キャスト パズル(5)

保健室は無人だった。
どうやら浩子先生は、どこかへ駆り出されているか、職員室にでも行っているようだ。
良かったのか悪かったのか。
伸はひとつため息をついて、普段は浩子先生が座っている回転椅子に腰掛けた。
保健室にある薬類は、すべて鍵のかかった戸棚へ収納されている。もちろん生徒が勝手に持ち出したり出来ないようにだ。そして鍵は浩子先生が持っているものと、職員室にあるスペアキー。どちらを取りに行くのも億劫な気がした。そもそも秀には頭痛だと言ったが、本当に頭が痛いわけではない。
痛いのは。
痛いのは、心だ。
伸は無意識に自分の胸に手を当てた。
ギシギシと身体中が軋んで悲鳴をあげているような気がする。情けない。
自分がこんなに嫉妬深いなんて思わなかった。
こんなに醜いなんて思わなかった。
いや、それ以上に、自分がこんなに当麻の言動一つ一つに心が揺れるなんて、考えてもみなかった。
本当に、いつの間に自分は。
「……ったく、何やってるんだろう」
自分で自分に舌打ちをし、結局伸は、椅子から立ち上がった。そして、そのままUターンして教室へ戻ろうと、保健室の扉に手をかけようとしたその瞬間。まるで伸の行く手を遮るような形で当麻が保健室へと飛び込んできた。
「……!?」
「……あ」
思わずぶつかりかけてたたらを踏み、当麻がよろけるように壁に背中をぶつける。
「当麻…? どうして此処へ?」
「……どういうことだ?」
「え?」
「家を出るってどういうことだよ」
壁にぶつかった勢いそのままに、当麻が伸に向かって叫ぶ。
「来年になったら、本当に出て行く気なのか?」
「………どうして、そのことを君が知ってるの」
「……!!」
伸の反応に当麻は思わず壁に背をあずけたままズルズルと床に座り込んだ。
嘘だと思っていたわけではない。
こんなことで鷹取が自分に嘘を言う必要はないのだから。
でも。
それでも、嘘であればいいと思っていた。嘘であってくれればいいのにと、そう思っていた。
思っていたのに。
「やっぱり、本当なんだな」
「…………」
「本当に、出て行く気なんだな」
「当麻……それ、誰に聞いた?」
「鷹取主将に聞いた」
「………!」
ああ、そうだったのかと。伸は心の中でため息をついた。
確かに自分は、進路のことが話題に出たとき、それとなく鷹取に相談をした。実際に今、一人暮らしをしている鷹取の意見を聞いてみたくもあったし、相談を持ちかける相手として、鷹取が一番良いと思ったのだ。
それに、鷹取は別に口が軽い方ではない。むやみに相談事を他人に吹聴して回るとも思ってなかったから安心していたのかもしれない。
ただ、当麻に隠しているということも、もちろん言っていなかったのだから、鷹取が当然当麻も知っているものとして、そんな話題を出してしまうことは充分に考えられたのだ。
でも、こんな時に。こんな所で。こんな形でバレるなんて。想定外だ。
「ごめん……言おう言おうと思ってたんだけど」
「じゃあ、なんで言わなかった? 思ってるだけで行動に出さないってことは、実際には本気じゃないってことだぞ」
「…………」
「なあ、なんでだよ」
「なんでって……別に。そのほうが経済的にもいいし、自由になる時間も増えるし」
「そういうこと言ってんじゃねえよ。なんでオレに話さないで勝手に話を進めたんだって聞いてんだ」
「それは、まだ本決まりじゃなかったし……」
「本決まりじゃなくったって、相談くらい出来るだろ。あいつが教えてくれなかったら、オレはずっと知らないままだったってことじゃねえか」
「それは……」
「それこそ全部決まって、反対する隙も何もなくなってから、事後報告だけで済ませようって、お前はそんなこと考えてたのか?」
「違う。そうじゃない……けど」
「けど? なんだ」
「もう少ししたら話そうと思ってたよ。それに、だいたいどうして君に逐一報告しなきゃならないんだよ。僕の進路のことだ」
「報告とか、進路とかそういうことを言ってんじゃねえっつってんだろ!」
立ち上がり反転すると、当麻は逆に伸を壁際に追い詰める形になって立ちふさがった。
「当麻……?」
「どうせあれだろ。オレに話したくなかった理由は」
「話したくなかった理由? そんなの何も……」
「お前、学校のそばに部屋借りて、正人と一緒に住むんだってな」
伸の表情が硬直したように引きつった。
「……それ…は………」
「オレは、そんな話、何も聞いてない。なんでオレが知らなくて、あいつが知ってるんだ?」
室内の空気が一気に冷えたような気がした。
「なあ、なんでオレは、お前からじゃなく、あいつからそんな話を聞かされなきゃいけないんだよ」
「…………」
「なんでだよ、伸!」
「…………」
「なんで、正人と…なんだよ」
「……それは……」
「あいつと一緒に住むってこと、オレに知られたくなかったのか? だから、ずっと黙ってたのか?」
「ど、どうしてそういう話になるんだよ。正人は関係ないだろ。それに一緒に住むって言ってもただのルームシェアだよ。本当は下宿とか寮も考えたんだけど、やっぱり誰かとシェアするのが一番楽かなあってことになっただけで」
「で、その相手として選んだのが正人なんだ」
「そりゃ、当然だろう。知らない人とシェアするより、正人との方が良いに決まって……」
「つまり、お前がオレに話すのを躊躇した理由は、相手が正人だったからってことか」
当麻の言い方に、ピクリと伸の眉が跳ね上がった。
「なんだよ、その言い方。まるで僕と正人の間に何かあるみたいじゃないか」
「何もないって言えるのか? 少なくともあいつはお前のこと……」
「ふざけるな!!」
ダンっと伸が後ろ手に壁を殴りつけた。
「それこそ下衆の勘繰りって言うんだ。だったらそっちこそさっきのは何なんだよ。彼女が遼のこと好きなの知ってて手を出すなんて……」
「彼女……?」
「…………」
今までの反撃のように、今度は伸が当麻を睨みつけた。
「ちょっと待て、それって如月のことか?」
「他に誰かいるの?」
「それこそ関係ないだろ。あれは、あいつが……」
「如月さんが、なに?」
当麻が一瞬、返す言葉に詰まった。その一瞬が伸の神経を尖らせる。
「彼女、急に教室を飛び出して行ったんだよ。で、その後、君といたってことは、君と彼女の間に何かあるって考えたほうがいいのかな?」
「何かって、なんだよ……」
「屋上の扉のとこからチラッと見えたんだけど、随分取り込んでたみたいだったからさ」
「……あ、あれは何でもねえよ」
「何でもないって?」
「あれはあいつがちょっと具合悪くなって……だから……支えてやろうと」
「……そんなふうには見えなかったけど?」
「………!?」
わかっているのだ。こんなことを言うべきじゃないということは。
でも、言葉の攻撃が止まらない。
こんなことを言いたいわけじゃないはずなのに。
「お前、オレを疑ってるのか?」
「疑うって、何? 疑われるようなことしたっていう自覚はあるんだ」
「違うっつってるだろ」
「じゃあ、どうして嘘をつくんだよ?」
「それは……」
「言えないんだ。つまりそれって何か心にやましいことがあるからなんじゃないの?」
「……なんだと?」
「何もないなら正直に本当のことを言えばいいじゃないか。何か僕に隠したいこと、言いたくないことがあるってことが、充分やましい証拠だ」
「オレは何もしてない!」
当麻の声で部屋のガラスが震えた。
「……やめよう。こんな所で君と喧嘩するつもりはない」
低くつぶやき、伸は当麻を押しのけるようにして保健室の扉を開けた。

 

――――――「もう……いいの」
「良くない!」
聖香の言葉を遮って、遼は突然声を張り上げた。
一瞬ビクリと聖香が肩をすくめる。
「……遼…くん?」
「良くない。絶対。こんな状態でいいはずない」
「でも……」
「オレ…自分でも腹が立つくらい鈍いし、気が利かないし、如月さんに対して酷いこといっぱいしてると思うんだ」
「……………」
「でも、オレ、こんな奴だから、誤魔化したり、うまく嘘ついたり出来なくて、もしかしたらこれからも如月さんを傷つけるようなことしちまうかもしれない」
聖香は遼の言葉に小さく首を振った。
「オレが気が利かないせいで、如月さんを傷つけてるんだったら、オレ、どうすればいい? もし、近くにいない方がいいって言うなら、できる限り、もうそばに寄らないようにする。新聞部を辞めて欲しいなら辞める」
聖香が大きく首を振った。
「そんなことしなくていい!」
激しく首を振った所為で、涙の雫が地面に飛び散った。
「そういうこと…しないで。そんなの望んでない」
「じゃ……どうしたらいい?」
俯く聖香を見て、遼は乱暴に自分の髪の毛を掻きむしった。
「ごめん。やっぱりオレ、駄目だな。どうしていいか全然分からないや。本当にごめん」
大仰にそう言うと、遼は深々と頭を下げた。
「でも、これだけは嘘じゃない。オレ、如月さんのこと好きだ」
「……え?」
「でも、一番に、とは言えない」
「…………」
聖香はマジマジと遼を見つめて小さく息を吐いた。
こんな時でさえ、どれだけバカ正直なんだろう。この少年は。
でも、そういうところが好きで。同じだけ、そういうところが嫌いだった。
「……一番は、毛利先輩?」
「…………!!」
驚いて顔をあげた遼は、次いで僅かの躊躇もなく素直に頷いた。
「この先、何があってもオレの気持ちはきっと変わらない」
「……どうして?」
振り向いてもらえないのに。
それなのに、どうして変わらないと言い切れるのだろう。
「そりゃ、嫌いになる理由がないからだろうな。でも、如月さんに対しても同じだよ。一番の席は譲れないけど、二番目の席は、たぶんずっと如月さんで変わらないと思うし」
「……私……二番目なの?」
「ああ」
あっけないほど当然の如く、遼は頷いた。
「さっきも言ったろ。オレ、如月さんのこと好きだって」
「……………」
「ホントだよ」
なんだか、今までのモヤモヤがストンとどこかに収まって、消えていったような気分だった。
ほんの少し、笑いたくなった。
決して倖せだとは言えないが、それでも、自嘲ではない笑みが聖香の口元にのぼる。
「笑った……?」
ようやく涙が止まったらしい聖香の微笑みを見て、遼がほっと息を吐いた。

 

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