螺旋階段(5)

「……兄様……」
澄んだ声が呼びかけてくる。
「兄様、どうかなさったのですか?」
「……」
「なんだか、顔色が悪いように見えます。お身体の具合がおもわしくないのでは……?」
「平気だ。オレはなんともないよ。」
「でも……」
「心配は無用と言っている。大丈夫。」
「……」
「大丈夫だ。お前がそばに居てくれれば、それだけで……斎……」
「兄様。」
そばに居てくれれば。

「…………!!!」
ハッとして目を開けた当麻は崩れるようにソファから転げ落ちた。
頭がボーっとしてうまく思考がまとまらない。
「……何で……斎の夢なんか……」
当麻は苛ついたように前髪をかきむしった。
優しい斎。愛しい妹。
もう彼女はいないのに、自分はまだ彼女の癒しの手を必要としているのだろうか。
「しっかりしろ。羽柴当麻。奴はいないんだよ。ここには」
斎は居ない。伸は居ない。
今は遠い萩の海へと帰っている。懐かしい友の元へ。
「……そういえば、正人の奴も帰ってきてるのかな? こっちに」
ふと浮かんだ考えを当麻はぶんぶんとおもいっきり頭を振って追いだした。
「やめよ。余計に落ち込みそうだ」
まったく、いつから自分はこれ程弱くなってしまったのだろう。
のろのろと身体を起こし、当麻は這うようにして廊下を歩きだした。
向かう先はキッチン。
“伸が居ないからって美味くないのは解るけど、ちゃんと食べろよ。当麻”
“味なんかわかんなくったって、食べなきゃ身体が保たないんだからな。わかってるだろうな”
めっきり食欲のなくなった当麻を心配して、秀は出発ギリギリまでそう言い続けた。
そう、普段は秀とタメを張るほど、当麻は大食漢だったはずだ。
なのにここのところ、当麻にはほとんど食欲というものがなかった。
それが伸の不在の所為なのか、もう、当麻自身にも解らなかった。

“独りでする食事ってわびしいんだよな。味なんか全然しなくなるんだ”
“だったら、なんでみんなと一緒に朝食食べないんだよ。当麻”
“朝は起きられないんだよ”
“ちょっと頑張れば起きれるよ、そんなもの。独りで食べたくないんだったら、ちゃんと起きてくるのが普通だろ。今日だって君が遅いから、こうやって独りで食べるはめになってるんじゃないか。嫌なんだろ、独りの食事”
“独りじゃないじゃないか”
“……へっ?”
“お前が居てくれるから、独りじゃないよ”
“……!!”

呆れて声も出ない伸の顔を見るのが好きだった。
小言を聞きながらする食事が好きだった。
伸が洗い物をしている音を聞きながら食べるご飯はとても美味しかった。
「……伸……」
秀の忠告に従ってキッチンへと足を向けた当麻は、入り口の所で立ち止まってそばの壁にもたれかかった。
食器棚の中に並んで置いてあるそれぞれの愛用のマグカップ。
テーブルの上には調味料の瓶。
流し台の脇には洗いたての真っ白なタオルがかかっている。
きっと、冷蔵庫を開けたら、伸が作り置きしておいた漬け物や煮物の鉢がきちんとラップに包まれて入っているのだろう。
「……やっぱ……駄目だよ。秀」
苦しげに当麻がつぶやいた。
キッチンは、伸の匂いがする。
居ないはずの伸の気配が残っているのだ。あちらこちらに。
「…………!!」
どうしてもいたたまれなくなり、当麻はくるりと踵を返すと、そのまま二階への階段を駆け上がった。
頭の中がガンガンする。
何故だろう、寒気が止まらない。
「…………!?」
三段程とばしながら、二階へと駆け上がった当麻が最後の一段に足をかけた時、ふいに襲ってきた悪寒の為、バランスを崩し、足を踏み外した。
「……うわっ…………!!」
とっさに掴もうと手すりの方へのばした手は、無惨にも空を切り、次の瞬間、当麻は派手な音をたてて一気に階段を転げ落ちた。
「…………!!!!」
一際大きな音をたてて、一階まで見事に落ちた当麻は、あまりの痛さに目を閉じて歯を食いしばった。
「……なんで……一人で階段落ちしなきゃならないんだ。これじゃ、観客のいない蒲田行進曲じゃないか」
痛みの為かうまく呼吸が出来ない。
しばらく身動きも出来ないまま、当麻は廊下に寝ころんでいた。
床の冷たさが身にしみる。
なんだか、頭がぼんやりしてきて、当麻はそのままふうっと目をつぶった。
やっぱ寒いなあ等と思いながら、それでも当麻は動きだそうとしない。
ほんの少しずつ意識が遠のいていくのが感じられた。

 

――――――「ええよな、羽柴は。勉強せんでも100点とれるんやからな」
好奇と妬みの入り交じった視線が当麻へと向けられる。
枚方市の中でもかなり大人数を有している小学校の中、当麻は1年生の頃から、テストで満点をとり続けていた。
それは別にとりたくてとっているわけでも、ガリ勉をしているわけでもなく、一度聞いたことを忘れるという事がなかった分、暗記の為の勉強をする必要がなかっただけなのだが。
「この間、また怒られてもうた。ちっとは羽柴さんの所の当麻君を見習えやて」
「オレ達は普通の人間なんやから、天才児と一緒にされたら迷惑やんな」
「なー」
わざと聞こえるよう、これ見よがしに大きな声で嫌みを言ってくる集団をじろりと睨み付け、当麻がガタンと椅子から立ち上がった。
「…………」
「な……なんや……やる気か?」
拳を握りしめ、集団の中の一人が当麻を睨み返す。
「…………」
気に入らなかった。何もかも。
自分の事を勝手に妬む奴らも、当麻の知識を褒め称え、なんとか取り入ろうとする奴らも。
学校始まって以来の天才児だと騒ぎ立てる奴らは、特に大嫌いだった。
「何とか言えや。羽柴」
「どうせオレらの事なんか馬鹿にしとるんやろ。この天才児」
「くそっ……ふてぶてしい面しくさって、気にいらんな」
「ほんま腹たつわ、こいつ」
「もうええ、いてこましたれ!!」
「…………!!」
集団の中の一人が、とうとう当麻に向かって拳を突き出した。
とっさに避けた当麻の頬を、別の奴の拳がかすめる。
「喧嘩だ!!」
「先生呼んでこい!!」
突然始まった大騒ぎのあと、当麻一人が職員室へと呼び出された。

「オレ、別に何もしとらん」
職員室で、担任の先生を前に、当麻は不機嫌そうな表情をして小さく息を吐いた。
「しかしな、羽柴。喧嘩の原因はお前だと、クラス全員が言ってるんだ。何もしてないわけはないだろう。現に一人は怪我をしたんだぞ」
「勝手に殴りかかってきて、勝手に転んだだけやんか。オレは避けただけや。奴の運動神経のなさまでオレの所為なんか?」
「……そうとは言っとらん」
「オレは何も言い返してないし、殴ってもない。ズボンのポケットから手を出してもなかったのに、それでもオレが悪いんか?」
「…………」
頭を抱えてため息をつく担任を見て、当麻はきつく唇を噛んだ。
この担任は、当麻の存在を持て余している。
大人顔負けの理論で口答えをする子供も、誰も気付かないようなミスを指摘してくる子供も、この担任は今まで扱った事などないのだ。
すべてが嫌になっていく。
当麻は諦めたようにくしゃりと前髪を掻き上げ、顔をあげた。
「すいません、先生。次から気いつけるから、もうええか?」
「……羽柴」
「もう、二度と喧嘩せえへんようにするから」
担任の顔が傍目にも解るほど、安心した表情になる。
その時から、当麻はテストで満点を取ることをやめた。

 

――――――ぼんやりと目を開け、当麻は天井を見上げた。
「……えっと…………」
未だ覚醒しない頭で考える。
「確か……さっき……階段を……」
首を曲げると、確かに右手にいつも見慣れた階段と手すりが見えた。
それでは、先程階段から見事に転げ落ちたのは夢ではないらしい。
ズキリと痛む背中や手足の感覚にだんだんと意識がはっきりしてくる。
「よっと……うわっ!?!」
ゆっくりと身体を起こそうとした当麻の脳天をものすごい激痛が駆けめぐった。
「なっ……!?」
痛みの元は足。
たいして力など入れていなかったはずの足首である。
「やべ……足首、捻挫でもしちまったかな?」
少しずつ身体を折り曲げて足下を見ると、右足首が無惨な程、青黒く腫れあがっている。
まさか折れてはいないだろうが、この痛みは尋常ではない。
「はあー」
情けなさそうに大きく息を吐き、当麻は再びごろりと廊下に寝転がった。
「…………」
動く気力が沸いてこない。
ただでさえ足が痛くて歩けないのに、這って居間へ行くなんて、なんだかとても面倒な事のように思えてくる。
何もかもがどうでもいい。
ただ寒い。どうしようもなく寒い。
当麻はゆっくりと目を閉じた。

 

――――――「君、名前は?」
「羽柴当麻」
「ああ、羽柴博士の息子さんか。どうりで賢そうな目をしてると思った」
白衣を着た研究員らしき中年男がにこりと当麻に微笑みかけた。
「いくつになったんだい?」
「この間5歳になった」
「そうか。大きくなったなあ。私は君がまだ赤ん坊だった頃、一度逢ってるんだよ」
「へえ、そうなんや」
どうりで見覚えのある顔だと思いながら、当麻はぽつりと答える。
ここは、当麻の父、羽柴源一郎が勤務している研究所。
当麻は、たまに此処の研究所にやってきていた。
理由は簡単。家に帰っても誰もいないからである。
幼い当麻を誰もいない家に独りで置いておくよりは安心だろうと、そう言い出したのは父だったか母のほうだったか。
研究所の入り口付近にある、一般待合室のような場所で数時間過ごし、当麻は時には父と共に、時には独りでそこから家へと帰って行った。
「5歳って事は来年から小学校だね。楽しみだろう」
「別に」
「当麻君は頭が良さそうだから、勉強もすぐにトップクラスになるのかな」
「勉強……?」
「そうだよ。国語に算数に、習うことはたくさんある」
「算数くらい知っとる」
おやっと白衣の男の表情が変わった。
「算数って、足し算引き算かけ算やろ。あんなん何も難しない。この間、父さんに教えてもろた」
「……へえ、さすが、英才教育ってわけだ」
感心したように呟き、白衣の男は、興味深そうに当麻の宇宙色の瞳を覗き込んだ。
「なあ、当麻君。おじさんとゲームしないか?」
「ゲーム?」
「そう、これから当麻君にちょっと問題を解いてもらいたいんだ。別に難しい物じゃない。並んでる数字を足したり引いたり、図形を見たり、パズルゲームみたいなものだよ」
「ふーん」
「上手に出来たら君の欲しい物なんでもあげるよ。おもちゃでも何でも。言ってごらん」
「欲しい物……?」
当麻が小首をかしげた。
「そう、どうかな?」
白衣の男はにこりと当麻に微笑みかけた。
欲しい物。
「別に……欲しい物なんかあらへんけど……ただ……」
「…………?」
「逢いたい奴がおるねん。そいつに逢わせてくれるか?」
「逢いたい人?」
コクリと当麻が頷いた。
「誰だい? 此処の人? それとも……」
「…………」
「まあ、いいだろう。とりあえずゲームが終わってからね」
「うん」
白衣の男に手を引かれて、当麻は白い壁の小さな部屋へと入っていった。

 

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