RE:スタート -第1章:癒えない傷口−(3)

「痛…………っ!」
何とか征士が意識を取り戻した時、あたりは既に真っ暗になっていた。
覚えているのは、目の前のガソリンスタンドで事故があったこと。怯えて動けなくなっていた幼い子供を助けようと、横倒しになったトレーラーの方へと向かった瞬間、運悪くガソリンに火が引火して爆発が起こってしまったこと。
鼓膜が破れるのではないかと思う程の爆発音と爆風。そして、隣にいた伸と一緒に、そのまま二人して爆風に吹き飛ばされたこと。
「……うっ……」
微かな呻き声が聞こえたような気がして征士が隣を見ると、思った通りすぐそばで伸が頭を抱えながら、起きあがろうとしているのが見えた。
「大丈夫か、伸」
「征士……?」
伸はまだ意識が朦朧としているようで、2、3度軽く頭を振った。
「僕達……いったい何が……」
言いかけて伸がはっとした表情で征士を振り仰ぐ。
「あの子は?」
「わからない。というか誰も周りにいないみたいなんだが……」
「……え?」
征士の言葉に伸は慌てて辺りに目を向けた。
見える範囲に人影はなく、しんと静まり返っている。しかも空には星が瞬き、先程の事故現場の喧噪が嘘のようだ。
何かがおかしい。
意識がはっきりしてくるのに比例して、二人は自分達の置かれた状況の、あまりの異常さに気付き始めた。
目の前で起こった自動車とトレーラーの接触事故。
事故の規模はそれなりの大きさだったはずだ。その証拠に現場の周りには野次馬の人だかりが集まり始め、救急車や消防車のサイレンも聞こえていた。
それなのに。
駅前のガソリンスタンド。
ついさっき二人が事故を目撃したのはそんな場所だったはずなのに。どう周りを見回しても、目指していた大型書店もガソリンスタンドもどこにも見えない。
何かがおかしい。
時間も。場所も。何もかも。
とにかく何かがおかしいということだけはわかった。
「とにかく、誰か人を探そう」
勢いよく立ち上がろうとした伸が、次の瞬間バランスを崩して倒れ込んだ。
「伸!」
あわてて支えようと腕を伸ばした征士も、バランスを崩しよろける。
急に動いた所為で立ちくらみでもしかたのように、二人はお互いの身体を支え合いながら、再び道路に座り込んだ。
頭が割れるように痛む。目の前が暗く、貧血でも起こしたような症状だ。
もしかして吹き飛ばされた際、頭でも強く打ったのだろうかと思いながら、征士は自分の身体に他の外傷や打ち身がないか探りだした。
身体中のあちこちが痛むが、さほど酷いものはなさそうだ。擦りむいたのか、少し血のにじんでいる肘の泥をおとしながら、ふと隣を見ると、伸が口元を押さえ、うつむいていた。
「どうした、伸」
「……気持ち悪い…………」
よほど気分が悪くなっているのだろう。伸は顔面蒼白になって、今にも吐きそうな表情をしていた。
「大丈夫か」
倒れそうな伸の身体をささえ、征士が背中をさすってやると、少しずつ伸の顔色が戻ってきた。
しばらくそうやっていると、やっと伸は口元の手を離し、征士の顔を見上げた。
「ありがとう、征士……なんか車にでも酔ったみたいな感じなんだ。征士は平気?」
ふだん、車酔いをする質ではないので、実際に酔うとどんな状態になるのかわからない部分は多いが、それでも確かに今の自分の状態を表すとしたら、三半規管を揺さぶられたことに対して起こる車酔いの症状が一番近いだろう。
そう考え、征士は大きく頷いた。
「そうだな。私は少し頭痛がする程度だな。ただ身体中が痛くてしかたない」
「僕もだ」
苦笑しながら、伸も自身の身体の状態を確認しだす。やはり征士と同様、酷い外傷等はなさそうだった。ただ、車酔いのような気持ち悪さはまだ身体に残っているのか、時々苦しそうな息を吐いていた。
「ねえ、空気がやけに澱んだ感じがしない?」
周りを見回しながら、伸がぽつりと言った。
「そういえば……」
夜だというのに、少しも冷えた空気ではなく、むしろ、まるでゼリーの中にいるように二人の身体には濃い空気がまとわりついている。なんだか自分の身体が何か薄い膜にでも覆われているように感じられた。
「ここは……何処?」
確かめるように伸がつぶやいた。
「少なくとも、さっきの事故現場とは違うみたいだな。崩れたブロック壁も、隣にあったはずのガソリンスタンドもないぞ」
二人は今度はゆっくりと立ち上がり、遠くに見える明かりを目指して歩き出した。
「爆風で飛ばされたにしては、妙だよね」
「ああ……いったい何があったんだろう」
思いのほか遠くまで飛ばされて、救急隊員が気付かなかったと言うのはさすがに無理があるだろう。誰か、親切な、或いは不親切な者が、気絶した二人を路地裏に寝かせて、そのまま何処かへ行ってしまった、というのもちょっと考え難い。
「どうしよう。早く帰らなきゃ。みんな心配してる」
「そうだな」
とにかく、少しでも明かりのある方向へ行かなければと歩き出した二人は、すぐに妙な違和感を抱いて立ち止まった。
「なんだ、これは……」
確かに歩いているはずなのに、いっこうに前へ進めないのだ。
風があるわけでもない。ただひたすらに重い。空気が。
身体中を包む違和感は、今まで感じたことのないものだった。
と、その時、一束の新聞紙が征士の足下へ風に飛ばされて飛んできた。
「……? 風は吹いてなかったのに……?」
不審に思いながら、征士は新聞紙を拾い上げた。新聞紙は征士の手元で風にはためいている。
この異常な感覚。
身体には風が感じられないのに、どうして新聞紙にだけ風が。
これではまるで、自分達とこの新聞紙は別の空間にあり、触れている部分のみでかろうじて繋がっているかのような。
それは、うまく言葉にできないが、無理やり説明すると、そうとしか言いようのない感覚だった。
「征士、あっちに人影が見えた。行ってみよう!」
重い足を無理に運び、なんとか人通りのある商店街のような所までたどり着いた伸は、通りを歩いていた男に声をかけた。
「すいません」
急いでいたのか、男は伸を無視してそのまま歩き去っていく。
「ちょっと、すいません」
次に声をかけた男も同じく、まるで伸の声が聞こえないかのように、無視して通り過ぎて行く。
「おかしいな……まるで僕達のこと見えていないみたいだ」
「……見えていないのかもしれないぞ」
「えっ?」
征士の言葉に驚いて伸が振り返ると、征士は先程拾った新聞を食い入るように見つめていた。
「征士?」
征士の視線をたどり、伸も征士の手元の新聞をのぞき込む。
「……これは?」
伸が信じられないといった表情でゴクリと唾を飲み込んだ。
征士が先ほど拾った新聞は、さっき印刷されたばかりのような真新しい新聞だった。特に何処と言って変なところはない普通の新聞だ。
だがしかし。
ただ一つ不自然だったのは、日付が半年前のものだった事だ。
「……どういうこと……?」
古い日付の新聞。なのに真新しい。伸は、おもわず周りに視線を巡らした。
近くの店の前に貼ってあるポスター。電柱のチラシ。捨てられたレシートや情報誌。
すべての日付は、新聞と同時期のものが書かれている。
どう考えても、すべての印刷物が日付を間違えているとは思えない。それに征士の言うとおり、伸の姿も征士の姿も、街行く人々の目には映っていないようだ。
「僕達……時空間を越えたの……?」
伸が、声にならない声でつぶやいた。
過去へのタイムスリップなど、SF小説の世界の出来事でしかないはずだった。何百年か未来にはタイムマシンだって出来るかもしれないが、実際こんな場所に立っていても、実感など湧くはずもない。
「……だから、誰も僕たちが見えないんだ。僕達は今、存在しないはずの場所にいる」
「ということは、空気がゼリーのようなのも同じ理由からだろうか。存在するはずのない空間に無理矢理入り込んでしまったから、私達の周りだけ密度が上がっているのかもしれない」
「確かに。当麻だったら、もっとわかりやすくて面白い理論を展開してくれそうだけど、僕達じゃこれが限界だよね」
もう笑うしかないといった感じで伸が言った。
「だが、ものは触れるのだな」
そうつぶやく征士の手元で、新聞紙が風にはためいて揺れている。
「みたいだね」
「どうも基準がわからないな。人には影響を与えられなくても、ものには与えられるのだろうか」
「どうだろう……案外見えなくても触れることは出来るのかも」
「そうだな」
「とにかくここが何処なのか確認しないと」
言いながら、近くの電柱の住所表示を覗き込んだ伸が、突然びっくりしたような表情で固まった。
「伸? どうかしたのか?」
征士も伸の視線をたどり、電柱の住所表示に目を向ける。
「この表示は……?」
伸の隣で、征士も同じように絶句した。
ここまでくると、何を見ても驚かない自信はあったが、それにしてもいったいどうしてこんな所に飛ばされてしまったのだろう。
「ここは……お前の地元か?」
「やっぱり…そうだよね」
明らかに東京でも小田原でもない地名。
そこに刻まれていたのは、伸の出身地である山口県萩市。その中でも伸の実家のすぐそばの住所だった。
「驚いたな……しかもちょうどこの日は皮肉にも新宿に阿羅醐が出現する前の日ではないか。これは偶然か?」
「…………え?」
改めて新聞紙の日付を指し征士が言った。
「ほら、見てみろ。ということは、本来のお前は今日ここから新宿へ向かったということだろう」
征士の言葉を聞き、何故か伸の表情が引きつった。
「……明日……集結の日……?」
怯えたように伸が後退った。そして、瞳が何かを考え込むように伏せられる。
「伸……? どうした」
突然の伸の様子の変化にとまどい、征士が伸の肩に手をかけようとしたその時、伸が思い詰めた目をして征士を見た。
「征士……あの……」
何か言いかけて言葉をにごす。伸らしくない態度だった。
「…………?」
征士が眉をひそめて伸を見ると、次の瞬間、伸の瞳が何かを決意したように緑色に光った。
「ごめん…征士。僕、行かなきゃ」
「……えっ?」
「今なら間に合う。……今なら、まだ間に合うかもしれないんだ!」
そう言うと、おもむろに伸は征士に背を向け、走り出した。
「ちょっ……伸!! 何処へ行く!」
いきなり駆け出した伸を追い、一瞬遅れて征士も走り出す。
夜の闇は少しでも気を抜くと伸の姿を隠してしまう。征士は必死になって、ゼリー状の空気の中を走り続けた。
一心不乱に走り続ける伸と征士の周りで空気の密度がさらに増していく。なんだかだんだん時間も空間も何もかもがぼんやりと飽和状態になっているように感じられた。
一体どれくらい走っただろう。
何時間走り続けたのか、いやものの数分しか経っていないのか。それももうわからない。あたりの景色まで歪んでいるようで、やはりここは空間が安定していないのだと、道ではない道を走りながら、征士は思った。
「……いったい何処を目指しているんだ?」
時間の感覚も何もかも、なくなりかけた時、前を行く伸があたりを探るように、ゆっくりとスピードを落とした。
いつの間にか、何処かの住宅街のはずれのような所に出ていた事に気付いた征士は、見覚えのない景色にとまどい、数メートル遅れて伸の後をついていった。
萩は、浜辺の、海の匂いのする街だった。
「……!?」
突然、前を行く伸がピクリと何かに反応した。同時に征士の首筋を悪寒めいたものが走る。
あたりに微かな妖気が漂っているのを征士は感じた。
「これは…………?」
よく覚えのある気配。
忘れたくても忘れられない忌まわしい感覚。
その時、ヒュンと音を立てて、物陰から飛び出してきた者がいた。鈍い色の鎧を身にまとったその姿は、あれ程お互い命を削り、剣を交えた妖邪兵の姿だった。
「妖邪兵!?」
走り抜ける妖邪兵を信じられないといった顔で征士が見送る。やはり、妖邪兵にも征士の姿は見えていないようだった。
「今日のこの日、この地に妖邪兵が現れることを伸は知っていたのだ」
ということは。
はっとして、征士がさっきまで伸のいたはずの場所を見ると、そこにはもう伸の姿はなかった。
「……私としたことが……」
チッと舌打ちをし、征士は走り出した。先程よりは幾分楽に走れるようだ。
征士は妖邪兵と伸の気配を、全身の感覚を研ぎ澄まして感じ取ろうとした。
「……!!」
一瞬、伸の気がすざまじく高まった気配がした。
「伸!」
悪い予感が頭の中を駆けめぐる。
「伸!!」
征士は叫び、伸の気が感じられた場所をめがけ、走る。
その時、妖邪兵の放った鎖鎌が1人の少年に向かって振り下ろされ、伸が体を張って両者の間に飛び込んで行く姿が、征士の目に映った。
「…………!!」
鮮やかな鮮血が飛び散り、少年を庇った伸の背中に深々と鎖鎌が突き刺さる。
少年は何が起こったのか解らないといった表情で、伸を通り越し、背中の鎖鎌を見つめている。
もしかしたら、少年の目には、いきなり飛んできた鎖鎌が止まったまま宙に浮いているように見えているのかもしれない。
対する妖邪兵の態度にも一瞬とまどいが走る。その隙をつき、相手に自分が見えていない事を幸いと、征士は妖邪兵のみぞおちに肘鉄を食らわせ、次いで強力な蹴りを放った。妖邪兵は5m程も吹っ飛び、後ろの壁に激突し、意識を失った。
「伸!!」
駆け寄り、倒れている伸を抱き起こすと、動かしたためか先程よりも更に酷く鮮血が飛び散り、征士の顔に赤い血しぶきがはねた。
「伸……!」
がっくりと首を落とした伸は、完全に意識を失っている。
と、その時、遠くから走り寄ってくる足音が征士の耳に届いた。
「………!?」
足音の主は伸だった。恐らく本来のこの時間にいる伸だ。
走ってくる伸の姿を見たとたん、征士はとっさに伸を抱えたまま飛んだ。
とにかく何処かへ行かなければ……!
その時の征士の頭にあったのは、ただそれだけだった。
地面を蹴った瞬間、見えていないはずの征士と少年の視線が重なった。
漆黒の。黒曜石のような。
それは何処かで見たことのある、瞳の色だった。

 

――――――間に一言も発しないまま静かに征士の告白を聞いていた当麻達三人は、そこでようやく詰めていた息を吐き出した。
「信じられないなら信じなくてもいい。いくらなんでも不可解すぎることだと、私も思っている」
「でも、夢じゃないんだろ」
自分で語っておいて、それでも信じがたいといった風情の征士とは逆に、秀は力強くそう言いながら、確かめるように頷いた。
当麻はそんな二人を横目で見ながら、そっと向かいの部屋の伸を窺うように顔をあげる。
「私は伸を止められなかった。もっと早く、伸が何をする気なのか気付いてさえいたら……」
征士がうつむき、シーツの裾を固く握りしめた。
「お前の所為じゃないよ」
秀が慰めるように言うと、ドアにもたれたままの遼も大きく頷いた。
「誰も、オレだってみんなだって、伸が本気で望んだ事を止められるわけないじゃないか」
「そうそう、あいつが言い出したら聞かない性格なのは、オレ達みんなが知ってる事だぜ。顔に似合わず案外、頑固なんだよな」
少しでもみんなの気分をほぐそうとしてか、秀がことさらに明るく言い放った。
「けどさ、過去へのタイムスリップなんて、ぶっちゃけ本当にそんなことあり得るのかな、当麻」
「わからん」
秀のもっともな疑問を軽く受け流し、当麻は考え込むように視線を落とした。
「ただ、考えられるとすれば、トレーラーの爆発のエネルギーによって弾き飛ばされたってことだな。その時間軸のその空間から。事故の爆発が一瞬で消えた理由もそれで説明がつく。周りに広がるはずのエネルギーがすべて過去への亀裂を作るために使われたということだ」
「はあ……」
当麻の説明は、やはり秀には理解不能だったようで、秀は困ったように眉を寄せ、助けを乞うように征士の方を振り返った。
「言いたいことはわからんでもないが。にしても、随分とSFまがいのことを言うんだな。もっとお前は現実主義者だと思っていたが」
「充分現実主義者だよ、俺は。理論上タイムマシンは作れるって考える程度にはな」
征士の言葉に、当麻は自嘲気味な笑みを向ける。
「だったら、当麻。飛ばされた先の時間と場所が、あそこだったってことの理由は? 説明できるのか?」
「そうだな……」
遼の問いかけにふと、当麻は口をつぐみ、次いで何かを振り払うように頭を2、3度振った。
「説明と言うほどきちんと理論付けられるわけじゃないが、基本的に亀裂はただの亀裂だ。だからそれに方向性を付け加えるには、何らかの意思が必要になる。つまり、飛ばされた先の時間や場所は、そこに行きたいという意志の現れだ。二人のうち、どちらかがそれを強く望んだんだ。無意識のうちに」
どちらかが。いや、おそらくは伸が。
遼がごくりと唾を飲み込んだ。
「でも、ならどうして伸はそんなことを望んだんだ。別に普段からずっと地元に帰りたいなんて考えてたわけじゃないだろう?」
「それについては……征士、何か思い当たることはないか?」
当麻が探るような視線を征士へと向ける。
「飛ばされる寸前に何かなかったか? 何か見たとか、聞いたとか」
飛ばされる寸前。
「そう言えば……」
征士が思いついたようにはっとなって顔を上げた。
「あの時、逃げ遅れた子供がいたんだ。“まさと”と叫んでいた女性がいたから、名前はまさとくんだ。伸はその子を助けようと飛び出して……」
「それで繋がったな」
当麻が吐き捨てるような口調でつぶやいた。
「伸は、“まさと”を助けるためにあの時間のあの場所へ行きたかったんだ」
「まさとくんを助ける為に……?」
怯えて動けなくなっていた幼い少年、まさと。
「そっちのまさとじゃない。木村正人のほうだよ」
「木村…正人……?」
征士の眉が不審げにひそめられ、次いで目が驚きに見開かれた。
「……正人って、あの……? まさか」
「誰だっけ? それ」
話の方向が見えず、秀と遼がそろって首をかしげた。
当麻は一瞬ちらりと向かいの部屋に眠る伸へと視線を向け、次いでそれを戻すと、遼の方へと目を向けた。
「覚えてないか、遼。オレ達が出逢ってすぐのことだ。いきなり伸が倒れた事があったろう」
「……え?」
「伸の実家から電話があったの覚えてないか? あの時……」
隣でじっと会話を聞いていた秀が突然大きな声で叫んだ。
「思い出した! あれ、伸の幼馴染が亡くなってたって知らせだった」
「……あ…………!」
遼の目がこれ以上ないくらい大きく開いた。
木村正人。
それは、亡くなった伸の幼馴染の名前だった。
戦うために集結した自分達が、ひとまずの仮の住処としてこの柳生邸に身を寄せてすぐのこと。伸の実家から連絡があった。
正人が死んだ、と。
あの時、持っていた受話器を取り落とし、伸はその場に崩れ落ちた。そして、それからしばらくの間、誰とも口を聞こうとせず、食べることも眠ることも忘れたように、ただじっと項垂れていた。
彼らが新宿に集結する前日。目覚める前の水滸の戦士を葬ってしまおうとやって来た妖邪兵。
偶然そこに居合わせた伸の幼馴染。正人。
病院にかつぎ込まれた正人は、伸が無事新宿へ向かったことを知った後、すぐ危篤状態になり、結局一度も目を覚まさないまま息を引き取ったのだという。
“オレのことはいいから、早く行けよ”
“オレはお前の足手まといにはなりたくないんだ”
“オレは大丈夫だから……”
大丈夫だから。
その言葉を信じ、伸は新宿を目指した。
それなのに。
あれ以来、伸の心の中には、埋めることの出来ない大きな空洞ができあがったのだ。
「……ってことは、その正人って奴は今、生きてるのか?」
秀が押し殺したような声で聞いた。
「恐らくな。いずれにしても、伸が助けたのは木村正人で間違いはないだろう」
「でも、オレ達、そいつが亡くなったこと覚えてるんだぜ。もし、伸が過去を変えたんなら、オレ達のこの矛盾した記憶はどうなるんだよ」
憮然とした表情で秀が腕を組んだ。
「それは、オレ達が直接正人に関係のない、逢ったこともない人間だったからだ。出逢っていなければ記憶を書き換える必要もないということだろう。というか、この現象自体、そもそもイレギュラーなことなんだ。どこでどんな矛盾が生じているかわかるわけない」
「……でも、伸の望みは叶ったって思っていいんだよな」
ぽつりと遼がつぶやいた。
伸の心の中でずっとずっとこだわってきた想い。
護りきれなかった彼の人。
正人を助けるためなら、自分の身体がどうなろうと、何が起ころうと構わなかった。
「……伸は正人を助けたかった。それだけが伸の望みだった。それが今、ようやく叶ったんだ……」
噛みしめるようにそう言うと、遼は伸の眠る部屋の方と視線を向けた。
伸はまだ目覚める気配もなかった。

 

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