RE:スタート -第2章:消えた記憶−(6)

窓に差し込む朝の光に目を覚ました伸は、隣に敷いてあった布団が綺麗にたたまれているのを見て声をあげた。
「………あれ?」
羽柴当麻。伸には理解できない不思議な話をした少年。
彼はちゃんと昨夜この部屋に持ち込んだ客用布団で眠っていたはずなのに。いったいいつの間にいなくなったのだろう。
飛び起きた伸は、慌ててベッドから飛び降りると階下へ走った。
「姉さん、彼、知らない?」
キッチンで朝食の味噌汁を作っていた小夜子の背中に向かって声をかけると、小夜子が困ったように振り返った。
「昨日の子? あの子ならさっき帰ったわよ。せめて朝食くらい食べていけばって言ったのにいらないって」
「………え?」
「これから小田原まで帰らなくちゃならないからって。昼には向こうに着きたいって言ってすっごい急いでたから、引き留めるのも悪いかなあって思って」
「やっぱり大馬鹿だ」
「……え?」
小さく吐き捨てるようにつぶやき、伸は外へと飛び出した。そして、そのままバス停へ向かって駆け出す。だが、バス停にはもう当麻の姿はなかった。あたりを見回しても誰の姿も見えない。伸は指でなぞりながら時刻表に並んだ数字を読んだ。
「これか……!」
伸の指が止まった位置。今からちょうど十分程前に出たバスがあったのだ。行先は駅。間違いない。当麻はこのバスに乗って行ったのだろう。
走っていては追いつけないと思い、伸は一旦家に戻り壁に立てかけられたままになっていた自転車を引っ張りだすと、それにまたがり勢いよくペダルを漕ぎだした。
「くそっ……」
バカ正直にバス通りを走っても追いつけない可能性が高い。伸は裏道を通り最短距離を選んで駅への道をひた走った。
自分でもどうしてこんなに必死になっているのか分からない。こんなことをしなければいけない理由も見当たらない。でも、嫌だった。このまま当麻が行ってしまうのが。もう二度と自分達の時間が交差しないということが。
何故だか、嫌で嫌でしかたなかったのだ。
「……あの……バカ当麻!」
胸の中のモヤモヤをなんとかしたくて、伸は初めて声に出して当麻の名前を呼んだ。
「…………?」
とたんに頭の中に衝撃が走る。
「当麻……?」
もう一度名前を呼んでみる。確かめるようにもう一度。
「当麻……当麻!」
そして伸は気付いた。
自分はこの名前を以前何度も呼んだことがあったのだということを。
「……そうだ。当麻……当麻だよ」
ペダルを漕ぐ足に力がこもる。
そうなのだ。
間違いない。
自分はこの名前を知っている。
自分が何度も、この名前を呼んだことを覚えている。
何度も。何度も。
何度も呼んでいたことを。
好きだと言われて、どれほど嬉しかったかを思い出した。
桜の木のある公園で、みんなでお弁当を囲んだことも思い出した。
背中の傷がなかなか治らないのを心配して、気分転換にと連れて来てくれたことも。
思い出した。
当麻のこと。征士のこと。秀のこと。
そして、遼。
間違いない。自分は彼らに出逢っている。
「……!」
伸がようやく駅についた時、バスもちょうど駅前のターミナルに停車したところだったようで、出口から駅の改札に向かって数名のサラリーマンらしき姿が歩いているのが見えた。そして、その中に紛れて当麻の細身の背中がちらりと覗く。
「当麻!」
自転車を乗り捨て、伸は走った。伸の声に気付いているのかいないのか、当麻の歩く速度は変わらない。
「当麻! 待って!」
とうとう改札口を抜けた所で、はじめて当麻の足が止まった。そして振り返り伸の姿を捉える。
「当麻!」
驚いたように当麻の目が大きく見開かれた。
倒れこむように自動改札機の前まで駆けつけた伸は、周りの目を気にすることなく大声で叫んだ。普段の伸からは考えられないような行動だ。
「この……バカ当麻! 勝手に自己完結して帰るな!」
「……伸……なんで……」
改札の向こう側。手を伸ばせば届くほどの距離まで来て立ち止まった当麻は、酷く怯えたような表情をしていた。
「伸、お前、思い出したのか?」
訊ねる当麻の声は僅かに震えている。必死で自転車を飛ばしてきたために上がった息をなんとか抑え込みながら、伸は真正面から当麻を見つめた。
「まだ…よくは思い出せてないけど……でも、桜の木の下でみんなでお弁当を食べた…よね。その時、背中の傷が痛んだことも覚えてる」
「…………」
「これは……僕の記憶だよね?」
「…………」
「そうだよね?」
じれて伸が小さく叫ぶが、何故か当麻は答えようとしない。
「当麻?」
「……烈火という名前に心当たりは?」
「……え?」
ようやく口を開いた当麻から出てきた見知らぬ名前に伸の表情が戸惑いに変わった。
「烈火? 誰?」
伸が不思議そうな表情で首をかしげるのを見て、初めて当麻に変化があった。
「良かった……」
本当に、心底本気で安心したかのように、当麻がほうっと息を吐いた。
意味が分からない。
何が良かったというのか。
当麻はいったい何を心配していて、何に安心したのか。
「伸、俺、今が一番倖せかも」
「…………え?」
「今のままのお前がいい」
「……何、言ってんの?」
「そうそう。そういう口調。すっげえ好き」
「…………」
「毎日、お前のこと好きになる」
「…………」
「昨日よりも今日。で、きっと明日のほうがもっと好きになる」
「ば……バッカじゃないの?」
呆れて言った伸の口調に、本当に嬉しそうに当麻が笑った。
それなのに、その表情を見た伸の胸は今までで一番酷くズキンと痛んだ。
痛くて。痛くてしかたなかった。
どうして。
当麻は笑っているのに。どうしてそれがこんなに苦しいのだ。
「当麻……?」
名前を呼ぶ声がかすれてしまう。
当麻がそっと手を伸ばした。一瞬、頬にでも触れてくるのかと思ったが、当麻の指はその手前で止まり、そのままそっと伸の髪にだけ僅かに触れた。
「…………」
戸惑ったように伸がほんの少し近づくと、当麻はその指が伸の頬に触れる寸前で、すっと身を引いた。
「当麻……?」
「悪い。触っちまったら自分でも制御が効かなくなるからやめとく」
「……は?」
「ありがとな。名前呼んでくれて。すっげえ嬉しかった」
「…………」
「だから、もう充分。さよなら」
「ちょ……待って……」
伸の止める声を聞かず、当麻はくるりと背中を向けて歩きだした。
「当麻……!」
当麻は振り返りもせず去っていく。伸は困ったように辺りを見回し小さく舌打ちをした。何も考えず飛び出して来てしまったため、今の伸は財布も定期も何も持っていない。もちろん駅に入ることも出来なかったのだ。
一瞬、改札を無理やり飛び越してやろうかと、足をかけたのだが、じろりとこちらを見た駅員と目が合ってしまい、伸はおとなしくあげた足を引っ込めた。
何をやっているのだ、自分は。何のためにここまで自転車を飛ばして来たんだ。
「当麻!」
引き止めるために声を張り上げてみるが、やはり当麻の足は止まらない。
「当麻!」
とうとう当麻の姿がホームの向こうへ消えてしまったとたん、伸は崩れ落ちるように座り込んだ。
じわりと伸の目に涙が滲んでくる。
何が悲しいのか自分でもわからなかった。ただ、どうしようもなく苦しかった。
当麻が嬉しそうに笑えば笑うほど、苦しくてしかたない。
ちっとも。全然。倖せじゃないくせに。
ひとりでなんか帰りたくなかったくせに。
ずっとずっとずっと一緒にいたかったくせに。
どうして。
どうして当麻は、あんな泣きそうな顔をして笑うのだ。

 

――――――「伸……?」
どれくらいその場でうずくまっていたのだろうか。
自分の名前を呼ぶ控え目な声に伸が振り返ると、先ほど乗り捨てた自転車を押して、こちらへ近づいてくる正人の姿が見えた。
「正人……? どうしてここへ?」
「お前の姉ちゃんからオレんとこに電話があってさ。なんか様子がおかしかったって言うから……」
「探しに来てくれたんだ」
「ああ……」
少し戸惑ったように頷いて、正人は自転車のスタンドを立て置くと、伸のそばへと駆け寄って来た。
「いったいどうしたんだよ?」
「当麻が……」
一瞬正人の表情がピクリと強張る。
「当麻って、昨日の奴か? あいつがどうかしたのか?」
「さっき帰っていったんだ」
「あ……そう…か。なんだ」
少しほっとしたように正人が息を吐いた。そんな正人の様子を伸はじっと見据える。
やはり正人は当麻のことを知っている。そして、疎んでいる。
早く帰ってほしいと思う程度には、疎んでいるんだ。
「正人」
「なんだよ?」
「君、僕に隠し事してるよね」
正人の表情が、はっきりと分かるほどに強ばった。
「……何を言い出すのかと思ったら。隠し事なんかしてないよ」
そう言いつつ、正人が伸から目をそらす。嘘をついている証拠だ。
「そ…そんなことより、お前いつまでそこに座り込んでるつもりなんだ? 小夜姉ちゃんも心配してるし帰ろうぜ」
「…………」
「ほら」
そう言って正人が手を差し出す。
さすがにいつまでもこんな所に座り込んでいるわけにもいかないと思い直し、仕方なく立ちあがりかけたところで再び伸の動きが止まった。
「……伸?」
帰る。何処に。
自分が本当に還るべき場所は、何処だ。
「…………」
知っていることと知らないこと。
覚えていることと忘れたこと。思い出したこと。
あらゆることが伸の頭の中に記憶の渦を描き出す。
そう言えば、昨夜当麻が言っていた。小田原にある当麻達の家には伸の部屋があるのだと。
みんなが伸の部屋に新しいカーテンを新調したのだと。
伸の好きな、水色のカーテンを。
「正人、僕の好きな色って知ってる?」
突然の問いかけに正人が驚いて目を丸くした。
「え? なんだよ急に」
「いいから答えて」
「……えっと……たしか…水色じゃなかったか?」
「珈琲と紅茶、どっちが好き?」
「珈琲派だろ?」
「好きな本は?」
「最近は歴史にはまってるよな。でも、一番好きなのは宮澤賢治だっけ? 銀河鉄道の夜とか」
「そうだよね」
「それがどうかしたのか?」
「当麻もね、知ってたんだよ」
今度こそ本気で正人の表情が引きつって固まった。
「当麻も全部知ってた。どうして?」
「…………」
「僕は、いつ、何処で、どうやって彼と…いや、彼等と出逢ったの?」
「そんなこと、オレが知ってるわけないだろ」
「でも、僕と当麻が知り合いだっていうことは知ってるよね、正人」
「…………」
正人の顔色は紙のように白い。
「僕は何を忘れているの? 何を思い出せばいいの?」
「何も……」
正人の言葉が引きつったように突っかかる。
「……お前が思い出さなきゃいけないことなんか、何もない」
「…………」
無言で伸は正人に詰め寄った。同じだけの距離を正人が後退さる。
「何もないっつったろ。今のままでいいんだよ。あいつだって何も言わなかったんじゃないのか」
「当麻が何も言わなかったのは、君が彼に何か言ったからじゃないの?」
「…………!」
伸はじっと睨みつけるようにして正人の青ざめた顔を見上げている。
「ああ、もう……クソっ」
観念したのか正人はおもむろに伸のそばにしゃがみこんで髪を掻きむしった。
「もういいじゃねえか。今の状況の何が不満なんだよ。何もなかったっつってるだろ。全部リセットしたんだから、お前はもうあいつらと出逢う必要もなくなったんだ」
「つまり、本当は出逢う必要があったってこと?」
「誘導尋問してんじゃねえよ」
開き直ったのか、正人は伸に対抗するような鋭い視線を向けた。
「お前は何も思い出す必要はない。せっかくオレと烈火とで何もなかったことに出来たのに……」
「烈火?」
「…………!」
正人が一瞬しまったという感じで口を閉じた。
烈火。
そういえば先ほど当麻もこの名前を言っていた。
烈火。誰だろう。
聞き覚えなどないはずなのに、何故か懐かしい。
懐かしくて、愛おしい。
「正人……烈火って誰?」
「…………」
実際に声に出す度に少しずつ烈火という名前が伸の中に浸透していく。これは先ほどの当麻と同じだ。
「羽柴当麻。征士。秀。それから、遼」
伸の口から名前が出ると、それに反比例するかのように正人の表情が強張っていく。
「そして、烈火。ねえ…烈火って誰?」
「烈火は……」
正人がようやく口を開いた。
「烈火は、お前が命を懸けて護ろうとした人だよ」
「命って……」
「そしてお前を命を懸けて護ろうとしてくれた人」
そう言った正人は、なんだか今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「……正人?」
頼むから。
お願いだから、思い出さないでくれ。
伸には、正人の心がそう叫んでいるのが聞こえたような気がした。
「やっぱり……僕には他に還るべき場所があったんだね」
ぽつりと伸がつぶやいた。
正人は絶望的な表情でそんな伸を見上げる。
「何でだよ……何で思い出すんだよ。……楽しかったんだろ? 戦いのないこの時間は……もう、戦わなくていい、この時間は」
「……正人」
「お前の忘れていた記憶は、辛い記憶じゃなかったのか? だからお前の背中の傷は、ちっとも治らなかったんじゃないのか?」
「ごめんね、正人」
「解放されたくはないのか? 過去のしがらみも何もかも忘れて、平和に暮らすことがお前の…オレとお前の願いじゃないのか?」
「うん……そうなんだけど。でも……」
「…………」
「それでも、僕は当麻に…僕の仲間であるみんなに出逢いたいんだ」
「…………」
「何度でも、出逢いたいんだ」
「そんなこと言って……お前、絶対後悔するぞ」
「…………」
「絶対。絶対後悔する」
「……うん。わかってる。ごめんね、正人」
心配かけて。
わがまま言って。
つらい思いをさせてしまって。
「ごめんね」
繰り返される伸の謝罪の言葉に、正人はもう何も答えず、ゆっくりと立ち上がった。そしてそのまま無言で自転車にまたがると、伸にも荷台に乗れと促す。
「……正人?」
「ほら、早く乗れよ」
促されるまま、伸は静かに自転車の荷台に掛け寄った。
「何処へ行くの?」
「すべての始まりの場所……かな」
そう言ってきつく歯を食いしばり、正人は自転車をこぎ出した。
もう二度と行きたくないと思っていた、あの忌まわしい場所に向かって。

 

前へ  次へ