RE:スタート -第1章:癒えない傷口−(2)

「遅いな……伸と征士」
読んでいた雑誌を、横のマガジンラックに放り込みながら、秀が大きくため息をついた。
時計の針はとっくに8時を過ぎている。
朝、出かける時、伸は6時頃には戻ると言っていた。当麻や秀ならともかく、予定が変わったら必ず連絡をよこすはずの伸と征士だ。まだ、何も連絡が無いということは何か起こったとしか考えられない。
「やっぱ、二人とも事故の時、現場に居合わせたんだ」
「だとしても、連絡も寄越せない何があるっていうんだよ。征士達に限って」
秀の言葉にそう言い返しながらも、遼の顔も青ざめている。そして当麻は先程から夕方の事故のニュースばかりを繰り返し眺めていた。
「なんか解るか? 当麻」
ソファの背もたれの後ろから、背中越しに秀が問いかけた。
「…………」
秀の声が聞こえているのかいないのか、当麻はぴくりとも動かず、じっと画面を凝視するのを止める気配すらない。その重苦しい雰囲気に耐えられず、秀はひとつため息をつくと遼を促してキッチンへと向かうことにした。
「とにかく何か腹に入れようぜ。オレ達がここで心配しててもどうにもならないんだから」
「ああ」
仕方なく立ち上がった遼が、秀の後を追い居間の扉を開けたその時、玄関の方で微かな音がした。
「帰ってきた!」
とたん、ぱっと表情を明るくした遼は、言うと同時に身体を方向転換して、キッチンとは逆方向の玄関へ向かって駆けだす。
「伸! 征士! おかえ……」
そしてその遼の声は途中で途切れ、悲鳴に変わった。
「……伸! どうした!!……伸!!」
叫ぶ遼の声に次いで、誰かが倒れ込むドサッという音。慌てて当麻が玄関に駆けつけると、秀の凍り付いたような顔と、必死で伸の名を呼ぶ遼の姿、そしてその遼の身体に隠れるように、傷だらけで玄関口に倒れている伸の姿が目に飛び込んできた。
「……伸……?」
遼の腕の中で、伸の血の気のない顔が揺れる。そして、そのそばで征士が壁にもたれ、やっと立っているという状態で息を切らせていた。
「……何があった……征士」
伸を抱えた遼の腕がみるみるうちに真っ赤に染まっていき、床に血の跡が広がっていく。
「怪我……してるのか?」
「背中を……」
征士が苦しそうな息のまま、当麻に視線を向ける。当麻はおもむろに征士の襟首をつかみあげた。
「何があった! 征!!」
「…………」
征士は答えない。自分の意思で答えたくないと思っているのか、息があがりすぎて言葉が出ないのか判断がつかない。ただ、ひどく苦しそうに征士は微かに首を振った。
「当麻! 原因を追及するより伸が先だ! 部屋へつれて行くぞ!」
秀の怒鳴り声にはっと我に返り、当麻は掴んでいた征士の襟首を放した。支えを失い、征士が床へ崩れ落ちるように座り込む。
「頼む……早く止血をしてやってくれ」
苦しげな息で征士が言い、そのまま軽く咳き込んだ。当麻が視線を伸の方へ戻すと、伸のシャツからしたたり落ちている血はまだ止まってはおらず、その血だまりの範囲は今もどんどん広がっていた。
「遼、伸をあまり動かすな。傷口がよけい広がっちまう」
秀の言葉にビクッとし、遼は今にも泣きそうな顔で秀を見上げた。
そっと傷口に触れないように注意しながら、秀は遼の手から伸を離して抱え上げる。
「遼、湯を沸かして、あと、きれいなタオルと包帯持ってきてくれ」
「わかった」
何度もうなずき、遼が立ち上がる。
「あと、消毒用のアルコール。なけりゃ焼酎かブランデーがキッチンの棚にあるはずだから」
走り去る遼の背中に当麻が声をかけると、遼は片手をあげ、“了解”と短く合図を返してきた。
「当麻、足の方持ってくれ。静かに持ち上げるぞ」
「ああ」
二人でそっとそっと伸の身体を抱え上げると、気を失っているはずの伸の眉が微かによせられた。よほどの痛みなのだろう。額には脂汗が吹き出している。傷の為か、少し身体が熱い。
当麻はきつく唇をかんで、伸の閉じられたままの瞳をのぞき込んだ。
「征士、お前は大丈夫か?」
「私はいいから……伸を……頼む……」
秀が床に崩れ落ちたままの征士に声をかけると、征士は、まだ荒い息のまま振り払うように手を振った。こちらもかなり具合が悪そうだ。
「わかった。伸を部屋まで運んで応急手当したらすぐ戻ってくるから、ちょっとだけ我慢しててくれ」
「……当麻……すまない……」
「…………」
征士の声に当麻の足が止まった。
「……私が……油断した……伸を……止められなかった……」
一瞬、当麻は問いかけるような目をして征士を見下ろしたが、結局何も言わないまま無言で秀と共に二階への階段を昇りだした。
一歩一歩、伸の身体を気遣いながら階段を昇る。
伸の背中にまわした秀の腕を血がつたい、ぽつりぽつりと赤い斑点を残してゆくのが当麻の目に映る。忌々しそうにその赤い跡を睨みつけ、当麻は心の中で自分自身に舌打ちした。
くそったれ。
いったい何があって、どうなった為に、こんなことになっているんだ。
「とりあえず、オレのベッドの上に降ろそう」
当麻と秀は、なんとかふだん伸と秀が使っている二階の部屋までたどり着くと、ベッドに伸の身体を横たえた。出来るだけ傷にひびかないようにと、そっと寝かせたにも関わらず、微かなうめきが伸の口から漏れる。
「う……」
「傷の様子、見るぞ」
一言断りを入れ、血のにじみ出してる背中を上に向けうつむかせると、当麻はハサミで伸のシャツを切り裂き、背中を露わにした。
「うわ……」
伸の背中はおもわず目をそらしたくなる程、傷から溢れ出した血で真っ赤に染まっていた。
もともと肌が白いので、いっそう傷の赤さが目立つのだ。肩口から背中の中央にかけて走っている切り裂いたような傷口からは、まだ新しい血がどす黒く滲みだしていた。
何かがおかしい。それだけは分かる。
いったいこの傷はなんだ。
信じられないものを見るように、当麻は眉をひそめた。
今日、伸と征士が出かけた先は新宿だ。そしてニュースでやっていた事故現場も新宿。
そう考えれば、この傷は新宿での事故に巻き込まれたと考えるのが一番妥当に思えるのだが、安直にそう結論づけるには、あまりにも状態が不自然すぎた。
どう見ても、伸の背中の傷は爆発事故に巻き込まれて付いたものだとは考え難かった。傷の種類が明らかに違う。
何より、救急車も呼ばず、新宿から小田原のこの家まで連れて帰ったのだとしたら、征士の行動が不可解すぎる。こんな出血の激しい状態のまま何時間も連れまわしたりしたら、それこそ失血死してもおかしくないというのに。
というか、そもそもこの傷口は、状態が新しすぎる。まるで今さっきついた傷みたいなのだ。
ではいったいこの傷は、いつ、どこで、どうやってついたものなのだろう。
「なんだってこんな……」
言葉をなくし、当麻と秀はお互いの顔を見合わせた。
当麻の手から血だらけのシャツが滑り落ち、床に新しいシミをつくる。
「当麻、秀、入るぞ」
その時、洗面器いっぱいのお湯と数枚のタオル、消毒用アルコールを抱え、遼が部屋に入ってきた。
はっと我に返った二人は、気を取り直し、お湯の入った洗面器をサイドテーブルの上に置くと、遼からタオルを受け取りお湯に浸した。
「遼、濡らしたタオル、何枚か固く絞ってくれ」
「わかった」
「あと、氷を作っておいてくれ。伸が傷の為発熱している」
「え……?」
指示をだす当麻の声にひとつひとつ頷いていた遼は、タオルを絞っていた手を止め、伸の様子をのぞき込んだ。
「……!」
想像していたよりも遙かにひどい傷。一瞬めまいを覚え、よろけた遼の身体を秀が素早く支える。
「あと、遼、征士の様子を見てきてくれないか」
背中の傷口の血を拭いながら、青ざめた顔で当麻が言った。
「あ……ああ。わかった」
小さく頷き、なんとか遼は部屋をあとにし、手すりに掴まりながらも階下へ降りていく。その足音を背に当麻が低くつぶやいた。
「秀、とにかく止血しなきゃ話しにならん。手伝ってくれ」
「ああ」
傷口の消毒を終え、きつく包帯を巻く。
完全に血の気を失った伸の肌はぬけるように白かった。

 

――――――「征士、大丈夫か」
まだ玄関口でうずくまったままであった征士の元に駆け戻り、遼はさっき来る途中でキッチンに寄って汲んできた水を入れたコップを手渡した。
「ああ、すまない」
口をきくのも辛そうな征士は、それでもなんとか遼の手からコップを受け取り、水をひとくち含むように飲み込んだ。それを見てようやく安心したような吐息が遼の口からもれる。
「征士、居間のソファまで移動できるか?」
「ああ」
肩を貸して征士を支え、どうにか立ち上がると、遼は征士を抱えたままゆっくりと居間へ向かった。居間は玄関から一番近い部屋だ。廊下からの距離もそんなにないはずなのに、やけにその距離が長く感じられる。
何度かよろけながら、ようやくソファまでたどり着いた征士は、倒れ込むようにソファに身を横たえた。
「どこか痛むところはあるか?」
「大丈夫。私はとくに怪我などはしていない」
「そう…なんだ。ならよかった」
小さく遼が息を吐く。確かに見える箇所に外傷は見当たらない。服についた血もすべて伸のもののようだ。ただ、だからといって征士の疲労のしかたもただならぬものがあるように遼には思えた。
「それよりも遼、伸の傷の具合はどうだった?」
征士の問いかけに一瞬ビクッと身を強ばらせた遼は、それでも何とか笑顔をつくった。
「大丈夫。当麻と秀が手当してるし、血さえ止まれば……大丈夫だって」
言いながら遼の脳裏には、先程の伸の様子が、まざまざとよみがえってきている。
白い背中を覆うように広がっていた鮮血。おもわず目をそむけてしまったほどの深い傷口。
やけに妖しく見えたその傷は、遼の脳裏に焼き付いて永遠に消えることは無いように思われた。
「あ……あの、征士、……なんか温かいものでも飲むか? 気分が楽になるぞ」
これ以上、征士の目を見て平静でいられる自信がなく、遼は征士の返事をまたずに背中を向け、急いでキッチンへと走っていった。
冷蔵庫からミルクを取り出し、鍋にあけて火をかける。
気を緩めると涙が今にも溢れそうで、遼は固く拳を握りしめた。
戦いの最中、怪我をした仲間達がいた。自分自身も数え切れない程の傷を負った。でも、それはもう過去のことで、やっと訪れた平和な時間、傷つくことを恐れなくてもすむ時間が来たはずなのに。
それなのに、よりによって、伸が。
一番戦いを疎んでいた伸が、何故、今。
遼はいきなり乱暴に洗面台に頭を突っ込むと、蛇口をひねり、水をかぶった。
冷たい水が遼の髪の毛や襟首を濡らす。頭や顔に降りかかる水の中で、遼はきつくきつく眼をつぶっていた。
それなのに。
塩分を含んだ水が、水道水に混じって流れ落ち、シンクの奥に吸い込まれていくのを、遼はどうしても止めることが出来なかった。

 

――――――清潔なパジャマに身を包み、ベッドの上に横たわっている伸の横顔を見つめ、秀と当麻はやっと一息ついたように、大きく息をはいた。
「とりあえずは大丈夫かな。これで」
「ああ、何とか出血はおさまったようだし、あとは意識が戻ってくれれば」
「そうだな」
血の付いたタオルやシーツをまとめながら、秀は横目で当麻を窺うように見た。
「なあ、当麻」
「ん?」
「どう思う?」
「何が……?」
「伸の傷だよ。」
「…………」
「夕方の事故が原因だとしたら、何かおかしくないか? 伸の傷、まるで今さっきついたみたいな傷だし、第一爆発に巻き込まれたっていう感じじゃない。まるで……何かで、切り裂いたような……」
「ああ」
秀の言うことは、すでにさっき当麻も考えていたことだ。だが、口に出して語るとよりいっそうその考えが現実味を帯びてくるような気がした。
「いずれにしても、伸か…征士から事情を聞いてから、だろう」
「そうだな」
頷きながら、秀が征士の様子を気にしてか、階下を窺うように視線を投げた。
この不可解な状況の答えを持っているのは、伸と征士だ。だが、先ほどの征士の様子を見る限り、いきなり追及の矢を降らせるのは酷に思えるし、伸は意識そのものがない。
とりあえず今は、二人ともが命ある状態で、此処に戻ってきたことのみを感謝するしかない。
思い詰めた眼をして、当麻は伸を振り返った。伸の額からは汗の粒が浮き上がっている。さっきより、少し息が荒くなってきたようだ。
「……熱が、あがってきた」
「えっ……?」
タオルでそっと伸の汗を拭ってやりながら当麻がつぶやくと、脇から秀ものぞき込み、伸の額に手を当てた。てのひらが汗でじんわりと湿る。
「やばいな。氷持ってくる」
言うが早いか、タオルとシーツの山を部屋の脇によせ、秀はダッシュで階下へと降りていった。こういう時の秀の判断と行動は的確で素早い。
「………………」
階段を降りる秀の足音を聞きながら、当麻は伸の眠るベッドの脇に立ち、じっと伸を見下ろした。
時折、伸の眉が苦しそうによせられる。ただでさえ色の白い伸の顔が今はもう透き通るような青さに変わっている。深い緑色をした優しい瞳は、かたく閉じられたままだ。
額に張り付いた髪をなおしてやろうと、当麻がそっと手をのばすと、伸の口から微かな呻きがもれた。
一瞬、手を止め、当麻は伸の顔を見つめた。薄く開いた唇から、熱っぽい息がもれている。
このまま、熱が上がり続けたら……。
目を覚まさなかったら……。
伸の汗ばんだ頬にそっと手をあて、顔のラインをなぞる。閉じられた瞳は開く気配もない。
「……伸…………」
長い沈黙の後、絞り出すような声で、当麻は伸の名を呼んだ。

 

――――――血で汚れてしまった大量のタオルやシーツをなんとか片し、ひとまず伸の状態が安定したのを確認して、当麻はやっと向かいの自分たちの部屋に戻った。
怪我はないとはいえ、ひどく憔悴して具合の悪かった征士は、早々に休んでいるはず。当麻は音を立てないように注意しながら、最近、寝る前や暇なときに読んでいた医学の専門書を引っぱり出した。
何かあった時のためにと、知識を増やす目的で読んでいたのは確かだが、まさかこんなに早くこれを活用しなければならない日が来るなんて。
当麻は自分のベッドに腰掛け、膝の上に抱え込むように書籍を置くと、外傷治療に関するページをパラパラとめくりはじめた。すると、人の気配に気づいたのか、すでに眠っているとばかり思っていた征士が、ゆっくりと身体を起こし顔をあげた。
「……当麻……伸の状態はどうだ?」
「お前、まだ寝てなかったのか。伸のことはオレ達に任せて、とっとと休めっつったのに」
「そう言われて、はいそうですかと眠れるわけなどないだろう」
透き通るような紫水晶の瞳が月の光に照らされる。その射抜くような真っ直ぐな目を見て、当麻は、諦めたようにため息をついた。
「状態は……あまり良くはない。なんとか止血はしたが、かなり熱が高いしな。縫うほどじゃないにしても、傷口も深い。化膿するようなら冗談抜きで病院へ連れて行ったほうがいいとは思うが、そもそもどんな状況で負った傷なのかわからないから、判断に窮している」
「すまない……」
辛そうな表情でつぶやくと、征士は視線を落とし、うつむいた。
「あ…いや、お前が謝る必要は……」
なんとなく言い方が追及するような、責めるような口調になってしまったことに気付き、当麻は慌てたように言葉を濁した。
「とにかくお前は気にせず休め。お前がここで気をもんでいたからといってどうにかなるものでもない。伸はオレが必ず助けるから」
当麻の言葉に、征士が再び顔をあげて当麻を見た。そしてその目が何かを訴えるように潤む。
「当麻……」
「な…なんだ。どうした」
「当麻、すまない。お前は、私を責めて当然なのに」
「…………」
当麻の表情がすっと引き締まった。
「私は……伸を……」
「征、オレはお前を責めてなどいない。オレが責めているとしたら、それはオレ自身に対してだけだ。お前には感謝している」
征士の言葉を遮って、当麻が言った。
「お前は、伸をオレの所へ連れて戻ってきてくれた。それだけで充分感謝しているんだ」
「当麻」
「だから、オレが悔しいのは、伸が傷ついた時、そばにいてやる事が出来なかった事だ。オレの知らないところであいつが傷ついたという事実だ」
「…………」
「オレは予知能力者でも何でもない。伸のそばにずっとついていてやる事なんて出来ない。それは充分承知している。でも、オレは今、自分自身に腹が立ってしかたがない」
まるで自分自身を叱咤するかのような口調で、当麻は吐き捨てる。
そうだった。
当麻とはそういう男だった。
周りのことなど何も気にしていないような飄々とした態度からは考えられないほど、当麻の神経はいつも伸のほうへ向けて張られていたのだ。
もう二度と伸が傷つかないように。苦しまないように。
誰よりも倖せになるように。
「……征、ひとつだけ聞いてもいいか」
最後に、押し殺したような声で、当麻が言った。
「ああ」
「あの背中の傷は、妖邪兵にやられたものか?」
その質問が当麻の口から発せられる事を、とうの昔に予測していたように、征士はまっすぐな眼で当麻を見ると、ゆっくりと頷いた。

 

――――――次の日の昼前、まだ意識の戻らない伸の様子を気にしながら、三人は征士のもとへ集まった。
ベッドの上で背中にクッションをあてがい、上半身を起こした征士は、まだ多少青白い顔色をしていた。いつもの輝くような髪の色もくすんで見える。
当麻は自分のベッドの上にあぐらをかき、秀はベッド脇に丸椅子を持ち込み座っている。遼は伸の様子に何か変化があればすぐ飛び出せるよう、開け放したままのドアにもたれ、横目でやはり開け放したままのドアの向こうで眠っている伸を伺いながら、征士の言葉に耳を傾けていた。
「何から話せばいいのか……私も多少とまどっているのだが……昨日の新宿の事故現場に偶然居合わせた私と伸は…………」
ゆっくりと噛みしめるように征士が言葉を綴る。
そして、長い長い、信じられない告白が始まった。

 

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