螺旋階段(2)

「なあ、伸。これちょっとしょっぱくねえか?」
夕食の煮物を箸でつつきながら秀が言った。
「えっ? ホント?」
言われて慌てて伸はジャガイモを口の中に放り込む。
「ホントだ……ごめん。塩加減間違えちゃった」
「珍しいな。伸が失敗するなんて」
「ごめんね。ちょっと考え事してて。ボーっとしてたんだきっと。作り直してこようか?」
しゅんとして立ち上がろうとした伸を慌てて遼と征士が押しとどめた。
「あ、別に食えない程不味いわけじゃないよ。オレ、この味好きだし」
「そうだぞ。気にすることはない」
「たまにはこういう味もいいもんだよ。な、伸」
「そうそう」
「オレもちょっとしょっぱいって言っちまったけど、結構濃いめの味は好きだし大丈夫だよ」
「本当?」
「ああ、ホントホント。充分美味しいよ」
遼がにこりと笑ってそう言ってくれたので、伸はようやく再び椅子に腰を下ろした。
「本当、ごめんね」
「謝ることなんかないってば。お前にそんな謝られたらオレ達なんか毎回首くくらなきゃいけなくなるよ。成功することの方が少ないんだから」
「そうそう」
おどけた顔で相づちをうつ秀を見て、ようやく少しだけ伸の表情が和らいだ。
「次はもっと美味しいの作るから、今日はごめんね」
「伸の作る料理はいつも美味しいよ」
「…………遼……みんな……」
おもわず言葉をつまらせて、伸はにっこりと微笑む遼の顔を見つめ返した。
心が暖かくなる。
皆の心遣いが嬉しくて、伸は僅かに目を細めて楽しげに食事を再開するみんなの顔をぐるりと見回した。
と、その時、ほとんど会話に参加していなかった当麻がかちゃりと持っていた箸を置いた。
「ごちそうさま」
「なんだ? もう食い終わったのか? お代わりは?」
秀が意外そうに当麻の顔を覗き込む。
「今日はいい」
秀と目をあわさないままそう答え、当麻は自分の分の食器をまとめると立ち上がった。
「征士、オレ、しばらく書斎にこもるから」
「あ……ああ、解った」
そのままスタスタと出ていく当麻を見て、秀が憮然とした態度で鉢の中の煮物をつついた。
「……やっぱり不味かったのかな」
ぽつりと伸がつぶやく。
「そんな事ないだろ。自分の分はきっちり食ってるぜ」
秀がそう言って空になっている当麻の皿を指し示した。
「……うん」
「気にするなよ、伸」
遼がポンッと伸の肩を叩いて慰める。
「ありがと、遼」
そっとほほえみ返し、伸は最後のご飯の一口を口の中に放り込むと、自分の前の食器をまとめ、箸を置いた。
「……あの……さ」
少し言いにくそうに伸が口を開く。
「何?」
「ちょっと……急だけど……」
「……?」
「僕、明日の朝の新幹線で山口へ帰るよ」
「……!!?」
思わず3人が同時に目を見開いた。
「……あ……明日?ずいぶん急だな。もう少し先にするのではなかったのか?」
さすがの征士も動揺を隠せない様子で、箸を置いた。
「うん、ちょっと用事早めに済ませちゃおうと思って」
「チケットは?」
「どうせ自由席だし。2・3本見逃したら座れるから」
「…………」
「と、言うわけだから、僕、これから帰省準備するんで後かたづけ任せちゃっていいかな?」
伸がちらりと秀を見た。
「ああ、あとはやっておくから、部屋行っていいぜ」
秀が慌てて残りの煮物を片づけ、器をトレイにまとめだすと、伸は、じゃあ宜しくと言い残し2階へとあがっていった。
「…………」
急にしんとなってしまったダイニングテーブルを囲み、残された3人が同時に小さくため息をついた。

 

――――――コンコンと軽いノックの音と共に当麻の返事を待たず、征士が書斎に顔をだした。
「……何か用か?」
ずっとパソコンに向かったまま顔もあげすに当麻はキーボードを叩き続けている。
「もし、少しでも後悔しているなら、謝れるのは今のうちだと思うぞ」
「…………」
征士の言葉にようやく手を止め、当麻が眉間にしわを寄せながら振り向いた。
「不躾な奴だな。何だそれは。オレが誰に謝らなきゃいけないんだ」
「身に覚えがないと言い張るなら私は何も言わぬが」
「…………」
「伸が、先程、予定を繰り上げて明日の朝一人で山口へ帰ると言い出したぞ」
征士はそう言って、当麻に鋭い視線を投げかけた。
「……それが、オレの所為だって言うのか?」
「違うのか?」
冷たい征士の返しに、当麻はたまらずすっと目をそらした。
「……ったく……オレにどうしろって言うんだ」
吐き捨てるように当麻はつぶやいた。
「あいつの好意に甘えろって言うのか? そんな事出来るわけないのはオレが百も承知している」
「……何故?」
ちらりと征士を見て、当麻は深くため息をついた。
「萩は……良い街だよ。何処にいても波の音が聞こえる」
「…………当麻?」
「優しくて、暖かくて……あいつが育ったってだけで、あの街はオレにとっても聖域みたいなものだ。行けるものなら行きたいさ」
「…………」
海の匂いと、繰り返す波のリフレイン。伸の育った海の街。
「……だけど……あそこには、戦いを知らなかった頃の伸がいるんだ。家に帰れば優しいお母さんと、綺麗な姉さんと、もうじき家族になる義理の兄と、伸のたくさんの友人達がいる」
「…………」
「あの場所では、伸は水滸の使命も戦いも忘れて、普通の人間でいられる。そんな所にオレみたいな奴が行ったらどうなる」
征士が僅かにその紫水晶の瞳を曇らせた。
「……別に一緒に帰省したからと言って、戦いが始まるわけではないだろう」
「オレが言ってんのは、実際の戦いじゃない。心の中の記憶だよ。オレの中にある戦いの記憶をあの街に持って行きたくない。オレが存在するだけであの街は戦いに汚されていくんだ。しかも、オレと共にいるかぎり、伸は戦いを忘れられない。あれほど忘れたがっているのに、オレはあいつにひとときの安らぎさえ与えてやれない。……オレは……」
「なら、そう伸に話すべきではないのか? 何も言わなければ、お前の気持ちは伝わらない。それとも、わざと傷つけるのが貴様の愛情表現なのか?」
「違う。そうじゃない」
征士の言葉を遮って、当麻が両手で顔を覆った。
「そうじゃないんだ。征士。言っちまったら、オレの方がもたないんだ」
「…………」
「オレの方があいつから離れられなくなる。ずっとずっとあいつのそばにいたくなる」
「……当麻……」
本当はひとときだって離れてなどいたくない。
出来ることならずっとあの柔らかな笑顔のそばに居たい。あの微笑みに包まれていたい。
当麻はたまらずくしゃりと前髪を掻き上げた。
「……征……頼む。独りにしてくれないか」
「…………」
「これ以上、お前といると、オレは弱くなりすぎる」
しぼりだすような声で当麻が言った。
ゆっくりと背を向け、ドアノブに手をかけた征士は、最後にふと振り返り、当麻の苦しげな横顔を見つめた。
「当麻、ひとつだけ言っておく。弱いことは罪な事ではないぞ」
「…………」
パタンと静かに扉が閉じられた。

 

――――――「準備出来たか? ……ってお前、何やってんだ?」
「えっ? あ……」
半分ほど着替えなどを詰め込んだままのバッグを脇に置き、ベッドの上で本を広げている伸を見て、秀が呆れた声を出した。
「人に片づけ頼んでおいて、全然準備出来てないっていうのは、どういうことだ?」
「ごめん……ちょっと帰りの新幹線の中で読む本探してたら、そのまま……」
「絵本持ってっても30分と、もたないと思うぞ、オレは」
「……あ」
伸の手の中にあるのは、緑の表紙の絵本である。
「こ……これは違うよ。ちょっと急に読みたくなって……それに、家に帰るんだから、そんなたいした準備が必要なわけじゃないし、もう終わるよ」
言い訳しながら、伸はパタンと絵本を閉じそばの棚へ戻すと、慌てて投げ出されたままのバックを引き寄せた。
「なあ、伸」
「……ん?」
準備を再開した伸の様子を、ベッドの上であぐらをかいたまま眺めていた秀が遠慮がちに口を開いた。
「当麻のこと、許してやってくれよな」
「……えっ?」
着替えを詰め込む手を止め、伸が驚いて顔をあげた。
「あいつ、またお前に何か言ったんだろ。だから急に早く帰る気になったんだろ」
「……秀……」
「オレ、あいつが何言ったかしらないけどさ……あんま、怒らないでやってくれよ」
「……珍しいね。君がわざわざ当麻のフォローをしにくるなんて」
「あ……まあ、今回だけは……ちょっと……な」
秀は少し照れくさそうに頭をかくと、壁にもたれて天井を見上げた。
「オレさ……お前らと新宿に集結する前、ちょうど12の頃に当麻に逢ってるんだけどさ」
「12の頃って……それ」
「ああ。奴の両親の離婚の時期だよ」
「…………」
「ま、それまでも当麻の家って仕事の為、バラバラっちゃあバラバラだったらしいけど、さすがに離婚の話し合いを子供の前でするわけにいかなかったのかな。ひと夏、親戚のおじいさんのいる寺に預けられてたんだ、あいつ。それがちょうどオレのじっちゃんの知り合いでさ。オレ、そん時じっちゃん家に拳法習いに大阪に行ってたんだけど、同い年の子供が来てるから良かったら仲良くしてくれって紹介されて、そのままひと夏、当麻と寺で過ごしたんだ」
「……へえ……」
「あいつは、オレを見てすぐわかったらしいけど、オレ、その頃過去のこと何にも覚えてなくてさ……」
「そうなんだ」
「そん時さ……あいつ、よく寒いって言ってたんだ」
「寒い?」
「ああ。オレ、何のことかずっとわかんなくて……やっと解ったのはあいつの両親が正式に離婚したあと。あいつの言う寒いって、寂しいって事だったんだ。きっと」
伸は、準備の手を止めてじっと秀の言葉に耳をかたむけていた。
「オレん家ってさ、両親ともすんげえ仲良いし、離婚なんて言葉、出てきた試しもなかった。兄弟も多いし、親戚もしょっちゅう遊びに来てた。店やってる所為もあって、オレ、家に帰って誰もいないって状態、一度も経験した事ないんだ」
「…………」
「だから、オレきっと当麻の寂しさとか、本当に理解してやることは出来ないんだろうなあって。寂しいだろうなって頭で解っても、心で理解してやれない。両親そろって仲の良いオレにはどうやったって理解してやれないんだ。悔しいよな」
「…………」
「あいつさ、お前のそばにいると暖かいって言うんだ。すげえ暖かいって」
「…………」
「きっと、あいつはお前に出逢ってやっと寒くなくなったんだ」
「秀……」
「だから……さ」
「大丈夫だよ、秀」
そっと伸が言った。
「大丈夫。解ってるから」
小さく頷く伸を見て、秀がくしゃっと顔をゆがませた。
「そうだよな……オレ、よりによってお前相手に何言ってんだろう……お前はちゃんと当麻のこと見てやってるのにな」
もう一度、照れたように秀が頭をかいた。
「秀、君はいつ帰るの?」
着替えを詰め終えて、バッグのチャックを閉じながら伸が訊いた。
「ん……本当は早めに帰ろうと思ってたんだけど、ギリギリまで残るよ」
「うん」
「遼が30日の昼前に出るって言ってたから、その時一緒に帰るかな」
「30日ね」
「ああ」
「じゃあ、それまで当麻のそばに居てあげてね」
「解った」
ふわりと伸が笑った。

 

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