螺旋階段(7)

「ごめんね。当麻君」
いつも明るい母親が、さすがにその時は神妙な顔をしていた。
「別に、源一郎君の事が嫌いになったわけじゃないの。それだけは解って欲しいな」
「…………」
「ごめんね。母親失格だよね、私」
「…………」
「当麻君」
「大丈夫。オレのことは心配せんでもええ。母さんも父さんも自分が一番楽になる方法を選んだだけやんか。別に謝る必要なんかあらへん」
「……当麻君……」
「うちは放任主義やのうて、自己尊重主義なんやろ。オレもその考えには賛成しとる。家に縛られて息苦しくなるんやったら、そんなん、無理して我慢する事ない」
「…………」
「大丈夫。自由になってくれや」
「…………」
「オレは大丈夫やから」
「…………」
本当に、そういった言葉は嘘ではなかった。
苦しいままそばに居られるより、楽になって自由に羽ばたいて欲しかった。
本心からでた言葉だったはずだ。
「……年に何度か逢いにくるから」
「うん。」
「誕生日にはプレゼントも用意するし」
「うん。」
「たまには一緒に食事しようね」
「うん」
「…………」
「…………」
「元気でね」
「…………」
去っていく母親の背中を追いかける気もすがりつく気もなかった。
別に平気だと思っていたのに。
今までだって独りで過ごすことは多かった。
父親は研究所にこもりきりだったし、母親も取材旅行だ何だと、ひどい時は数週間も家を空けることがあった。
今までと生活に変化があるわけではない。
だから平気なのだと。全然寂しくなんかないのだと、そう思って。
なのに。
どうしてこんなに風の音が耳障りなのだろう。
どうしてこんなに寒いのだろう。

 

「寒い? 当麻。風邪でもひいたのか?」
大きな瞳をくるくる動かし、秀が当麻を覗き込む。
「別に。風邪やない」
「ふーん。ま、無理っぽかったら今日の拳法の稽古、休んでいいからな」
「ああ」
やっと出逢った仲間の一人。
金剛は昔と少しも変わらないおおらかな眼差しで当麻を見つめてくれた。
祖父同士が知り合いだったのは偶然の事なのか、仕組まれていた運命なのか。
当麻はようやく仲間として巡り逢えた懐かしい最初の男が金剛であった事に、感謝の気持ちを感じていた。
これが光輪だったら、自分はもっと弱くなってしまっただろう。
烈火だったら、運命の皮肉さに舌打ちをしただろう。
「……それにしても、すげえな。お前って産まれる前の事、みんな覚えてるなんてよ。オレ、そんなの今まで漫画の中の話だけだと思ってたぜ」
屈託のない笑顔で興味津々に聞いてくる、素直な秀。
その素直さにどれだけ救われたか。
「楽しみだよな。他にも居るんだろ。仲間。えっと……光輪と、水滸と、それに烈火か。早く逢いたいな」
「…………」
早く。
秀の心の中には期待ばかりが膨らんでいる。
戦いへの恐怖も何もない。
大切な仲間に逢える。ただ、その想いだけがあるのだ。
「どんな奴なんだろうな。光輪って、めちゃくちゃ美形だったんだろう。今回もそうなのかな?」
「さあ」
「そのスミレ色の瞳のまま転生してたりするのかな?」
「スミレ色の……?」
はっとなって当麻は顔をあげた。
きっとこの男も、心の一番深いところで覚えているのだ。
命をかけて護りたかった大切な仲間の事を。
繰り返し、綺麗だと言っていた光輪の瞳の色を。
「……光輪はどうか知らんけど、水滸は同じ緑の瞳をしとった」
「って……水滸に逢ったのか? お前」
「ああ」
繰り返す波のリフレイン。
あの知能テストを受けたあと、どうしても我慢できなくて逢いに行った。
自分の勘を頼りに、必死で探して。探して、探して。
やっと逢えたあの少年は、昔と変わらない優しい緑の瞳をしていた。
無事に転生をとげて、明るい笑顔を向けてくれた。
それを見た瞬間、当麻は、もうあとの仲間を捜すことをやめようと思った。
いつか、時がくれば逢える。
きっと、彼らは皆、変わらない笑顔で再び集結してくれるだろう。
髪に触れた伸の手が暖かくて、優しくて、それだけでもう当麻には充分だったのだ。
「大丈夫。ちゃんと幸せそうに笑ってた」
「……当麻?」
「オレ、今度こそあいつを護るんだ。今度こそ、オレがあいつを支えてやるんだ」
「…………」
殺してしまった愛しい妹。狂ってしまった幼い少年。
哀しい思いはもう二度とさせたくないから。
誰よりも幸せになって欲しいから。
「……なんか、よくわかんないけど、頑張れよ、当麻」
「…………!」
「頑張れ」
ガッツポーズをして秀がニッと笑った。

 

――――――「秀……寒いよ」
つぶやいて当麻は再び目を開けた。
頭がぼんやりして思考がうまくまとまらない。
やはり熱がでてきたようだ。
せめて寝返りをうとうと身体を僅かにずらすと、痛みが脳を直撃する。
「……くっ……!!」
足首の腫れは更にひどくなり、まるで自分の足ではないようだ。
「動けないよ……秀……」
寒くて、痛くて、もう一歩も進めない。
何をやっているんだろう。
黒いもやもやした物が心の中にわき上がる。
手を伸ばしても無駄なのだ。誰もいないのだから。もう、誰もいないのだから。

独りで居ることなど平気だった。
結局、人間は独りで生きているのだと悟ったのは12の時。
どんなに願っても、誰かとずっと共にいるなどということは出来ない。
皆、いつか死んで、記憶もなくして、忘れて。
自分だけが覚えている。永遠に。
永遠に、狂うこともなく覚えている。
そんな事、はじめから知ってる。
だから、何も望まない。望まないようにと堅く心に誓った。
なのに。

“何やってんだよ。バカ当麻”
“もう、邪魔なんだから、そこから退いてくれない? ほら、掃除するんだから”
“いつまで寝てるんだよ。このねぼすけが。もう、みんな朝食すんでるんだよ”
口うるさくて、几帳面で。でも、ちっとも嫌じゃなかった。
怒っているときの顔でさえ愛しいと思えた。
わざと怒らせてすねた顔を見たいと思った。
少しずつ、少しずつ増えていく新しい顔は、どれも愛しくて。
どんな仕草も表情も、すべてが愛しくて。
言葉の端々に至るまで、覚えていたいと思った。
ずっと、ずっと、見ているだけで幸せだと、そう思って。
「…………」
心が寒さに悲鳴をあげる。
暖かな手が欲しくて。欲しくて仕方なかった。
そばにいない。それだけでこんなに恋しくなる。
あの柔らかな髪に触れたくて。優しい海の匂いに包まれたくて。

でも、きっと手に入らない。
これ以上望んではいけない。
何故なら、自分の心の中に残っているのは、後悔と自責の念。
愛しい人への、どうしようもない罪の意識。
消えない血の臭い。
ほら、手をのばしても何もない。
何も見えない。
羽柴当麻としての未来など何処にもない。
あるのは、永遠に続く輪廻の輪。膨大な記憶達。積み重なる過去。

寒くて、痛くて、一歩も歩けない。

当麻はぎゅっと自分の身体を抱きしめたままうずくまった。
小さく小さくなって、世界から自分を隠そうとするかのように。

「当麻……当麻!!」
微かに当麻を呼ぶ声が聞こえた。
「当麻!!しっかりして!!!当麻!!!」
「…………」
「当麻!!」
力一杯揺さぶられて、ようやく目を開けると、懐かしい緑の瞳が当麻を見下ろしていた。

 

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