緋色 (2)
「…………!」
クラピカの肩に手が触れるかと思った瞬間、どうしてだかレオリオは慌てたように手を引っ込めると、そのままクラピカに背を向けた。
「……?」
何やってんだ? このおっさん。
当然のように、いきなりくるっと後ろを向いてしまったレオリオにクラピカが不審気な目を向ける。
「……どうした? レオリオ」
「へ? い…いや……なんでもねえ……」
傍目でも分かるほど明らかに動揺して、レオリオはわたわたと所在なさげに手を動かしてる。
いったいこのおっさんは何を焦ってるんだろう。
と思った瞬間、クラピカの周りの空気が激変した。
「……?」
見開かれた眼がレオリオの背中を通り越してその先の廊下を見つめている。
なんだ?
オレとレオリオは同時にクラピカが見つめているその先へと視線を動かした。
視線の先。
何か動く小さなものが見えた。
糸のような細い八本の足がカサリとうごめく。
なんだ蜘蛛じゃないか。
背中が赤いわけでもないし、たぶん毒性もない安全な種類のやつだろう。
そんな驚くようなものでもない……。
…………。
って。
待て。
ちょっと待て。
蜘蛛!?
「クラピカ!!」
考えるより先に体が動くっていうのは、ああいうことを言うんだろう。
いきなりレオリオはクラピカに飛び掛り、まるで羽交い絞めみたいな状態でクラピカの身体を抱きしめた。
クラピカから蜘蛛を護るためか、はたまた蜘蛛からクラピカを護るためか。
まあ、恐らくその両方なんだろうけど。
「……!?」
驚いたクラピカの背中がしなる。
同時にオレの背中にもビリッと電撃が走ったような気がした。
なんだろう。チクリと痛い。
蜘蛛は、というと突然変わった空気と人の気配に怯えたように、さっさとどこかへ姿を消した。
ほんの一瞬の出来事だ。
「だ……大丈夫か? クラピカ」
「あ、ああ……」
レオリオに抱きしめられて呆然とした表情のまま、クラピカが頷いた。
そんな自分達の体勢に気付き、レオリオが慌ててクラピカを抱えていた腕を離す。
「わ…悪りぃ……」
慌てふためくレオリオは耳まで真っ赤になっていた。
でも、それ以上に赤かったのは、クラピカの眼。
俗に言う、緋の眼で、クラピカは蜘蛛が消えた廊下の端を見つめていた。
ホントに赤くなるんだ。
蜘蛛を見ただけで激変するって言ってたの、冗談でも何でもなかったってことか。
トリックタワーの中で見た緋の眼とまったく同じ光を放つクラピカの眼は、確かに吸い込まれるような美しさだった。
「……確かにマジで綺麗だわ」
「……え?」
思わず呟いたレオリオの言葉にクラピカが反応した。
「綺麗…とは……?」
「あ、悪い。こんな間近で緋の眼を見るのって初めてだからよ」
「あ……ああ、そうか……」
クラピカは、じっとレオリオを見つめた後、すっと眼をそらした。
そして、小さな声で呟く。
「いくら綺麗だとはいえ、そんなに人間の眼球を欲しいと思うものなのだろうか……?」
「…………」
さすがにレオリオが沈黙した。
幻影旅団の襲撃を受けた時、殺されたクルタ族は皆、眼球を抉り取られていたらしいっていうのは聞いている。
どうしてそんなことをしたのか、オレなんかには皆目見当もつかないんだけど。
ただ、クルタ族の緋の眼は、世界七大美色と言われるほどの美しさなんだと。
そう言われれば興味が湧くのはホント。
でも、緋の眼が美色なのは、ただ色が綺麗だからってだけじゃない。と思うんだよなあ。
少なくともクラピカ以外のクルタ族の眼を見て綺麗だって思うかどうかって言ったら。
……って、なんでオレ、こんなこと考えてんだろう。
「そりゃ、まあ、綺麗だとは思うけど…さ。だからって死んだ人間から眼球取り出すなんて正気の沙汰じゃねえよ」
「…………」
「オレはどっちかっていうとキンキラキンのお宝のほうが欲しいね」
「お前が欲しいのは金だろう」
「そうとも言う」
必要以上に胸を張って答えるレオリオを見て、クラピカの表情がほんの少し和らいだ。
ま、呆れてるってのが正しいんだろうけど。
そうこうやってるうちにクラピカの眼も、いつの間にかもとの碧色に戻っている。
レオリオはちょっと残念そうに色の変わった眼を覗き込んでいた。
「なあ、そういえば、緋の眼って、怒ると出てくるのか?」
「え……? いや……」
「違うのか?」
「え…と……必ずしも怒りに直結しているわけではないと…思うが」
「そうなのか? じゃあ、逆に大爆笑したときも赤くなるとか?」
「それは…試したことはない」
「じゃあ試してみよう。ちょっと待ってろ。オレが最強の冗談で笑わせてやるから」
「……はあ?」
今度こそクラピカが呆れて目をまん丸に見開いた。
オレも思わず頭を抱える。
ったく、何考えてんだ。あのおっさんは。
「どんなジョークがいいかなあ? そうだ落語って知ってるか?」
「東の方の島国で流行っていると文献で読んだことが……」
なに律儀に対応してんだ。クラピカも。
「ああいうのがいいのかなあ? あ、駄洒落はどうだ? ふとんが吹っ飛んだ、とか」
「…………」
「隣の家に塀が出来たってねえ。へぇ〜」
「…………」
「アルミ缶の上にあるミカンを取ってください」
ついにクラピカが吹きだした。
「なんだ。こんなので笑えるのか? 沸点低いな」
「バカを言うな。これは呆れているんだ」
そう言いながらクラピカの表情は笑顔だ。
「…………」
その時、レオリオがフッと息を洩らした。
そして、そのまま無意識なのか、静かに手を伸ばしそっとクラピカの金糸の髪を撫でる。
無骨だと思ってた手が、驚く程に優しく髪に触れている。
クラピカは一瞬驚いた顔をしたが、その手を叩くことはなく、そのままレオリオを見つめていた。
綺麗な綺麗な碧の瞳で。
その瞬間、オレは理解した。
そうか。
これが目的だったんだ。
最初から、これだけが目的だったんだ。
今までのくだらない話も、何もかも。
全部、この笑顔を引き出すための策略。
クラピカの穏やかな笑顔。
ほんの少しでいいから、この笑顔を見せて欲しくて。
クラピカを笑顔にしてやりたくて。
「チェッ……」
オレは小さく舌打ちをした。
なんだか、胸の中がもやもやしてる。
先を越されたような。置いてきぼりを食ったような。変な気持ち。
どうしたんだろう。これは。
自分の中によく分からない感情が渦を巻いているみたいだ。
気持ち悪い。
オレは二人に悟られないよう気配を殺して、その場を立ち去った。
――――――「どこ行ってたの? キルア。トイレ?」
みんなが寝ている大部屋に戻ってくると、ゴンが寝ぼけ眼で聞いてきた。
「あ、まあ、そんなとこ。あと、ちょっとクラピカが……」
「クラピカ? どうかした?」
「え…と。なんか寝付けなくて困ってたみたいだから、ちょっと様子見に行ってただけ」
「ああ、そっか〜」
間延びした声で相槌を打ちながら、ゴンはぐるっと部屋の中を見回した。
「でも、大丈夫じゃない? レオリオも一緒なんでしょ?」
「え?」
もしかして、今のは、部屋にレオリオの姿があるか確認してたのか?
「レオリオが一緒なら、心配することないよ。大丈夫」
「あ…ああ、そうだよ…な」
「そうそう」
にっこりと笑って再び眠りに入ったゴンを見下ろしてオレは苦笑する。
大丈夫、か。
わかってるよ。そんなこと。
オレがいなくても大丈夫なんだってことくらい。
そんなこと。
とっくにわかってるんだよ。
再び少しだけチクリと胸が疼く。
そういえば、レオリオは、緋色と碧のどっちが好きなんだろう。
いつか聞いてみようか。
そんなことを考えたんだけど、すぐにやめた。
だってさ。答えなんて分かりきってる。
レオリオはきっと、それがクラピカの瞳であれば、どっちも同じくらい好きだって言うんだ。
そう思うと、それがなんだか癪に障る。
やっぱ、なんか悔しかった。
「チェッ……」
オレは誰にも聞こえないくらい小さな声で、もう一度だけ舌打ちをした。FIN.
2014.10.11 脱稿