RE:スタート -第1章:癒えない傷口−(6)

「なんか、風がでてきたな」
少し雲行きが怪しくなってきた空を見上げて、秀がぽつりとつぶやいた。
「そろそろ帰ったほうがいいな。ひと雨くるかもしれない」
「じゃあ、伸達のとこに戻るか」
秀に先行する形で、遼は急ぎ、先程みんなと弁当を広げていた場所へと走った。
散歩道になっている細い下り坂を降り切ると、ひときわ大きな桜の木が目にはいる。見ると、当麻はその木の下で寝転がって目を閉じていた。
「なんだ? 当麻の奴、眠ってんのか」
伸のことを放っておいて爆睡するなんて、どういうつもりだと、そんな文句でも言ってやろうかと駆け寄りかけた遼の足が、駆けだしたその位置で止まった。
当麻がここ数日の間、確実に寝不足であったことは間違いない。
ひどい怪我をしていた伸だけではなく、怪我こそなかったとはいえ、最悪の体調だった征士。その二人分の治療と看病を当麻は一人でこなしていた。
もちろん秀も遼もできる限り手伝ったが、こういうことに手際の良い秀と違い、ただそばについていてやることしか出来なかった自分は、どう贔屓目に見ても三人の中で一番役にたってなかっただろう。
今、当麻はようやく眠れるようになったのだ。伸が目覚めるまで、あんなに神経を尖らせていた当麻も、やっと少しだけ余裕が出来たということなのだ。
きっと伸もそう思って、当麻を寝かせてあげたんだろう。
だとしたら今の自分にとやかく言う資格はない。
そう思いつつも、やはり気になって遼はキョロキョロと辺りを見回した。
伸が当麻を休ませてあげたいと思うことは理解できる。ただ、だとしても伸の姿が見えないというのは、どういうことだろう。眠っている当麻を置いて、あの伸が散歩に行くとは考えられない。恐らく近くにはいるばずなのに。
「いた……伸」
伸は、当麻から少し離れた場所でぼんやりと空を見上げていた。風を感じているのか、両手が僅かに広がっている。
「伸……?」
呼びかけようとした遼の声が、ふと止まり、訝しげに眉がひそめられた。
何か、よくわからないが、妙な違和感があった。
空を見上げる伸の周りだけ、空気の色が違って見えたのだ。
遼はゆっくりと伸のほうへ近づいていったが、伸は気付く気配もない。やがて、伸がそっと目を閉じるのが見えた瞬間、伸の身体が周りの風景に溶け込んで、だんだん透明になっていった。
「伸!!」
とてつもない恐怖と不安に駆られ、遼は伸の名を叫び、走った。
叫ぶ遼の声を聞きつけ、当麻も目を開け、すぐに伸の元へと走る。ひと足先に駆け寄った遼は、当麻を押しのけるように伸の腕を掴んだ。
一瞬透明に見えたと思った伸の腕の確かな感触に遼がホッと安堵の息を漏らす。
「……遼? どうしたの?」
「なんだ、どうしたんだ?」
戸惑った伸の声に、当麻の声が重なる。遅れて駆け付けた秀も不思議そうに当麻の後ろから顔を覗かせた。
「あ……ううん、なんでもない……」
当麻と秀が向ける不審げな視線に、遼は慌ててかぶりを振って掴んでいた伸の腕を離した。
「ちょっと、伸が具合悪そうに見えたから」
「……え?」
すかさず当麻が伸の腕を掴み引き寄せると、その額に手を添えた。
「熱が、上がってるな」
「え? ホント?」
自分が適当に言った言い訳が本当のことになってしまったのかと、遼は慌てて伸の顔を覗き込んだ。確かに少し伸の顔色は悪い。
「だ…大丈夫だよ。僕」
「お前の言う大丈夫は、大丈夫だったためしがないんだよ。おとなしく帰るぞ」
そう言って当麻は、秀に目で合図を送った。秀は小さく承知とつぶやき、背負い籠を取りに駆け戻る。
「遼、オレ達はこのまま一足先に帰ってるから、征士に事情を話して後から追いかけてきてくれ」
「わ……わかった」
青ざめた顔で踵を返し、伸を促して走り去る当麻の背中を、遼はやるせない思いで見つめていた。
やはり、外に連れ出すには時期が早すぎたのだろうか。無理をさせすぎてしまったんだろうか。もしかしたら伸は、自分達がはしゃいでいたから、具合が悪いことを言いだせなかったんだろうか。だとしたら最悪だ。
自分はただ、伸の笑顔が見たかっただけだったのに、これでは逆効果ではないか。
遼は、秀に背負われた伸の姿が視界から消えるのと入れ替わりに駆け付けてきた征士へ手短に事情を説明すると、急ぎ帰り支度を始めた。
「大丈夫かな……伸……」
隣で広げた弁当箱をまとめる作業をしている征士を横目で見ながら遼が聞く。
「当麻がついているから心配はないと思うが……しかし……」
「しかし……?」
征士が何か考え込むように口を閉じた。
「伸の様子が変だったのに、当麻が気付かなかったというのが妙だとは思わんか」
「当麻だって最近ほとんど寝てなかったから、疲れがたまってたんじゃないか?」
言い方が若干つっけんどんになってしまったのは、遼の自分自身への後ろめたさだろうか。だが、征士はそんな遼の態度には気付かず、難しい表情を崩さなかった。
「奴がいくら寝穢いからといって、伸の様子に気付かんほど間抜けではない」
「…………」
そんなことは解ってる。他の事はともかく、伸の事に関して当麻がどれ程神経を張りつめていたか、知らない遼ではない。だとすれば、その当麻に気付かせない何かが、伸の周りを覆っていた、ということなのかもしれない。
覆っていた何か。
「征士……」
「何だ?」
「さっき……さ、オレ、伸が消えちまうような気がした」
「…………」
「伸の身体がどんどん透き通っていって、向こうの景色が透けて見えたんだ。そんな事ってあると思うか?」
征士は驚いて遼を見た。今の遼の発言は、まさに今朝、伸に対して自分が抱いた不安と同じだったのだ。
透き通るような伸の笑顔。
以前の伸は優しげでこそあったが、決してあのような儚い笑顔はしなかった。
それなのに。
征士と遼は荷物をまとめ終えると、どちらが言ったわけでもなく、走り出した。
心に浮かんでくる不安を少しでも吹き飛ばすため、スピードを上げる。そうしないと、何かに間に合わないような気がしたのだ。

 

――――――「ごめんね、秀」
背負い籠から降り、ベッドに潜り込むと開口一番、伸が言った。
「謝る暇があったら、おとなしく寝てろ」
体温計を手渡し、シーツを整えてやりながら秀が言う。
「何も気にせず、悩まず。美味しいもん腹いっぱい食べて、ゆっくり寝てれば傷なんかとっくに治ってるはずなんだぞ」
「……だよね」
肩をすくめながら、伸が僅かに眉を寄せる。
「だから、ホント早く良くなってくれよ。お前の怒鳴り声がないと、毎日の張り合いがなくて、気が抜けちまうんだ」
元気づけようと明るく笑いながら秀が言うと、伸も少し笑顔をみせた。
透き通るようなその笑顔に、ほんの僅か赤みがさす。
「そうそう、それそれ。そうやって笑ってろ。笑った方が絶対早く良くなるから」
そう言って笑う秀の笑い声に重ねるように、ガチャリとドアが開き、氷枕を脇に抱えて当麻が入ってきた。
「お、氷枕ありがとな、当麻」
「……ああ」
秀は、当麻から氷枕を受け取ると、器用にタオルで包み、形を整える。
「これでOKっと…………当麻? どうかしたのか?」
当麻の表情がいやに強ばって見え、おもわず秀がそう聞くと、当麻は何故か無言のまま後ろに隠すように持っていた電話のコードレスの子機を伸の目の前に差し出した。
「……なに? 僕に電話?」
「そうだ」
伸が戸惑いながら当麻から受話器を受け取る。送話口からは微かな音で保留メロディのグリンスリーブスが流れてきていた。
「えと……誰から?」
「お前の待ち人だ」
「……え?」
伸は強張った表情で視線を受話器に落とす。
伸の待ち人。それはつまり。
「じゃ、オレ出てるわ」
ささっと氷枕を置き、秀が気を利かせて部屋を出ていった。すると当麻もそのまま秀の後を追うようにドアへと向かう。そして最後に伸がゆっくりと受話器を耳に当てる姿が見えたのを確認してから、当麻は部屋を出て扉を閉じた。
「当麻!」
タイミングが良いのか悪いのか、その時、当麻達に遅れて家に着いた遼と征士が、ちょうど家に戻って来たらしく、二階へと駆け上がって来た。
「当麻、伸の様子は?」
遼が息を切らせながら聞いてくる。
「ああ……大丈夫」
遼の問いかけに答える当麻の口調は何故か歯切れが悪い。
「熱は?」
「微熱程度だ。氷枕を作って渡しておいた」
「そうか……ちょっと顔見てきていいか?」
「それは少し待ってくれ。伸は今、電話中なんだ。だから……」
「電話って……誰?」
「もしかして……正人か?」
詰め寄る遼を遮って発された征士の言葉に、遼がはっとして当麻を見た。当麻は一瞬の迷いのあと、こくりと頷く。
「そうだ」
伸が話してる電話の先に、正人がいる。当麻の答えに、おもわず遼は部屋のドアノブに手をかけようとした。
「入るな。遼」
「でも……」
「今はダメだ。それと、征士、ちょっといいか?」
当麻が探るような視線を征士に向ける。
「どうした、当麻」
「……征士……お前、あの時、正人と目があったと言ったが、確かか?」
「あの時……? 何のことだ」
「あの時だよ。伸を連れて過去から戻ってくる時」
あの時。違和感のあるゼリーのような空気の中。道行く人たちは誰も自分達を認識しなかった。もちろん正人も同様だったはずだ。
腕組みをして壁にもたれた姿勢のまま征士が僅かに首を振った。
「いや……それは、私の気のせいかも知れない。なんせ、奴には私達が見えていなかったはずだから」
「本当に見えていなかったか?」
「……?」
「ちゃんと考えてくれ」
「当麻、いったい何を言ってる」
「……正人が、伸の傷のことを知っていた」
低い声で当麻が言った。
「……え?」
征士の眉間のしわが深くなる。
「どういうことだ」
「電話がかかって来たのは、オレ達が家に戻ってきてすぐだった。まるで何処かで見ているかのようなタイミングでだ」
「それは、いくらなんでも気のせいだろう」
「そうかもしれない。でも奴は電話を取ったオレに何の躊躇もなく、伸を出してくれと言ったんだ。それから、伸の怪我の具合はどうなのか、と」
「……怪我の具合」
征士の表情に緊張が走った。
「もちろん俺は伸の家族にも、奴の家族にも、誰にも伸の傷のことは言っていない。なのに奴は知っていた。これは、どういうことだ」
「…………」
「奴は……何者だ……征士」
あの時、伸を抱えて飛んだ瞬間、はっきりとではないが、一瞬だけ目があったような気がした。
あの漆黒の、黒曜石のような瞳で、正人は真っ直ぐにこちらを見た。
もしかして、正人は見えないはずの自分達を見たのだろうか。あの時、あの印象的な瞳で。
まさか。
征士は無言で首を振った。
と、その時、バタンと大きな音を立てて、伸の部屋の扉が開いた。
「遼! お前!」
「オレは何もしてない! 勝手に扉が……」
遼が必死で首を振る。当麻が遼を押しのけるようにして部屋の中に飛び込むと、伸のベッドの向こう側にある大きな窓が全開しており、カーテンがふわりとひるがえった。
「伸?」
ベッドの上で、伸は目を閉じていた。眠っているのとは違う。突然意識をなくしたかのような状態だ。その証拠に、投げ出された受話器からは、通話終了のツーという長い音が微かに鳴っているのが聞こえている。
「伸!」
急いで駆け寄ろうとした当麻の身体が次の瞬間、金縛りにあったように停止した。一瞬遅れて部屋に飛び込んで来た征士も同様に停止する。そして、その目が一点を凝視して大きく見開かれた。
「……まさか…そんな……」
伸は眠っていた。ベッドの上に。
そして、そんな伸を愛おしそうに見つめるひとつの影があった。
漆黒の髪。黒曜石の瞳。
眠っている伸を見下ろしているその青年を、当麻はとてもよく知っていた。
「……烈火……」
押し殺した声で、当麻はその青年の名前を呼んだ。
名前を呼ばれたことに反応してか、その青年は顔をあげ、視線を当麻へと向けた。そして、その視線はそのまま真っ直ぐに征士へと移る。
部屋の中の温度が一瞬あがったかのように思えた。
やがて、真っ直ぐな瞳をしたその青年は、静かにひとつの言葉を綴る。
“水凪を……水凪を連れて行ってもいいだろうか……”
「…………!?」
熱い風が部屋の中を吹き抜ける。
青年の。烈火の髪がなびく。
当麻は、ありったけの想いを込めて烈火を睨み返した。

 

――――――次の日、伸が消えた。

第1章:FIN.      

1999.12 脱稿(旧作) ・ 2018.8.18 大改訂    

 

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