RE:スタート -第1章:癒えない傷口−(5)

無事目覚めはしたものの、その後の伸の状態はあまりおもわしくなかった。
さほど酷くはないとはいっても、微熱がずっと続き、背中の傷の治りも遅かった。少しでも無理をすれば、すぐ発熱し、そのため歩き回ることもままならず、ずっとベッドに縛りつけられたままの状態だった。
毎日の食事は、名目上は交代で。実際は、なんとか他の者より多少は料理の腕を持っている秀が、中華中心の食事を作っている。
「ごめんね」
皆が慣れない家事全般をこなしているのをベッドから眺めていることしか出来ないというこの状況は、伸の性格からして、気にするなというほうが無理なのだろう。
だが、とにかく今は自分の身体を第一に考えろとの、当麻からのきつい一言に抵抗することも出来ず、伸はここ数日ずっと天井とにらめっこする日々を過ごしていたのだ。
「治りが遅いな。昔からそうなのか?」
包帯を替えてやりながら、背中の傷を見て征士が言った。
切り裂かれたような生々しい傷跡は、まだ少しも治ってくる気配をみせない。
「そんなに大怪我した事ないから解らないけど、別に普通だったはずだよ」
痛みに顔をしかめながら、伸が答える。
「すまん。痛むか?」
包帯をきつく巻きすぎたかと思い、手を止めた征士に、伸は大丈夫だと笑ってみせた。
「ごめんね、征士。迷惑かけて」
「何を言う。普段、皆の世話をあれだけしているんだ。こういう時くらい自分中心に世界を廻しても誰も文句は言わんぞ」
救急箱の蓋をしめながら征士が言った。
伸は征士の手渡してくれた洗濯したてのパジャマに袖を通しながら、やっぱりすまなさそうに肩をすくめている。
白い肌に包帯が痛々しい。
そういえば伸はこれ程、華奢だったのだろうかと、征士は伸の背中を見つめて思った。
透き通るような白い肌。細い首。今にも消えて無くなりそうな儚い伸の笑顔が征士を不安にさせる。
「……伸」
なんだか、捕まえていなくては消えてしまうんじゃないかと、知らず知らずのうちに征士は伸の腕を掴んでいた。
「……何? 征士」
少し戸惑ったような伸の声にふと我に返り、征士は掴んでいた腕をはなす。
「何でもない……」
「……?」
不思議そうな目で伸は征士を伺っている。その瞳の色さえ、以前より少し淡くなっているような気がするのは気のせいだろうか。
気のせいだと、そう思いたい。
「……早く良くなれよ」
征士にはそう言うのがやっとだった。
「……やっぱり優しいね征士は」
「何をいきなり……」
伸の言葉に焦り、少し赤くなる征士を見て、伸がくすくすと笑った。
「……にしても、よく無事に戻ってこれたよね。僕ら」
部屋の空気を入れ換えようと、窓を開けた征士の背中に向かって伸が言った。
「あの時は必死だったからな」
「どうやって戻ったの?」
意識を失っていた伸には、そのあたりの記憶はほとんどない。だが征士が覚えているのも、ただただ自分が必死だったことだけだ。
考えていたのは、どんなことをしても伸を連れて帰らなければということ。
必死で願い、望み、祈り。そして気が付いたら柳生邸の玄関先に現れていた。
「私にもよく解らないんだ。ただ、お前の傷を見た時、何が何でも早く皆の所へ戻らなければ……と、それだけを考えていた」
「うん……その判断は正しいよ。僕もきっと、此処へ戻りたかったんだ。此処が僕のいるべき場所だから」
風が少しのびた伸の前髪を弄んでいた。うつむくと少女のようにも見えるその顔を見つめ、征士は小さく息を吐く。
何か言ってやりたくて。でも、何を言えばいいのか、どうしても解らなくて。
「そうだ、伸、そのうち身体の調子が良くなったら、皆で遠出しないか?」
とっさの思いつきで征士はそう言った。
「えっ?」
「そんなに無理をさせるつもりはない。ずっと家の中にいると気分も滅入るだろう。外に出たら気も晴れるだろうし、身体にも良いのではないか?」
「……そう…かな? でも迷惑かけちゃわない?」
「何が迷惑だ。お前は気にしなくていいと先ほども言ったはずだ」
「でも……」
「いいから決定だ。少し待っていろ。皆にも相談してくる」
「せ…征士?」
恐縮する伸を置いて、さっそく征士が皆の所に行こうとドアを開けたとたん、まるでそれを待っていたかのように秀が顔を出した。
「なら、そのうちなんて言わずに、今日、行こうぜ!」
「秀! いつからそこにいたんだ」
征士が多少うろたえて、入り口の秀を睨みつける。
「いや〜ちょっと前からなんだけど、なんか入るタイミングが見つからなくてさ」
まったく悪気のなさそうな顔で秀がにっこりと笑った。
「でも、秀、今日なんて無理だよ」
ベッドの上から伸が言うと、秀はにやりと不敵な笑いを口元に浮かべた。
「なんで無理なんだ?」
「だって、まだ僕そんなに歩けないと思うし、迷惑かけるだけだよ」
「何言ってんだよ。お前は一歩も歩く必要はないよ。オレが連れてってやるから」
「えっ……?」
「お姫様抱っこしてさ♪」
満面の笑みで秀が言い切った。
「……じょ、冗談じゃない!! 誰が……!!」
真っ赤になって反論しかけた伸を手で制し、再び秀がにっこりと笑った。
「……と、お前が言うだろう事なんて、この秀麗黄様はお見通し。……んで、考えたんだけどさ」
「何を……?」
「遼! 入って来いよ!」
秀の言葉に征士と伸がドアの方を伺うと、遼が何か抱えて部屋に入ってきた。
「何? それ……」
遼が抱えていた物は、ダイニングの背もたれ付きの椅子を改造した背負い籠だった。
「背負い籠だよ。知らないのか?」
「しょいこ?」
「ほら、アルプスの少女ハイジで、足の悪いクララの為に、おじいさんだっけペーターだっけが造ってたろ。背中にクララを乗せて、担いで山に登ってたじゃん」
見ると確かに遼の持っているそれは、椅子の背にリュックのように肩布を付け、両肩で担げるようにしたものだった。
そうか。昔話に出てくる、薪を担いで運ぶあれ、背負い籠っていうんだ。と、なかば感心しながら、伸は遼のもっている背負い籠をまじまじと見つめた。
「これなら、楽に連れて歩けるし、伸も疲れないだろ」
「それはそうだろうけど……どうしたの、それ」
「もちろんオレと遼で造ったんだ」
得意そうに胸を張り、秀が答えた。
「夕べから何を二人でこそこそしているのかと思っていたら、こんな物を造っていたのか」
伸の隣で征士も感嘆の声をあげる。
「よかったらこれで出かけようぜ。……もちろん伸がいいなら、だけど」
少しの不安と、山ほどの期待を込めた目で遼は上目づかいに伸を見上げる。伸がそんな遼の顔を見て断れるはずもない。結局、伸は多少苦笑しながらも大きく頷いていた。
「ありがと。遼、秀。じゃあお言葉に甘えて出かけようかな」
「やったーー!!」
飛び上がって子供のように喜ぶ二人を、慌てて征士が止めに入る。
「こら、あまり騒ぐな!」
「いいじゃん別に。さっそく用意しようぜ」
「どうせなら、お弁当作って、外でお昼食べないか?」
「あ、いいなそれ」
「今日はいい天気だし、公園にでも行こうぜ」
騒ぐ二人を抑えつつ、征士がなるほどと頷いた。
「そうか、中央公園か」
この家から小一時間程歩いた先に、少し大きな公園があった。秀の体力を考えれば、伸を担いで歩いたとしてもたいした距離ではないだろう。
更にはしゃぎまくる二人を見て、征士も伸も楽しそうに顔をほころばせた。
「じゃあ、よければお弁当、僕に作らせてよ」
伸がそう言ってベッドの上で身を乗り出した。
「でも、大丈夫なのか? 伸」
一瞬はしゃぐのを止めて、遼が訊ねる。
「大丈夫だよ。別に歩き回る訳じゃないし、おにぎりくらい握れるよ」
「なら、そっちはオレが手伝うよ」
いつの間にか入り口に立って事の成り行きを見ていた当麻が言った。
「当麻、いつの間に」
「あれだけ騒げば誰だって見に来る」
あきれた顔をしてそう言い放つと、当麻はすたすたとベッドのそばへ来て、伸を両腕で抱き上げた。
「ちょっ……当麻!」
「善は急げ。ということで、キッチンへ行こうぜ、伸」
「降ろしてよ、当麻! 自分で歩ける!」
暴れる伸を押さえ込み、当麻はしっかりとお姫様抱っこの体勢で、伸を抱えなおす。すると、その表情が一瞬だけ曇った。
「……お前、軽くなったな」
「えっ……?」
やけに真剣な当麻の言葉に、伸が一瞬身体を硬くする。
「そ……そうかな?」
「ちゃんと食べてないからだろう。まるで女の子を抱いてるみたいだぞ」
当麻の台詞に少しむっとして伸が答える。
「君がもう少し上手にご飯を炊いてくれたら、おかわりする気にもなるんだけどね」
久々に聞く、伸の毒舌だった。
「そりゃ、夕べの飯に芯が残ってたのは認めるけど……」
「その前は柔らかすぎたよね」
「ちゃんと分量計ったはずなんだけどな……」
眉間にしわを寄せる当麻を見て、伸が軽やかに笑った。
笑うと、透き通るような肌にも、少し赤みがさしてくる。
そんな伸を愛おしそうに見つめ、当麻は結局そのまま伸を抱いてキッチンへ降りていった。

 

――――――「やっぱ、伸の作った物は美味いぜ!」
大口を開け、おにぎりを口いっぱいに頬張りながら、秀が感嘆の声を上げた。
静かな公園の中で伸の作ったお弁当をみんなで食べる。それなりに広い公園だが、雑誌に載るような有名所ではないし、人影もほとんど見当たらない。
だからだろうか、皆、なんだか自然を自分達だけで独占しているような気分になっていた。
「何が違うのだろうな」
自分の作る料理の不評さと比較して、征士は真剣な表情で黄金色の卵焼きをつまみあげた。すると、隣で恐縮したように肩をすくめていた伸が慌てて征士の手を止める。
「あ、それはちょっと甘めに作ったから遼の分だよ。征士のはこっち。出汁巻きふうのやつ」
「え? 味が違うのか?」
「いちおう三種類作ってきたんだ。みんなの好みの味にしようと思って」
そういえば、おにぎりも征士の好きな梅干しと、当麻の好きな鮭、秀や遼が好んで食べるおかかと、バラエティに富んでいる。
「さすが。すげえ」
当麻が自分好みの味に仕上げた卵焼きを口いっぱいに頬張った。
「なんというか、職人だな」
「そこまでじゃないけどね。もともとよく料理はしてたから」
「それって、実家にいた時も作ってたってことか?」
遼が卵焼きを頬張った口のままで訊ねると、伸はちょっとだけ困ったように視線をさまよわせた。
「……実家っていうか、正人の家で」
「……え?」
箸の動きを止め、当麻がじっと伸を見た。伸はその視線を避けるように遼のほうを向く。
「正人の家は両親共働きだったからね。たまに僕が夕食作りに行って、そのまま泊まったりとかしてたんだ」
「へえ……そんなにまで。さすが幼馴染」
遼が感心しながら卵焼きを飲み込んだ。
「そうだね。家も近所だし、幼稚園の頃からずっと一緒だったから、兄弟みたいなものだね」
「そっか……」
出会ってから今まで。たった半年といえばそうではあるが、それでもその間、自分達はかなり密度の濃い時間を共に過ごしていたはずなのに、遼は伸の口から正人の名前を聞いたことがなかった。
もちろん、その理由は分かりすぎるほど分かる。
だが今、伸はこうやって自分達の前で正人の名前を出して話が出来る。
出来るようになったのだ。
「良かったな。伸」
遼が言った。
何故なら、今、正人は生きているのだ。
ちゃんと、元気に、生きているのだ。
「良かったな」
もう一度、噛みしめるように遼が言うと、伸は微かに微笑んだ。
「疲れてはいないか? 伸」
征士が皆のマグカップに冷やしたお茶を注ぎながら聞いた。
「平気だよ。僕自身は全然歩いてないんだし、秀の背中は居心地良かったから」
「へへっ」
征士からお茶を受け取りながら得意そうに秀が笑った。
此処へ来る道中、秀は背中の伸が疲れないようにと、なるべく揺らさないよう細心の注意を払って歩いてきた。かなり神経を使ったろうに、それをおくびにもださず、元気に笑っている。
「あー腹一杯。なあ、遼。腹ごなしにちょっと近くを探検しないか?」
お茶を一気に飲み干し、秀はおもむろに立ち上がった。久しぶりの自然の中、野生児の血がうずいて仕方ないのだろう。
「え……でも……」
「行っておいでよ、遼」
とまどった表情で遼が伸の方を見ると、伸はにっこり笑って頷いた。
「僕は大丈夫。ここでおとなしくしてるから」
「わかった。じゃあ、ちょっとだけ行ってくる」
伸の言葉に安心したように頷き、遼はそのまま先に走りだした秀の後を追って森の中へ駆けて行った。
「さて……と。では私も食後の運動をしてくるか」
広げてあったお弁当の空箱を簡単にまとめると、征士もすくっと立ち上がる。その手には竹刀が握られていた。
「何、征士、わざわざ竹刀を持ってきたの?」
「やっと体力も戻ってきたのでな。あまりさぼると腕がおちる」
「相変わらず真面目だねえ。いってらっしゃい」
「ああ」
征士が竹刀片手に茂みの向こうへ消えていったとたん、残った伸と当麻の頭上で木の葉が風にざわめいて揺れたのがわかった。急に風が吹いたわけではないので、いっきに人数が減ったため、木の葉の擦れる音がやけに大きく聞こえただけなのかもしれないが。
「君は行かないの?」
「ああ」
伸の問いかけに当麻が頷く。
「僕に遠慮することないよ。行けば?」
「オレは此処にいたいの。それともオレがいたら邪魔か?」
すかさず切り返してくる当麻に少し戸惑いながら、伸はおもわず首を振った。
「そんなことはないけど……」
「なら、いいじゃないか」
飲み終えたカップを地面へ置くと、当麻は両手をあげ、気持ちよさそうにのびをすると、伸の隣に寝転がった。
「ごめんね、当麻」
膝を抱えて当麻を見下ろしながらつぶやくように伸が言った。
「なにを謝るんだ?」
「それは……いろいろ心配かけちゃったから。最初にこの傷の処置をしてくれたのも君だし」
「それなら、必要な言葉はありがとうだろ。間違うな」
「そっか……ごめん…じゃなくて、ありがと」
「…………」
木漏れ日が当麻の顔の上に光の輪を作る。
「傷の具合はどうだ?」
「……ぼちぼち…かな」
そう答えてはいるが、伸の顔色はまだあまり良くはない。
「征士がお前の傷の治りが遅いと気にしていた」
「…………」
伸は一瞬だけちらりと当麻を見て、すぐに逃げるように視線をそらせる。
「お前の背中の傷は、普通の傷じゃない」
「…………」
「だから、その傷は普通の傷のようには治らない。お前が心をしっかり持たなきゃ、いつまでも治らないぞ」
「わかってる……」
起きあがった当麻は、伸の腕を掴むと自分のほうに向き直らせた。
「本当にわかってるのか?」
「……当麻?」
「お前はちゃんとオレ達の所へ帰ってきた。……それなのに何を不安がってる」
「……別に……なにも……不安がってなんか……」
「だったら、なんで」
いつまでたっても傷が治ってくる気配を見せない。
当麻の無言の追求から逃れるように手を振り払い、伸は困ったように眉を寄せた。
「僕にもわからないよ。ただ……」
「ただ? ただ、なんだ」
「どうしていいかわからないんだ。だって……」
伸の緑の瞳が不安げに揺れた。
「……だって、この傷が治ってしまったら本当に全部消えてしまうじゃない」
「…………」
「僕がしたことの罪もなにもかも、消えてなくなってしまう……」
「罪? 何を言ってるんだ、お前は。罪ってなんだ」
当麻の声が鋭さを増した。
「お前はちゃんと奴を、正人を救ったじゃないか。言ったろう。もう正人は死んでない。ちゃんと生きてる。お前に罪なんかどこにもない」
「罪はあるよ、当麻」
そう返してきた伸の口調はやけに冷静だった。
「時空を歪めて、あったことをなかったことにして、あの出来事そのものをなくしたとして、それでどうして僕の罪がなくなるの? そもそもあの時あそこに僕がいなかったら……僕が僕じゃなかったら、僕が正人の幼馴染でなかったら……そうしたら、あんなことは起こらなかったのに」
伸が伸ではなかったら。
伸が水滸で。鎧戦士でなかったら。
そうしたら、あの時、あんな場所に妖邪兵は現れなかった。
正人が死ぬことはなかった。
だから。
今更のように思い知る。
やっぱり。正人の死は伸の中に存在する罪の結晶だったのだ。
「だとしても」
噛みしめるように当麻が言った。
「たとえそうだったとしても、お前が正人を救ったことは事実だ」
「うん、それでも……ね。それでも、僕だけは、あのことをなかったことにしちゃいけないんだ」
「……伸」
「僕がいた所為で、僕と幼馴染だった所為で、正人はあんな目にあったのに。それを全部なくして、全部忘れて、全部消しちゃうなんて……そんなこと許しちゃいけないんだ」
「…………」
やっとわかった。
どうしていつまでも伸の背中の傷が治らないのか。
この世界から消えた正人の死。それなのに消えてくれない罪の記憶。
誰も裁いてくれない自分の罪を、伸は自分が代わりに裁こうとしているんだろうか。
あれ程望んだ正人の命。助けたかった命。後悔なんて決してしてはいない。
でも。それでも。
それでも、伸の傷は治らないのだ。
「ごめんね、当麻」
「なんで俺に謝るんだよ」
「だって、君、とても辛そうな目をしている」
伸がそっと言った。
当麻は無言で掴んでいた伸の腕を放すと、再び地面に寝転がり、そのまま伸に背を向けるように横を向くと、固く目を閉じてしまった。
太陽が雲に隠れ、少しだけあたりが暗くなっていく。
そんな中、伸は膝を抱えたまま、ずっと当麻の寝顔を見つめていた。

 

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