螺旋階段(8)

「良かった。なんとか間に合って」
年末年始の休日ダイヤの為、いつもより早い時間に出てしまう最終バスに何とか駆け込んだ伸は、荷物を肩に白い息を吐きながらいつものバス停に降り立った。
急ぐ心を無理矢理に押さえ込み、それでも小走りに柳生邸へと向かう。
「…………?」
ところが、目の前の窓に一つも明かりが灯っていないのを見て、伸はおやっと首を傾げた。
「当麻……居ないのかな?」
玄関のドアに鍵はかかっておらず、なんだやっぱり居るんじゃないかと、伸は勢いよくドアを開けた。
「当麻? ただいま!」
しんとした家の中に自分の声だけが響く。
何だかやけに寒々とした家の中は、まるで人の気配がしなかった。
「…………」
パタンとドアを閉じ、伸は居間へと向かった。明かりもついておらず、暖房も入っていない寒い部屋。
やはり当麻の姿はなかった。
「当麻の奴……どっか行ったのかな? でも鍵はかかってなかったし…………」
とりあえず荷物を置いてこようと廊下へ出て階段へ向かいかけた伸は、次の瞬間、凍り付いたように表情を強ばらせた。
「……当麻!!!」
階段の下に倒れている当麻の姿を見て、伸の肩から荷物が滑り落ちる。
「当麻!!!」
バンッと荷物を放り投げ、伸は真っ青な顔色のまま当麻のそばへ駆け寄り、その身体を力任せに揺さぶった。
「当麻! 当麻!! 当麻!!!」
ぐったりとした当麻の身体は火のついたように熱い。
「当麻! しっかりして!! 当麻!!」
必死になって呼び続けると、ようやく当麻の眉がピクリと反応し、熱に潤んだ瞳が伸の方へ向けられた。
「……伸……?」
ほとんど聞き取れない程の声で当麻がつぶやく。
「なんで……前……此処に……?」
「……この……」
声を詰まらせ、伸は再び当麻の肩を揺さぶった。
「……この……バカ当麻……何やってんだよ……!!」
「…………」
「いつから……こんな……こんな所で……まったく、何やってんだよ!!」
当麻がそっと手をのばし、伸の瞳から溢れでた涙を拭った。
「伸? 何、泣いてんだ?」
「……泣いてなんかいない。呆れてるんだよ」
のばされた当麻の腕を反対に掴み返すと、伸はそのまま腕を自分の肩へと回し、当麻を抱え上げた。
「とにかく、移動するよ。歩ける?」
「…………」
「当麻?」
「歩けないんだ。もう」
「何……言って……」
「寒くて、寒くて……もう一歩も歩けない」
ふいにずんっと肩にかかる当麻の体重が重みを増した。
「当麻?」
「…………」
「当麻……?」
どうやら完全に意識を失っている様子の当麻を見て、伸はぎゅっと唇を噛むと、静かに当麻の身体を抱えなおし、ゆっくりと居間へ向かって歩き出した。

 

――――――「…………!」
額に触れるひんやりとした冷たい感触に、ようやく当麻は目を覚ました。
「気がついた? 当麻」
水に濡らした冷たいタオルを手に、伸が当麻の顔を覗き込む。
「此処は……?」
「居間のソファ。本当は二階へ運ぼうかとも思ったんだけど、キッチンの近くの方が面倒見やすいから、とりあえずこっちに寝かさせてもらったよ。動けるようになったら二階へ移動してもらうからね」
「…………」
空気が暖かい。
部屋の暖房とそばに寄せた小型のストーブのおかげで、汗が出る程の熱気が立ちこめている。
「少し暑いかもしれないけど汗かかなきゃ熱さがらないからね。あと、スープ作ったから飲んで。胃に何か入れなきゃ薬も飲めないだろう」
「…………」
当麻が不思議そうな目をして伸を見上げた。
「何? 当麻。変な顔して。どうかした?」
「何でお前が此処に居るんだ? 萩に帰ったんじゃ……もう、そんなに日にちが経ったのか?」
呆れた顔で伸は当麻を見下ろした。
「まったく、時間の感覚も解らなくなる程昏睡していたのか、君は。今日はまだ31日だよ。だいたい、何時間あんな所に寝転がってたんだい?」
「…………」
「当麻?」
「……秀と遼が帰ったのを見送って……それからキッチンへ行ったんだ」
「キッチンへ?」
「ちゃんと食べろって秀が言うから……だから……でも、駄目なんだ」
「何が? 何が駄目なんだよ?」
「キッチンへ入れないんだ。」
「…………?」
「あそこはお前の匂いがする。居ないのに……お前は何処にも居ないのに。あそこにはお前の匂いが残っているんだ」
「…………」
「苦しくて……入っていけない」
「当麻……」
「胸が痛くて、苦しくて入っていけないんだ」
ゆっくりと当麻が両手で顔を覆う。
伸はどういっていいか解らずに、じっとそんな当麻を見つめていた。
本当に、どうしてこんなに当麻は。いつもいつも当麻は。
「……だからってね、当麻」
ようやく伸は当麻のそばへしゃがみ込み、そっと言った。
「何も食べずに一昼夜あんな所に寝転がっていたら風邪ひくの当たり前だろ。本当、何考えてんだよ」
「何って……何も……」
「何もじゃない。このバカ当麻。もう少し自分の身体を大事にしなよ。そんなんじゃ長生きできないよ」
少しでも元気を出させようと明るくそう言った伸を、当麻が意外そうな目で見上げた。
「長生き……?」
「そ……そうだよ。ちゃんと長生きする為に身体は大事にしなきゃ」
当麻の反応に多少戸惑いながら、伸は再びそう言った。
「オレ、長生きなんてしないよ」
「……!?」
当たり前のように言い放った当麻に、伸は驚いて目を見開いた。
「と……当麻? 何言って……」
「オレ達が長生きできる身体だなんて、お前本気で信じてるのか?」
「…………」
おもわず伸はゴクリと唾を飲み込んだ。
「今まで、オレ達……30歳まで生きたことないんだぜ」
「…………」
「お前だって知ってるはずだ。烈火が死んだのはあの人がまだ19の時だった。オレが斎を殺した時、斎はようやく18になったばかりで、オレも20……いくつだったかな。そんな頃だ」
「…………」
「禅や紅などもっと若かったはずだし、一番年長だった鋼玉だって、まだ30にはほど遠かった」
「…………」
「それでどうしてオレ達だけが長生き出来るなんて考えられる?」
「当麻。」
「未来なんて何一つない。大人になった自分なんて想像もつかない。オレは……」
「…………」
長い。
長すぎる時間の中。
当麻はあまりにも重すぎる過去の記憶に捕らわれて、何一つ信じることが出来ないでいるのだ。
輝かしい希望も、明るい未来も、当麻の記憶の重さの前にすべてかすれて消えていく。
「当麻……」
伸は、こみ上げてきた涙を拭い、気を取り直してそっと当麻の髪を梳いた。
「当麻。今、未来が見えないって言ったよね。他のみんなの未来も本当に見えない?」
「…………?」
「自分はともかく、僕には見えるよ。大人になった遼がカメラを手に世界中飛び回って素敵な写真を撮ってる所」
「…………」
「秀が家の店を継いで、元気に料理を作っている所」
「秀の……店?」
僅かに当麻が反応を示した。
伸は大きくうなずいて、ふっと当麻に笑顔を向けた。
「そう、秀にお似合いの可愛い奥さんと、元気な子供達が駆け回るにぎやかな店で、秀が毎日美味しい料理を作ってるんだ。その店はさ、この間秀が言った通り、中華街で一番有名な店になってるんだ。きっと」
「…………」
「ほら、想像できるだろ」
ようやく当麻が宇宙色の瞳で伸を見上げた。
「ねえ、当麻。僕とひとつ約束をしよう」
「約束?」
「君の30歳の誕生日。予定を空けていてほしいんだ。君が30歳になったお祝いの日、一緒に秀の店に食事に行こうよ」
「…………」
「予約をいれてさ。二人で行くんだ。賑やかな中華街の中心にある秀の店。扉を開けると暖かな店内で料理を運んでた秀の奥さんが僕らを見つけてこう言うんだ。いらっしゃい。お待ちしてましたよって」
「…………」
「店の隅の窓際に取っておいてくれた予約席につくと、秀が厨房から出てくるんだ。来たな二人とも。何が食いたい? 肉でも海産物でも何でもあるぞって。僕が、メニューは秀に任せるから美味しい料理をお願いするよって言うと秀は元気に頷いて早速厨房へ走っていく。店の中は美味しそうな匂いが立ちこめてて、君は店内を見回しながら、早く食いたいなってお腹を鳴らすんだ」
「…………」
「やがて、料理を手に秀が戻って来て、テーブルの上にスープや回鍋肉、餃子なんかを並べ出す。早速ひとくち食べた君に秀が訊くんだ。どうだ美味いだろうって。そしたら君が……」
「伸の料理の方が美味いぞ」
ぽつりと当麻が言った。
「…………そう……君がそんなこと言ったものだから、秀が嫌なら食うなよって、目の前の皿を取り上げるんだ」
「冗談だよ、秀。お前の料理も充分美味いよ」
「…………」
ふわりと微笑んで伸は当麻の顔を覗き込んだ。
「約束だよ、当麻。君が30歳になった誕生日。二人でお祝いをするんだ」
「…………」
「その日は一日中、一緒に過ごそう」
「一緒に……?」
「うん。一緒に」
「…………」
「約束だからね」
そう言って伸は立ち上がり、当麻の肩に毛布をかけ直した。
「じゃあ、さっき作ったスープ持ってくるよ。あと、何だったらお粥も作るけど食べられそう?」
「…………」
「とりあえず先にスープ温めてくるから」
当麻が何も答えないので、伸はそう言い残し背を向けた。
「伸……!」
とたんに当麻が伸を呼び止める。
「何?」
振り向いた伸を見つめ、当麻がほとんど聞き取れないほどの声で小さくつぶやいた。
「伸……オレの事、好きか?」
「……え?」
「ほんの少しでいいから、お前はオレの事、好きでいてくれるのか?」
「…………」
なんだか小さな子供のような目をして当麻は伸を見つめていた。
不安気な。どうかすると怯えているような目。
「……好きじゃなきゃ、姉さんに嫌味言われながら無理矢理帰って来たりしないよ、バカ」
「…………」
驚いたように一瞬目を見開いて、当麻はようやく安心したように微かに笑った。
これ程無防備な当麻の笑顔を見たのは、伸にとっても初めての事だった。
「大丈夫。ちゃんと君の事、好きだから」
「…………」
「僕は、君と一緒に新年を迎えたくて戻ってきたんだから」
「…………」
「そばに居るから。当麻」
もう一度、当麻が嬉しそうに笑った。

 

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