RE:スタート -第1章:癒えない傷口−(4)

伸のベッドの横の椅子に腰掛け、少しうとうとしていた遼が目を覚ましたのは、深夜。時計が午前二時を指したときだった。
伸の顔をのぞき込んで額に手をあててみるが、額は相変わらず熱いまま、いっこうに熱が引く気配すらない。確認してみると周りに用意してあった氷はすべて溶け、すっかり水、というかもうお湯になってしまっている。
「これじゃ駄目だな」
そうつぶやき、遼は氷を替えるため急いで階下へと降りていった。
冷凍庫の中から氷を取り出し、洗面器にあける。少し水を足し新しいタオルを用意する。
「遼、伸の様子はどうだ?」
キッチンの物音に気付いてか、当麻が後ろから声をかけてきた。
「まだ、熱が下がらないんだ」
「そうか……傷口の具合は?」
「血は滲んでなかったから、化膿はしていないと思うけど、何とも言えない」
「わかった。じゃあ、あとはオレが見てるから、お前はもう寝ろ」
そう言って当麻はいきなり遼の手から氷水の入った洗面器を取り上げた。
「当麻!……でも……!」
伸が目覚める時は、絶対そばにいてやりたいのだと、あれから遼はずっと伸のそばを離れようとしなかった。ほとんど寝ていないせいで、目の下に隈をつくっているその顔をじろりと睨みつけ、当麻はビシッと遼に向かって指を突きつけた
「わがままもいい加減にしろ。今、お前にまで倒れられたら迷惑するのはこっちなんだ。言うことを聞け」
当麻の言い方は有無を言わせない強さがあった。
でも、当麻が言葉のきつさとは裏腹に、本気で遼の身体を心配しているのは解りすぎるほど解るのだ。いつも自分の体力を考えず、無茶をして迷惑ばかりかけてきた遼としては、ここはおとなしく引き下がるしかなかった。
「わかった……」
渋々頷き、遼は二階へ行く当麻を見送ると、バスタオルを手に浴室へと向かった。
熱いシャワーを浴びて人心地つくと、とたんに眠気が襲ってくる。随分自分は疲れていたんだと、遼はその時、初めて気付いた。
重い足取りで階段をあがる。
伸の部屋の前を通り過ぎる時、薄く開いたままのドアの向こうに、当麻の姿が見えた。今夜はこのまま当麻が伸のそばについていてくれるのだろう。
だから、もう自分の出番はない。
ただせめて寝る前にもう一度伸の顔を見ていこうと、ドアに手をかけた遼の動きが、その時ふと止まった。
「…………」
明かりのついていない部屋の中で、当麻の姿は月の光に照らされてシルエットになっている。
そっと伸の顔に浮かぶ汗を拭いてやっている当麻を見て、遼ははっとした。そう言えば、当麻こそずっと一睡もしていないのではなかったか。
直接伸のそばにいることはなくても、当麻は全神経を傾けて、伸の様子を探っていた。
遼が氷を替えようと階下へ降りる度、伸の様子を聞きに来た。
伸の熱があがりだすと、必ずドアの向こうから様子を見に来た。
そして今、月の光の中で、当麻はじっと伸を見つめている。どうしようもない程、切ない瞳をして。
遼はドアに手をかけたまま、部屋にはいることも、そのまま去ることも出来なくて、しばらくドアの隙間からそんな当麻の姿を見ていた。
いつも見慣れていたはずの当麻の横顔が、なんだか初めて見る人のように思えた。それは、きっと伸を見つめる当麻の表情があまりにも苦しそうだったからだろうか。
いつもマイペースで飄々としていて、何を考えているのかわからなくて。どちらかというと当麻は人に自分の感情を読み取られることを嫌がる性格だったはずだ。
それなのに。
今の当麻は、信じられないくらい感情がむきだしになっているみたいに見える。
それだけ、当麻は切羽詰まっているのだ。
感情を殺すことが出来ないほど、ギリギリの状態なのだ。
そう思うと、何故か遼の胸がズキンと痛んだ。
なんだろう。
これは、何の痛みだろう。
しばらく後、当麻は伸のそばを離れ、サイドテーブルの脇に置いてあった、伸が目を覚ましたら飲ませようと用意していた解熱剤や化膿止めの薬を、細かく砕きだした。
プラスチックの皿の中で、錠剤が少しずつ砕かれて、粉末状になっていく。
そして、完全に粉末になった薬を当麻はコップの水に溶かし、素早くかきまわした。やがて、すっかり薬が溶けた水をひとくち口に含むと、当麻は眠っている伸の上に覆い被さるようにベッド脇に腰をおろした。
当麻の指が伸の細い顎をとらえ、少し持ち上げると、わずかに伸の唇が開く。
伸の顎を手で固定し、当麻はゆっくり伸の唇に顔をよせた。
ふたりのシルエットが重なり、やがて伸が水を飲み込むコクリという小さな音が聞こえる。
「…………!」
なんとなく見てはいけないものを見てしまった様な気になって、遼はとっさに向かいの部屋のドアを開け、中へ飛び込んだ。
音を立てないようにドアを閉めると、そのまま床へ座り込む。
何故か心臓が早鐘を打ったように早かった。

 

――――――「遼……?」
いきなり入ってきた人の気配に征士が目を覚ました。
「……あ、ごめん」
とっさに飛び込んでしまった部屋が、征士達の部屋だったなんて……と、遼は隣の少しも乱れていない当麻のベッドを見て項垂れた。
やっぱり、そうなのだ。
あのベットは、あんなにいつもよく眠っている当麻が、仮眠すらとっていない証拠だ。
「どうかしたのか? 遼」
征士が訊ねる。遼は何でもないと首を振り、征士のそばまで来ると、そのままベッドの端にもたれるように床に座り込み、膝を抱えてうずくまった。
「遼……?」
征士が心配げに遼の顔を覗き込んだ。征士の瞳を見ていると、まるで何もかも見透かされそうで、遼はおもわず視線をそらしうつむいた。
「大丈夫か?」
「……ああ、大丈夫」
と言いながら、遼の頭の中には先ほどの光景が残ったままだ。
当麻と伸の重なったシルエット。
ボッと、遼の頬は火が付いたように熱くなった。
汚いと思ったわけじゃない。むしろ綺麗だと思った。でも、実際、目の前で生のキスシーンを見たのは初めてのことだ。
いや、違う。あれはキスシーンではない。単に口移しで薬を飲ませただけだ。意識のない人に薬を飲ませるには、ああするのが一番なのだろう。だから、きっと当麻に、そういう気持ちはない。
ないはず。なのに。
だったら、どうしてさっきの場面はあんなに妖しく、綺麗に見えたんだろう。
「なんか……かなわないな、オレ」
「…………?」
「オレ、当麻にかなわない」
誰に聞かせるでもなく、小さく遼がつぶやく。
そしてそのまま再びうつむいてしまった遼を、しばらくなすすべもなく見つめていた征士は、そっとベッドから降り、遼の隣に同じように座り込むと、シーツで遼の身体をくるむようにして抱きかかえてやった。
「征士……」
「なんだ……?」
征士の肩に頭を預けながら、遼が消え入りそうな声でつぶやいた。
「伸……良くなるよな。目……覚ましてくれるよな……」
「もちろんだ……私達がこれ程、必死で願っているんだ。きっと元気になる」
「……うん……」
征士の言葉に頷く遼の目から、不意に大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……伸…………」
遼の口から小さな嗚咽がもれる。征士は遼の肩にまわした腕に力をこめた。

 

――――――次の日、遼の祈りが通じたのか、当麻が飲ませた薬が効いたのか、ようやく伸の熱が下がりだした。相変わらず目は閉じたままではあったが、それでも表情がこころなしか少し穏やかに見えるのも気のせいではないようだ。
そして、熱が下がるのと同時に意識も覚醒を始める。手を握るときちんと反応が返ってくるようになってきたのを見て、ようやく当麻は、伸の目覚めももうまもなくだろうという宣言を出すことができた。
そういうことならと、秀は喜び勇んで伸が目を覚ましたら食べさせようと中華風スープ作りに励みだし、体力の戻ってきた征士も秀を手伝うためキッチンへこもっている。
遼は伸のベッドの脇に座り、少し血の気の戻ってきた伸の顔をじっと祈りを込めて見つめていた。
やがて階下から聞こえてきていたパニック状態の秀の声がだいぶ落ち着きだし、美味しそうな匂いがしてきた頃、伸の瞼がピクリと動いた。
「……伸…………」
遼の呼びかけに反応し、ゆっくりと伸が目を開く。綺麗な伸の緑の瞳が、長い睫毛の間から覗き見えたとたん、こらえきれなくなって遼の目にじんわりと涙が溢れ出した。
「……遼……?」
「伸……よかった……伸……伸……!」
他の言葉を忘れてしまったかのように、遼は伸の名前を呼び続けた。
その遼の声を聞きつけ、当麻が部屋に飛び込んでくる。遅れて階段を駆け上がってくる二つの足音も聞こえた。
当麻は伸のそばに駆け寄ると、額に手を当てて熱がないか確かめた。
「よし、大丈夫そうだな」
安心したように笑う当麻見上げ、伸が僅かに首をかしげる。
「え…と」
「気分はどうだ? 頭痛は? 吐き気は?」
「別に……気分は悪くないよ……?」
「身体のどっか、特に痛むところとかないか? ま……背中は、まだ痛むだろうが」
「いったいどうしたの? やけに大げさだね」
矢継ぎ早に質問責めにする当麻を、伸は驚いた顔で見上げ、次いでよく状況を把握できないといったふうに、視線を遼のほうへと向けた。
「大げさにもなるさ、お前、三日も意識がなかったんだからな」
ようやく二階へあがってきた秀が、どかどかと部屋にはいって来た。
「……三日も? …って痛っ……」
驚いて身体を起こそうとした伸が、次の瞬間、背中に走った激痛の為、顔をしかめた。慌てて遼が手を差し出し、伸の身体を支える。
「大丈夫か? 伸」
「あ…うん……」
遼に支えてもらいながら、今度こそ身体を起こした伸が、部屋の入り口に立つ秀と征士の姿を見て絶句した。
「二人とも、どうしたの? その格好」
伸のお気に入りのエプロンを着け、右手に菜箸を持ち、何故か頭にねじりはちまきをしている秀はまだいいとして、征士はナスティが以前使っていた女物のフリルの着いたエプロンに、手には鍋の蓋を持って立っていたのだ。
「どこか変か?」
きょとんとした顔で征士が訊ねる。
「変……って……」
二の句が継げない伸の様子に追い打ちをかけるように征士が言った。
「なかなか似合うと思っているのだが」
「…………」
「やっぱ、お前って、時々おもしろいな、征士」
秀の言葉が引き金になって、ついに伸が吹き出した。そして再び次の瞬間背中を走った激痛に顔をしかめる。
「……痛っ……」
「こら、あんま笑わせるなよ。傷口開いたら大事だぞ」
「……うゎ……」
当麻の指摘に慌てて秀が両手で口を覆い、笑い声を止めた。そして、これ以上ここで騒ぐのもなんだと言って、作りかけのスープの仕上げの為、いそいそと階下へ戻っていく。
伸は遼が用意してくれた特大クッションを背中に当て、再びベッドに身を横たえると、ほうっと息をついた。
「背中、痛くないか? 伸」
クッションの具合をなおしながら、遼が聞く。
「ありがと、遼。大丈夫だよ」
にっこり笑う伸の笑顔を見て、またじわりと遼の涙腺がゆるみだした。
「ちょっ……遼、どうしたの?」
遼の涙に伸が焦って訊ねると、遼はそのまま伸の首にすがりついた。
「……心配したんだぞ……すごく……このまま目覚めないんじゃないかと思って」
「遼はお前が目を覚ますまではって、ずっとついて看病してたんだぜ。感謝してやれよ」
横から当麻が言った。
「僕……そんなに具合悪かったの? だいたい、いつ怪我なんかしたんだろう」
「何も覚えてないのか?」
ドアのそばで、脱いだエプロンを丸めながら、征士が驚いて伸を見た。
「え……?」
伸はキョトンとした顔で征士の方を見返す。
「何もって……?」
「伸、ゆっくり考えながらでいいから、答えてくれ。どこまで覚えている?」
真剣な顔をして当麻が伸に詰め寄った。征士もエプロンを小脇に抱え、当麻の隣に立つ。
「どこまでって……」
「私と新宿にいた事は覚えているか?」
「ああ、そう言えば……そうそう、征士と合流したあと事故が……車の接触事故があったんだよね」
伸の頭の中で、少しずつ、記憶の糸が紡ぎだされる。
「急いで現場に駆けつけて……男の子が一人、崩れたブロック壁の下敷きになってたんで、助けてあげて……」
「その少年の名前、覚えているか?」
「名前?……えっと、確か……」
そこで伸の言葉が途切れた。

“まさとちゃん!!”
人混みをかき分け、飛び出してきた女の人。
“お母さん!!”
そう叫んで母親にしがみついた少年。
その時、耳をつんざくような爆発音と、自分の名を呼ぶ征士の声が重なり。

「ま……さと……」
伸がすがるような目で征士を見た。
「……あれは……」
「…………」
「……あれは……何?……夢……?」
「夢じゃない」
きっぱりと当麻が言った。
「何故なら、木村正人は、今、生きてる。お前は正人の命を救ったんだ」
伸の目がこぼれ落ちそうな程、大きく見開かれた。
「ま……さ……か…………そんな……」
信じられないといった目をして伸が当麻を見上げた時、階下から秀の大声が聞こえてきた。
「おーい! 誰か運ぶの手伝ってくれー!」
「……わかった! すぐ行く!……征士、行こうぜ」
とっさに答えた遼は、征士を促し、急いで階下へと降りていった。
伸は出ていく二人の方には目もくれず、じっと微動だにせず当麻を見つめている。
「信じられないって顔だな」
「そりゃ……だって……そんなの」
「じゃあ、お前はあれが夢だったというのか? だとしたら今のお前のその背中の傷の理由をどう説明する気だ」
「背中の……」
正人をかばい、妖邪兵につけられた傷。
振り下ろされた鎖鎌。背中に走った激痛。そして驚きに見開かれた正人の目。
夢というにはあまりにもリアルな記憶。
「ま、とりあえず、これを見たら納得するんじゃないか?」
不自然なほど明るくそう言って当麻はおもむろに手に持っていたものを伸のベッドの上に投げて寄越した。
「何? これ」
「聞いて驚け。これは、今、正人が存在しているという証拠の品だ」
「……!?」
伸の目が大きく見開かれた。そして奪い取るようにそれを手に取る。
「これは……?」
それは、ひと目で素人が作ったと思える薄い小冊子だった。これのどこが正人が生きている証拠なのだろうか。だがそんなふうに思ったのは一瞬だけ。表紙に書かれた文字に目を留めたとたん、伸は小さく息を呑んだ。
「そこ、本来なら正人がお前と一緒に行くはずだった高校だろ?」
当麻が指摘したとおり、その表紙に印刷されている名前は、見覚えのある高校の名前だった。
「……これ……なに?」
「その高校で毎年発行してる各クラブの合同誌だってさ。各学期毎に新入生の紹介や試合の成績表なんかを載せてるらしい」
「…………」
ということは。
伸はパラパラとページをめくり、バスケットボール部の紹介ページで指を止めた。
中学時代、伸も正人もバスケ部だった。あのまま高校へ進んだら、正人は間違いなくバスケ部に入っていたはずだ。
「…………!?」
昨年のバスケ部の成績は、練習試合を含めて年間約50試合中、35勝。勝ち越しということはまずまずの成績だった。そして今年の新入生メンバーの中に、見間違えるはずのないひとつの名前があった。
ポジションはシューティングガード。中学時代と同じ。そして、横に載っている集合写真の中にも。
「正人……」
伸の手から、ぽとりと小冊子が落ちた。
「言っただろう。お前は正人を救ったんだって」
「…………」
忘れようとしても忘れられなかった忌まわしい出来事。
自分から永遠に正人を奪った、あの惨劇は。
もう、ない。
「正人は生きてる。ちゃんとここで」
「…………」
「あの日の妖邪兵の攻撃はお前が防いだ。正人は傷ひとつ負っていない」
当麻はそっと伸の髪を撫で、そのままその伸の身体を自分の胸元に引き寄せた。
「だから安心していいんだ」
「…………」
「お前は正人を護ったんだから」
繰り返す当麻の言葉を伸はじっと微動だにせず聞いていた。そして静かに目を伏せる。
その間、ずっと、何故か伸は一切言葉を発することはなかった。

 

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