螺旋階段(1)

「帰ってくるの? 遼のお父さん!」
頬を上気させて嬉しそうに報告に現れた遼に、伸が洗い物の手を止めて振り向いた。
「ああ、撮影旅行も一段落したから、一旦日本に帰ってくるって。さっき電話があった。」
「良かったね。じゃ、お正月はお父さんと一緒に過ごせるんだ」
「そういうこと」
嬉しそうに頷いて遼が笑顔で答えた。
クリスマスが過ぎ、学校も冬休みに入っている師走の季節。
ずっと、東南アジアの方へ行ったきりだった遼の父親からの連絡は、遼にとって本当に待ちこがれていたものだった。
ただでさえ、仕事で家を空けることの多かった父親は、それでもまだ遼が幼い頃はなんとか都合をつけてちょくちょく家へ帰るようにしていたらしいが、遼がこの柳生邸で生活するようになってからはほとんど日本に帰ってこず、遼もここ一年程父親とは会っていなかったのだ。
「随分久しぶりだよね、お父さんに会うのって」
「ああ」
大きく頷いて、遼は早速帰省準備の為、二階へと上がっていった。
「……余程嬉しいんだろうなあ」
嬉しくてたまらないと言った様子の遼の後ろ姿を見て、伸がくすりと笑った。

 

――――――「いつ帰ってくるんだ? 親父さん」
食後のコーヒーをすすりながら、秀が遼の手元の時刻表を覗き込んできた。
「うん。30日の昼過ぎに成田に着くって言ってた」
「じゃあ、成田まで迎えに行って、そのまま山梨へ帰るんだ」
「そうなると思うよ。多分」
コーヒーを手渡しながら訊いてきた伸に笑顔で答え、遼は美味しそうに甘いミルクコーヒーを一口飲んだ。
「山梨へ帰るのって久しぶりだろ。ちゃんと家残ってんのか?雪で潰れてたりしねえだろうなあ」
そう言って大口を開けて大笑いした秀の頭をすかさず征士が思い切り小突く。
「何をくだらない事言ってる」
「痛ってえなあ、征士。冗談じゃんか」
秀が頭を押さえてブツブツと文句を言った。
「でも、家に着いたらまず大掃除しなきゃね、遼」
「ホントだ。きっと埃だらけになってる」
肩をすくめて笑う遼は本当に嬉しそうだった。
「そういえば、伸はいつ実家に帰るんだ?」
まだ、ぶつくさと文句を言ってる秀の頭をもう一度小突きながら、征士が訊いてきた。
「うん、なるべく早く帰って来いっては言われているんだけどね」
「確か姉上の結婚が間近だと聞いたが」
「そうなんだ。予定では2月の頭らしいんだけど。まったくこんな寒い時期にしなくてもいいのに。どうせ色々こき使われる事になるんだ。人を雑用係か何かだと思ってるんだよ」
「それだけ器用に何でも出来るから任されちゃうんだよ」
時刻表から顔を上げ、遼が言った。
「なんか、あんまり誉められてる気がしないんだけど……」
がっくりと肩を落とした伸を見て、遼が更に弾けるように笑った。
「征士ん家はどうなんだ? お前ん家の姉さんも伸のとこと同じくらいじゃなかったっけ?」
「そうだよ。人の家より、自分の方はどうなんだよ」
秀と伸が口々にそう言うと、征士は少したじろいで一歩後ずさった。
「私の姉は……まだそういう話はでていないようだぞ。伸の姉君よりは年も下のはずだし、今は勉学が忙しいとか言っていたが」
「そっかー」
「征士ん家って、確かお正月、親戚一同が集まるんだよね」
「ああ、毎年恒例になっている。少々煩わしいのだがな」
「さすが、古い家柄の所は違うね。オレの家なんか店があるから年末年始関係ないもんな」
「ずっと営業してるの? 秀の家の店」
「1日と2日は休むって言ってたけど、年末はやるらしいぜ。だから家に帰ったとたんに手伝わされるんだ」
「大変だね」
「でもさ、代わりに秘伝のソースの作り方教わってこようと思ってる」
飲み終わったマグカップをトレイに乗せながら、秀が悪戯っぽく笑った。
「秘伝の?」
「そ、代々家に伝わってるオリジナルのソースなんだけど、もーめちゃくちゃ美味いんだよ、これが」
「へえーいいなあ」
感心して伸がつぶやく。
「では、それを拾得したら秀の料理の腕も少しはあがるというわけか」
征士が鼻で笑いながらそう言った。
「なんて事言うんだ! 今だって充分美味いもの喰わせてやってるだろ。オレは少なくともお前らみたいに焦げた魚焼いたり芯の残った飯炊いたりしねえぞ」
「まあまあまあ。それより、秀、よかったらその秘伝のソースの作り方。僕にも教えてくれない?」
「お前、オレん家の営業、脅かすつもりか?」
「まさか。純粋な料理への好奇心だよ」
「秀が教わるより、きっと伸のほうが美味いと思うな。オレ」
「私も同感だ」
遼と征士がお互いに顔を見合わせて頷きあうのを見て、秀がふくれっ面をした。
「あーあーあー。どうせオレの腕はまだまだですよ。でもな、今に見てろよ。オレはいつかオレの店を中華街で一番有名な店にしてやるんだ」
「おー頑張れ頑張れ。期待してるぞ」
無邪気な顔をして遼が手を叩いた。
「でもな、秀、どんなに美味い店になっても世界一になるのは無理だぜ」
「なんでだよ」
「世界一美味い料理は、伸の作る料理だもんな。なっ、当麻」
「…………」
「あれ?」
当然返ってくるであろう返事が返ってこないことで、初めて4人はいつの間にか当麻の姿が居間から消えていることに気付いた。
「…………」
「……あれ? 当麻は?」
「当麻、いつの間にいなくなったんだ?」
遼が不思議そうに、先程まで当麻が座っていたソファを振り返った。
「さっきまで、居たよな。あいつ」
「僕の持ってきたコーヒー受け取って本読みながら飲んでたはずだよ。」
「ソファもまだ暖かいぞ」
征士がまだ温もりの残っているソファに手を当てて言った。
「……書斎にでも行ったのかな?」
「それにしても黙っていなくならなくてもいいだろうに」
当麻が読んでいたハードカバーの本も、手に持っていたいつものブラックコーヒーもない。
伸はすっと立ち上がり、ゆっくりと室内を見回した。

“はい、当麻。ブラックで良い?”
“お、サンキュー”

いつも通り嬉しそうにそう言ってコーヒーを飲んでいた当麻。
普段と変わらない様子だったのに。
「あ!!!」
突然、伸は小さく声を上げた。
「……? どうしたんだ? 伸。」
秀が椅子の背もたれに頬杖をつきながら訊いてくる。
「征士、当麻の今度のお正月の予定、何か訊いてない?」
せっぱつまった顔で、伸が征士に詰め寄った。
「正月の……? いや、私は何も聞いてないが」
「秀は?」
「オレも別に…………あっ!!!」
ガタンっと大きな音をたてて秀が椅子から飛び降りた。
「どうしたんだ? 秀?」
遼が驚いて倒れてしまった椅子を戻そうと立ち上がる。
「あいつ、正月、大阪に帰らないんだ」
「…………え?」
倒れた椅子に手をかけた遼の動きがピタッと止まった。
「あいつん家、両親離婚してるだろ、今までも正月だからって家族がそろう事ってあんまなかったみたいだし。あいつの親父さんもお袋さんも仕事第一人間だから」
「じゃあ……」
「帰っても結局一人で過ごす羽目になるから、今年は帰らないって」
「…………」
椅子を抱えたまま遼が床に座り込んだ。
正月を独りですごすであろう当麻。
いったいどんな気持ちで皆の楽しげな帰郷の話を聞いていたのだろう。
「……オレ……当麻の事情全然知らなくて」
「…………」
「全然気付かずにはしゃいじゃって……」
「遼の所為じゃないよ。遼がはしゃぐのは当たり前だよ。遼だってお父さんに逢うの久しぶりなんだから」
「……伸……」
「配慮が足りなかったのは僕だ」
伸はうつむいて、きつく唇を噛んだ。

なんて事だ。
いくら遼の気持ちに引っ張られたからといって、当麻の目の前であんな。
すっかり忘れていた。
自分達には帰れば待っていてくれる家族がいるのが当たり前で、笑って迎えてくれる家族がいるのが当たり前で。
当麻にはそれがいなかったのだ。
“オレ、子供の頃からほとんど独り暮らしみたいなものだったから、こういう家庭の味って初めて食べるよ”
伸の作る料理を、当麻はいつもいつも本当に美味しそうに食べていた。
朝、なかなか起きない当麻を叩き起こしに行く時も、掃除の邪魔だからといってソファから追い立てる時も、文句を言いながら当麻は少しも嫌そうじゃなかった。
家の中に、自分以外の誰かが居る。
構ってくれる誰かが居る。
それだけでどれ程当麻が救われていたか。

「ちょっと、当麻を捜してくる」
そう言って伸は居間を飛び出した。
まず、一番可能性の高い書斎へ行こうと廊下を横切った伸は、手前のキッチンを覗いてはっとした。
流し台の上のかごの中にきちんと洗われて当麻のマグカップが置いてある。
濃いブルーの色合いの大きなマグカップになみなみとコーヒーを注いでゆっくり飲むのが当麻のいつものパターンだった。
ぎゅっと拳を握りしめ、伸は急いで書斎に向かったが、しんと冷え込んだ書斎には当麻の姿はなかった。
二階へ上がり、部屋を覗いたがそこにもいない。
「…………」
何処へ行ったのだろう。
ふと、窓の外に目をやった伸は、次の瞬間、驚きに目を見開いた。
「……と……当麻……?」
季節は冬。かなり寒いだろう木枯らしが吹き荒れる庭の大木の上に当麻の蒼い髪が見えた。
「何やってんだよ。あんな薄着で」
コートも羽織らず、薄手のセーター一枚のまま枝に腰掛けて本を読んでいる当麻の姿を見て、伸はベット脇のクローゼットの中から分厚いコートとマフラーをつかみ、ダッシュで外へ飛び出した。
雪こそ降っていないものの身を切られるような冷たい風が頬をなぶる。
伸は小さく舌打ちして、当麻のいる大木の下に駆け寄った。
「当麻!!」
上を見上げ大声で呼ぶと、当麻が読んでいた本から顔を上げ、ちらりと伸を見た。
「何やってんだよ。当麻。そんな所で」
「……見れば解るだろう。読書だよ」
「…………」
飄々とした態度で当麻は答える。
「そ……そんな格好して風邪ひくだろ。なんで家の中はいらないんだよ」
「いいだろ、別に。オレが何処で読書しようとオレの勝手だ」
「当麻!!」
伸がいくら呼びかけても当麻はいっこうに降りてくる気配がなかった。
「当麻!降りてきなよ」
「…………」
「当麻!!」
「オレは此処が気に入っているんだ」
「…………」
「話があるならお前が登ってくればいいだろう。それとも木登りも出来ない程、身体が鈍っちまったのか?」
「……!!!」
木の上の当麻を睨み付け、伸は手に持っていたコート類を肩に担ぐと、器用に木を登りだした。
あっという間にそばの枝まで辿り着くと、伸は無言で担いでいたコートを手に持ち替え、当麻の目の前に突き出した。
「……?」
「コート着て」
「オレ、別に寒くないぞ」
「見てるこっちが寒いんだ。いいから着て」
「…………」
有無をいわさぬ伸の態度に、ようやく当麻は読んでいた本をパタンと閉じ、伸の手からコートを受け取った。
「……何で、こんな所で本読んでるの?」
「ちょっと頭冷やしたかっただけだよ」
おとなしくコートを着込んだ当麻の首に青いマフラーを巻いてやりながら、伸は小さくため息をついた。
「当麻。君が気を悪くしたのならいくらでも謝るから……だから、家の中に入りなよ」
「何の事を言っているのか解らないが、オレは別に好きで此処に居るだけだぞ」
「当麻……」
「冷たい空気の中で読んだ方が気分が乗るんだよ」
「…………」
再び本を開く当麻を見て、伸は隣の枝に腰掛けた。
「何、読んでるの?」
「燃えよ剣」
「司馬遼太郎?」
「そう」
「新撰組の話だっけ? それ」
「ああ。死に場所を求めて生きる男の話」
最後の最後まで戦いの中で散ろうとした男。土方歳三の話だ。たしか。
もうほとん終わりかけの最後の方のページをめくっている当麻の手元を伸はちらりと覗き込んだ。
「それ、随分前に読んだって言ってなかったっけ?」
「ああ、言ったよ」
「もう一回読み直してるの?」
「いけないか?」
「…………」
いけないわけではない。
でも、当麻の場合、本など一度読めばほとんど内容を忘れるという事がない分、同じ本を読み返すことは皆無に等しいはずだ。
読む必要のない本をわざわざ持ち出して。
「…………」
昔、当麻がこの本を読んだのはちょうど12歳の頃だったと訊いた。
12歳。
当麻の両親が離婚した時期だ。
当麻はあの頃に戻ろうとしているのだろうか。
「当麻……」
「……ん?」
ずっと独りだった当麻。
家庭の温もりも知らずに育った少年時代。
「あの……さ……」
「何だ?」
「もし……もし君さえよければ……お正月、僕と一緒に萩に……」
「よくない」
「……えっ?」
突然伸の言葉を遮って当麻が顔をあげた。
「と……当麻……?」
「お前が何を言おうとしているのかくらい解るが、オレはそんな事、望んでない」
「…………」
「いらぬ心配だ。ほっといてくれ」
伸が僅かに目を見開いた。
「オレは独りで居たいんだ。解ったか」
握りしめた伸の拳が小刻みにふるえ出す。
「……わかったよ……余計なお節介やいて悪かった」
やっとの事でそれだけ言うと、伸はいきなり座っていた枝から地面へと飛び降りた。
振動で枝が震える。
そのまま振り返りもせず、家の中へと走っていく伸の後ろ姿を当麻はじっと見送った。
風が一段と冷たくなり、ヒューと音をたてて当麻の頬をかすめていった。

 

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