RE:スタート -第2章:消えた記憶−(5)

「悪いな。迷惑かけて」
「そう思うんだったら、いつまでも目の前をウロチョロしてないで、さっさと帰ればよかったのに」
「帰ってほしかったのか?」
「当然だろ」
伸が少し嫌みな口調で言うと、当麻はさすがに恐縮してうなだれた。そして何故か嬉しそうな顔をして伸を見る。
「……何?」
「いや、お前すっかり元通りだな」
「元って……」
「背中の傷もすっかり消えたんだろう」
「は? なんのこと?」
消えるも何も今此処にいる伸の背中に傷はないのだ。伸は眉を寄せて不審げに当麻をみあげた。でも、当麻の表情に変化はない。吸い込まれそうな瞳の色で、当麻は伸を見つめ続けている。
なんとなく気恥ずかしいような気持ちになって伸が目をそらしたとたん、二人の間に漂った空気を払うように当麻の腹の虫が鳴り響いた。
「あ……悪い」
「……空気読まない奴って言われるだろ。君」
「腹の虫は自分の力じゃ制御できねえんだよ。仕方ない」
「……ったく。そんなにお腹すかせて何やってんだか。っていうか、今日まともにご飯食べた?」
「いや。実は朝から何も食ってない」
「バカか、君は」
怒るより呆れるより先に身体が動いた。
伸は何の躊躇もなく当麻の腕をとり、そのまま部屋を出ると、階下のキッチンへと引っ張って行った。そして、手慣れたしぐさで鍋をコンロに掛ける。
「え…と、伸?」
「夜食。ラーメンでいいよね」
「…………」
当麻の答えを待たず、伸はキッチンの棚の奥から迷わず塩ラーメンの袋を取り出し、沸騰し始めたお湯に麺をポチャンと落とした。そして、そのまま流れるような動作で冷蔵庫を開けると細ネギを数束取り、刻み始める。
規則正しい包丁のリズムを聞きながら、当麻はゆっくりとキッチン内を見回した。
家族用の大型冷蔵庫。きれいに整理整頓されたお椀や皿。並んだ調味料。その規則性は驚く程、小田原にある柳生邸のキッチンと同じだ。
「はい、出来上がり」
そう言って伸は最後の仕上げに、バターのかけらをひとつスープの中に落とし込む。
「ネギ大盛りのバター乗せ。一丁上がり」
「………伸」
伸からラーメンの器を受け取り、当麻は呆けたような表情で顔をあげた。
「なんで、これにしたんだ?」
「……え?」
「オレがこれ好きなの覚えてたのか?」
「…………!」
伸の表情が一瞬ひるんだ。
かなりの夜型人間であり、しかも食欲旺盛だった当麻は、ほかの皆に比べ伸に夜食を作ってもらう機会が一番多かった。
そしてそれは、最初の頃こそ頼まれてから文句を言いつつ渋々作ると言った感じだったものが、そのうち頼まれもしないのに作ってくれるようになり、いつの間にか夜食をつくることが伸の日課のようになっていたのだ。
しかも作るものは当麻の好物ばかり。中でも当麻が一番好んで食べていたのはこのメニューだった。味噌でも醤油でもなく、塩ラーメン。そして、いつもネギ大盛りにバター乗せ。
「……ほんの少しでも思い出した?」
「そんなこと……」
ない。と唇の動きだけで伸がつぶやいた。
「だったら、なんで迷いなくこれを選んだんだ?」
「……分から…ない」
「……伸……」
当麻が確かめるように伸の名を呼ぶ。
その声に伸はビクリとなって弾かれたように顔を上げた。
「た…食べ終わったら洗ってそこに置いておいて。僕、先に部屋に戻ってるから……」
そして早口でそう言うと、伸は逃げるようにキッチンから出て行ってしまった。
さすがに後を追うことは諦め、当麻はキッチン中央のテーブルで、伸の作ってくれたラーメンをすする。
いつもとまったく同じ味がした。
当麻が一番好きな味。
それがとても嬉しくて。
とてもとても嬉しくて。
そして、それがとても苦しかった。

 

――――――食事を終えて部屋に戻ると、伸のベッドの横に客用と思われる布団が一式敷かれてあった。伸は所在無げに自分のベッドに腰をおろし両手で膝を抱えている。
当麻が部屋のドアを開けると、伸はピクリと顔をあげたが、当麻と目が合う寸前にすっと横を向いてしまった。
「布団まで用意してくれたんだ。ありがと」
「……うん」
伸は当麻と目を合わせることなく、それでも微かに頷いた。
「え…と。夜食も、ありがとうな」
「うん。味はどうだった?」
「美味しかったよ。いつもお前が作ってくれる味だ」
その言葉ではじめて伸は顔をあげ、今度ははっきりと当麻を見た。
「……いつも?」
「ああ」
「僕、君に何か作ってあげたこと…あるの?」
「………え?」
伸の瞳にすがるような光がともる。おもわず当麻は布団を飛び越え、伸のベッドのわきに膝をついた。
「あるよ。覚えてないか?」
「…………」
「夜食だけじゃない。朝も昼も夜も。お前の作る料理はいつもめちゃくちゃ美味しくて。オレと秀が先を争うようにお代わりばっかするもんだから、いくら作っても足りないって怒られて」
「秀……?」
「そう、秀。覚えてないか?」
「…………」
伸の瞳が戸惑うように揺れた。
「オレは覚えてるよ。お前のこと。お前が好きな色も、いつも飲んでる珈琲の味も」
「……好きな色?」
「水色だろ。海の色。お前は海の守護者だから当然なんだけど。オレも天空だから青で一緒だなって言ったら、宇宙の青と海の青は微妙に違うから一緒じゃないよって」
「そんなこと言ったの? 僕が?」
こくりと当麻は頷く。
「好きな作家は宮澤賢治。中でも『銀河鉄道の夜』が好きだって言ってた」
「…………」
「映画の趣味は征士と似てた。二人で遠出して単館上映しかしてないようなマイナー映画観に行ったりしてさ。この間はたまたま征士のほうにほかの用事があったから一人で行ったんだけど、今度は一緒に行こうって約束してたんだぞ」
「……そう…なんだ」
「あと、今日はみんなでお前の部屋の掃除をしたんだって。水色のカーテンも新調したって言ってたぞ」
「……僕の…部屋?」
伸の顔に不審げな影が差す。
「それって、どういうこと? どうして君の所に僕の部屋があるの?」
「…………」
「そもそも、どうやって僕達は出逢ったの?」
伸の問いかけに、今度は当麻が言葉を詰まらせた。
「それ……は……」
もともと当麻とは違い、他の者たちは転生後すぐに過去の記憶を思い出していたわけではない。それぞれが繰り返しおぼろげな夢を見て、なにかしら予感めいたものを持ち、最終的に鎧珠を手にして覚醒するのだ。
そして覚醒したらもう元には戻れない。嫌がおうもなく戦いに引きずり込まれる。
けれど今、伸の中に戦いの記憶はない。記憶も過去もすべてリセットされているのだ。
ということは。今のままであれば、伸はもう戦わなくてすむ。
伸がいつも心から望んでいた、穏やかで平和な日々を、なんの不安を抱くこともなく生きていけるのだ。
「どうしたの?」
話せない。
話すことなんか出来ない。
伸の笑顔が壊れることが分かっているのに、そんなこと出来るわけがない。
「どうして何も言わないの? もしかして今まで言ったことは嘘?」
「違う……!」
「だったら話して。僕のことを知ってるっていうのは、君の妄想なんかじゃないんだろ?」
「違う…妄想なんかじゃない。でも……」
「でも……?」
「言ってもきっと信じてもらえない」
他にうまい言い方が思いつかなくて、当麻は苦し紛れにそうつぶやいた。
「……やっぱりバカだろう。君」
呆れて伸が言う。
「ここまででたらめなことしておいて、今さら何言ってんの?」
「…………」
不思議と笑みが浮かんだ。きっと今の自分は、泣き笑いのような表情になっているだろう。でも、本当に、泣きたいのか笑いたいのか、よく分からないのだ。
「何……?」
当麻の表情をどうとらえていいか判断に困ったのか、伸が僅かに首をかしげた。
「何か僕、変なこと言った?」
「いや、そうじゃないよ……」
背中に傷を負ってから伸が消えるまでの間。伸は本当に今にも消えそうに儚げだった。
それがどうだ。
今日の伸は、不思議なほどにくるくるとよく表情が変わる。怒ったり笑ったり呆れたり。それはきっと、忌まわしい過去のしがらみから解放された、本来の伸の姿なのだろう。
伸の本来の自然な笑顔。正人はそれを一瞬で手に入れた。
卑怯な手だと思った。記憶をなくさせ、自分達と引き離して、無理やりこの街に引き戻すなんて。
でも。それでも。
これが伸の笑顔を取り戻すための最善の方法だったのは嘘じゃない。
本当に、反論の余地もない程に、自分達に出来る唯一の方法だったのは間違いないのだ。
「あの…えと、ごめんね……」
ぽつりとささやくように伸が言った。
「……なんで謝るんだ?」
「……だって、君、なんだかとても辛そうな目をしてるから……」
当麻が息をのんで伸を見つめた。
「ごめんね。大丈夫?」
覗き込むように顔を近づけて首をかしげている不安そうな表情も。優しい緑の瞳も。それは全部、いつもの見慣れた伸の顔だった。
変わらない、と、当麻は思った。
今、目の前にいるのは、出逢っていてもいなくても変わらない、本当の、本物の伸だ。
だったらもう。
もう、いいのかもしれない。
記憶があってもなくても、同じ伸なのであれば、笑顔のほうがいいに決まってる。倖せなほうがいいに決まってる。そんなの一目瞭然ではないか。
誰にだって分かる。当然のことだ。
当麻は少し遠慮がちに手を伸ばし、そっと伸の髪に触れた。いつもと同じ柔らかな髪だった。
「やっぱオレ……お前が好きだ」
「………は?」
いきなり何を言い出すのだろうと、さすがに驚いて伸の目がまん丸に見開かれた。
「覚えてないかもしれないけど、オレ、ずっとお前のことが好きだったんだよ」
当麻の告白に、ぱあっと伸の頬が赤く染まった。そして何か言い返したいのだろうけど上手く言葉が見つからないのか、口をパクパクさせている。
当麻はまぶしそうに目を細めた。
「……もしかして……僕と君って…そういう…関係なの?」
「だと言ったら信じるか?」
伸が困ったように首をかしげた。
「お前は信じないかも知れないが、お前はオレ達の仲間だよ」
「……仲間?」
「そうだ。遥か昔からの大切な仲間だ」
「遥か……昔」
「そうだ。遥か昔」
「でも……僕は、君を知らない」
「ああ」
「知らないんだ」
「それでも、オレはお前に逢いたかったんだよ」
当麻の両手が伸の頬を包む。お互いの視線はもう触れるほどに近い。
「……伸……」
膝をついた体勢から、そのままベッドの端へと座り直し、当麻はまるで壊れ物を扱うように伸の背中に腕をまわした。
「……悪い、少しだけ」
「…………」
「少しだけ、このままでいさせてくれ」
ほとんど聞き取れないほどの声でそう言って、当麻は伸を抱きしめた。
伸は何も答えず、でも当麻の腕を振り払おうとはしなかった。
暖かな伸の温もり。優しい匂い。少しも変わらない伸がいる。
窓の外から微かに波の音が聞こえた。
伸が好きだと言っていた波の音。
いつか一緒に行こうと言っていた。一度、君に見せたいと言ってくれた萩の海の波音を、奇しくもこんな形で聞くことになるなんて。
「君……泣いてるの……?」
伸がそっと顔をあげた。

 

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