは、そうだな。伸用の水色のマグカップ。これだけは絶対だ。それから、伸の為の歯ブラシに茶碗、タオルにスリッパ。そうして、私達で伸の居場所を作って待っててやるんだ。当麻と約束しただろう」
「……それ乗った!」
秀が満面の笑みを浮かべて飛び上がった。
「じゃあ、マグカップと、あとカーテン買おうぜ」
「カーテン?」
「あの部屋、カーテンないじゃん。さっき荷物運び込んだ時、殺風景だなあと思ってさ。あそこ、確か、水色の…そうだ、海の絵が描いてあるやつがかかってたと思うんだよ」
「なるほど」
伸の好きな水色。それも空ではなく海の色。
半年前、この家で暮らすことになってから、それぞれの部屋のカーテンを何色にするかでお互い意見を出し合い、伸と秀の部屋では、伸の意見が採用された。
もうひとつ思い出した。
「わかった。では、マグカップとカーテンをお願いする」
「お願いする…じゃなくて一緒に行こうぜ。征士も」
秀が誘うと、征士は一瞬考えた後、意外にも首を振った。
「いや、私は遠慮しておく」
「なんでだよ」
秀の不満そうな声を制し、征士は微かな笑みを浮かべる。
「当麻から連絡があった時、皆で家を空けていてはまずかろう。私は残って部屋を掃除しておく」
「なるほどね。了解」
にっこり笑って秀が大きく頷く。
そして、善は急げとばかりに、珈琲を飲み終えたとたん、秀と遼は買い物に出かけていった。それを見送ったあと、征士は二階へあがり、静かにベランダへと続くガラス戸を開ける。
日差しが目に痛い。
ベランダの手すりに寄りかかり、征士は眩しそうに空を見上げた。
あの時、当麻と共に見た最後の伸の姿。熱風にひるがえったカーテン。
そして……。
「……烈火……」
征士の中の夜光が、黒曜石の瞳を持つ遠い友の名を呼んだ。

 

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