螺旋階段(9)

ぼんやりと目を開けて当麻は室内を見回した。
何枚も重ねてかけられた重い毛布から顔をあげると、伸が呆れた顔をして腕を組んでいる姿が目に映る。
「あれ……伸?」
「あれ? じゃない。まったく、人がちょっとキッチンへ行ってる間に何熟睡してるんだよ。起こすわけにもいかなくて困ったじゃないか。せっかくスープ温めたのに」
「あ……悪い……って、オレ、何でこんな所で寝てるんだ?」
「へ?」
「そういえば、お前も何で此処にいるんだ? まだ萩に帰ってるはずだろ。予定が変わったのか?」
「…………」
伸が、信じられないといった顔で目を丸くした。
「伸?」
「……あの…………」
「おかしいなあ。そう言えば足が痛いぞ。それにこの部屋、なんでこんなに暑いんだ?」
「…………」
本当に覚えていないのだろうか。この男は。
伸は大きくため息をついて手に持っていたスープのカップを当麻の目の前につきだした。
「これは?」
「見れば解るだろ。卵スープ」
「いや、そうじゃなくて……」
「階段の下でのびてたんだよ、君。熱が高くて、どうやら一昼夜廊下に倒れたままだったようだけど」
「ありゃ」
「僕が此処まで運んで、毛布かけて、それに、スープまで作ってやったんだから感謝しろよ」
そう言って、伸は当麻の手の中にカップを握らせた。
「スープ飲んで」
「あ、ああ」
「あと、薬も飲んでもらわなきゃいけないからね」
「ああ」
「君、さっきしばらくの間、目を覚ましてたんだけど、覚えてない?」
「うーん。そういえばおぼろげに何か話したような……」
「……」
「でも、頭がぼーっとしてたからな。あんま覚えてないや」
「……何を話したかも?」
「ああ」
「……」
ほんの少し不満そうに伸は当麻を見下ろした。
心なしか眉間に皺が寄っているようだ。
「……伸?」
「何?」
「お前、何怒ってんだ?」
当麻が上目遣いに伸を見上げた。
一瞬伸がぎくりとする。
「な……なんだよ、それ」
「…………」
「別に、怒ってなんかいないよ」
「そうか?」
「…………」
やはり、伸の態度は微妙に機嫌が悪そうだ。
当麻はじっと探るように伸の様子を窺った。
「やっぱ、オレ何か言ったろう。お前を怒らせるような事」
「そんな事ないよ」
「じゃあ、なんで機嫌悪いんだよ、お前」
「…………」
すっと伸は当麻から視線をそらせた。
「伸?」
「何でもないよ。機嫌なんか悪くない。怒ってもないから。ほら、ちゃんと温かいうちに飲んで」
やはり釈然としない表情で当麻は伸を見上げている。
伸は当麻に背中を向け、気づかれないように小さくため息をついた。
熱の為、さっきの事を覚えていなかったからといって、それは別段当麻の所為でなどない。
怒ってなどいない。もちろん、怒る理由なんかない。
ただ、ほんの少し、心がもやもやするだけだ。
ほんの少し。
「…………」
「伸……?」
「お粥持ってくるから、ちょっと待ってて」
低くつぶやき、伸は逃げるようにキッチンへと走っていってしまった。
「何なんだろう……?」
首をかしげながら、当麻はひとくちスープを飲んだ。
「おっ温かいや」
そのスープは、ほんのりと甘くて、優しい味がした。
当麻は嬉しそうに顔をほころばせて、もうひとくちスープを飲んだ。

 

――――――「まったく、よくそれで自分の事、智将だとか言えるよね」
目の前でガツガツと伸の作ったお粥をかき込んでいる当麻を見て、伸が呆れたように肩をすくめた。
「昨日の昼からずっとあんなとこに倒れてたなんて、普通じゃないよ。僕が早めに帰って来なかったらどうするつもりだったの? 倒れたまま正月でも迎える気だったわけ?」
「仕方ないだろ。足が痛くて歩けなかったんだから」
「そこだよ、問題は。階段から落ちて足首捻挫するなんて、受け身もまともにとれないのか、君は」
ちらりと伸の顔を見上げ、当麻がお粥の最後のひとくちを頬張った。
「あん時は頭痛くてさ。背中もぞくぞくしてたし、悪寒はするわ、吐き気はするわで大変だったんだ。風邪の初期症状って奴だな」
「そこまで解ってて……」
「まあ、いいじゃないか。お前はちゃんと帰ってきてくれたんだし。良かったろ。早く帰ってきて」
にやりと当麻が笑った。
「ああ、良かったよ。本当に。めでたい正月に戻ってきて最初に目にするのが君の腐乱死体だなんて、あんまり気味のいいものじゃないからね」
「おい、腐乱死体って……」
「そっか、冬だからそうそう腐乱はしないか。逆に冷凍マグロみたいになってたかな」
「そこまで言うか?」
「……あんまり人を心配させるんじゃないよ、バカ当麻」
コツンっと当麻の額を指ではじき、伸が少しすねた口調で言った。
「階段の下で倒れてる君を見た時、心臓が止まるかと思ったんだから」
「…………!!」
当麻が空になったお椀を握りしめたままじっと伸を見上げると、伸は僅かに頬を赤く染めて慌てて立ち上がった。
「と……とにかく感謝して欲しいね。帰ってくるの大変だったんだから」
お椀を当麻の手から奪い取り、伸は急いでそれをテーブルの上のトレイに置いた。
カチャンと小気味のいい音が室内に響く。
「そういえばよく帰ってこれたな。確か年始はお姉さんの旦那さんになる人の家へ挨拶に行かなきゃいけないとか何とか言ってなかったか?」
「う……うん。予定では親戚一同の挨拶回りがあったんだけど、年末に顔だけ出して何とか許してもらったんだ。堅苦しいの苦手だって言ってね。おかげで姉さんに随分文句言われたよ。毛利家の家長としての最後の務めくらい果たしなさいって」
「最後の……?」
すっと当麻が眉をひそめると、伸は小さく頷いて当麻の寝ているソファのそばに座り込んだ。
「ほら、一応家の中の唯一の男子だから、僕。征士んとこほど古いしきたりとかはないけど、萩焼も代々続いてる家業だし、なんとなく家を継ぐ者としての役目みたいなものはあったんだ」
「へえ」
「でも、家業は姉さんが継いでくれる事に正式に決まったし、志塚竜介さん、あ、姉さんの婚約者なんだけど、志塚さんが家の籍に入ってくれることになったから」
「婿養子ってやつか?」
「そうそう。だから2月には僕は毛利家の唯一の男子じゃなくなる。家業を継ぐ必要もない。自由になれるんだ」
「……自由に?」
ふっと当麻の表情が曇る。
「うん。こっちへ帰ってくる前に、母さんが言ったんだ。僕に、自由になってねって。もう、家の事も家業の事も心配しなくていいから、お前は自由に自分の好きなことをやりなさいって」
「…………」
「まあ、全然萩に帰ってこない僕に愛想尽かしたっていうのが本音かもしれないけど」
「それで?」
「……え?」
「それで、お前は自由になって嬉しかったか?」
「……当麻?」
やけに真剣な顔で当麻は伸を見つめていた。
伸は少し考え込むようにそらせた視線を再び当麻に向け、ゆっくりと口を開いた。
「なんだろうな。楽になったのは事実だし、もう家に縛られずにすむと思うと嬉しいんだけど……でも、ちょっと、寂しいかな?」
「寂しい」
確かめるように当麻は伸の言った言葉を繰り返した。
「うん。別に親子の縁を切ったわけでも勘当されたわけでもないんだから、今までと何も変わっていないはずなんだけど、今の気持ちを言葉にするとやっぱり寂しいが一番近い気がする」
「…………」
風で窓がかたんと揺れる。
伸は自分の言った言葉そのままに少しだけ寂しそうな目をしていた。
「そういうものなのかな……?」
当麻がぽつりと言った。
「そういうものだよ、きっと。みんなそうだよ」
「みんな?」
「そう。寂しいよ。自由になってね、なんて言われると。相手のこと好きであればあるだけ寂しいと思うよ」
「…………」
自由に。
それでは、あの時、母も寂しかったのだろうか。
家を出ていく前、当麻の言った言葉を聞いて寂しかったのだろうか。
「例え自分でそれが良いって思って決めたことでも同じだよ。僕だって中学の頃から家業なんか継ぎたくないって思ってたし、自分のやりたいことを自由にやってみたいって思ってた。でも、いざ、それでいいよ。自由になってって言われると、寂しい」
「…………」
「我が儘なだけなんだけどね。でも、そんな時改めて思い出すんだ。僕はあの家の子供だったんだって。例え離れてても僕は毛利家の一員でいたかったんだって。そして、今まで以上に僕はあの家が好きになった」
「今まで以上に?」
「うん」
「…………」
「今までも。そしてこれからも大好きなままだよ」
「…………」

大好きよ。当麻君。
たとえ離れてても、私はあなたを大好きよ。

伸の言葉は、そのまま母親の言葉になって当麻の耳に届いた。
「ありがとな。伸」
「……?」
「お前はいつも、オレが一番欲しがっている言葉をくれる」
何のことかと小首をかしげる伸が、とても愛しく見えた。

 

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