ナイモノネダリ (5) -疾風-
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何だろう。
そう思って、疾風はふと足を止めた。
右手に荒れ地。左手は崖。後ろは切り立った山々が連なっていて、人がそうそう足を踏み入れそうな場所とも思えないのに、何故こんなところに居るのだろう。
死んでいるのかと思うほどぐったりとした状態で寝転んでいる一人の男の姿。
いや、死んではいない。微かに、本当に微かに上下する胸の動きが、まだこの男に命があることを伝えてくれている。
「…………」
疾風はそっと音を立てずに男のそばまで近づいてその顔を覗き込んだ。
浅黒い肌は東洋系かアジア系か。
意志の強そうな太い眉。身体中に残る擦り傷切り傷、打ち身に捻挫。何をどうやったら此処までボロボロになるんだろう。
自分も大概まともな生活をしているわけではないと思うが、それに比べても、この男の傷の多さは異常だろう。
「…………!」
ほんの僅か男の唇が動いた。
カサカサに乾いて荒れた唇。水分が足りていないのは一目瞭然だ。
思わず疾風は手に持っていた果物の中で一番汁気の多そうな果実を選んで、男の唇の上で絞った。ポトリと男の口の中に果汁が滴り落ちる。
男は驚きもしないで、ゆっくりと目を開けた。
「……あ、気がついた」
何故かほっとしながら疾風はつぶやいた。
想像していた通り、男の瞳は真っ直ぐに前を見ている、意志の強そうな澄んだ目だった。
「誰だ、お前は」
男が口を開いた。
「あ、あんたこそ誰だよ。こんなところでぶっ倒れてるなんて。誰かにやられたのか?」
「やられたのは、誰かにじゃない、師匠にだ」
「ししょう? 何それ?」
首をかしげて疾風は聞いた。
男はにこりともしないで、身体をおこしながら小さくため息をついた。
「師匠っていうのはオレの先生だ」
「先生? 何を教えてくれる人?」
「あいつは、オレに人の殺しかた、人の憎みかたを教えてくれる」
「憎みかた……?」
一瞬、疾風の表情に緊張が走った。
男は皮肉な笑みを浮かべて、ちらりと疾風の顔を見る。
大きく目を見開いて男を見ると、疾風は次の瞬間腕に抱えていた果実を地面に落としながらザッと後ろへ飛び去った。
一瞬背筋が寒くなった。
それはこの男が発している異常な程の威圧感の所為だろうか。
「…………」
疾風の顔に緊張感が走る。
男はそんな緊張感など意に介さないふうで、地面に散らばった果実に目をやると感心したように唇の端を上げた。
「この近くに実ってるのか? そんなものが」
「……ま、まあな」
「こんな荒れ地にも果物なんか実ってる場所があるんだな。知らなかった」
「……結構あるぜ。探せばだけど」
先程の威圧感はどこへやらと言った男の気軽な口調に、ようやく少し緊張を解いて、疾風は男のそばに再び近づいた。
「……なあ、さっきの話、あんた誰かを憎んでるのか?」
「…………?」
素直な疑問系の口調。男は一瞬ためらって、口を閉じた。
疾風は少し首をかしげて、男の目を覗き込む。
「あんた、人の憎み方を覚えなきゃならないほど、誰かを殺したいのか?」
「……そうだな」
男の目にほんの一瞬殺気が走る。
「……殺したい奴は……いる。だが、その為には力がいるんだ」
「…………」
「オレは強くなる。誰の支配も受けなくてすむように」
「……強く?」
「ああ」
「じゃあ、オレと一緒だ」
ニッと笑って疾風は白い歯を見せた。
「……お前、変な奴だな」
呆れたように肩をすくめて男が言った。
疾風はきょとんとした顔で小首をかしげる。
「そっか?」
「ああ」
「そっか。オレって変なんだ。オレ、普通ってわかんないから。オレ、普通の奴って知らないし、会ってたのかもしらないけど、覚えてないからさ」
「…………?」
一瞬男が眉をひそめた。
「本当に妙な奴だな。お前は。名前は何ていうんだ?」
「……名前……?」
疾風の顔からすっと笑顔が消える。そして、奇妙な沈黙が流れた。
「…………?」
「名前……ああ……好きに呼んでいいよ」
多少投げやりとも思える口調で疾風はそう言った。
男の眉が更に寄せられる。
「名前がない? どういうことだ」
「オレ、この島に来る前の記憶が全然ないんだ。自分の産まれた場所も両親の事も覚えてない。この島に来る前、自分がどんな奴だったのかも知らない。帰るべき場所も待っててくれる人もいない。もちろん名前も」
「……記憶がない?」
「ああ。気がついたらこの島の海岸に打ちあげられててさ。どうも乗ってた船が嵐で沈んだみたいなんだけど、うまく思いだせなくて。思い出そうとしたら、すぐ吐いちまって。だから、考えるの止めた」
「…………」
「夢見るたびに吐いちまって。みんなにも迷惑かけた。だから夢見る前に起きなきゃって思って。しばらくずっと寝ないでいたんだけど、それも駄目でさ。だから、オレ、夢を見ないですむくらいクタクタに疲れて眠ろうと思って、昼の間は島中駆け回って……」
「……で、それは上手くいったのか」
「少しはね。そのおかげでこうやって食料も調達出来るようになったんだ」
顔をくしゃりと歪めて疾風は笑った。
「だから、オレには名前がない。もう思い出すことも永遠にない。兄者が疾風って名前つけてくれて、オレ、すごく気に入ってるけど、でもこれはオレの本当の名前じゃない。疾風って呼ばれると、すげえ嬉しくて、嬉しいのに泣きそうになる。いつもいつも」
「…………」
「オレは誰でもない。オレの居場所なんて何処にもない。だから他の奴等はオレのこと疾風って滅多に呼ばない。だから……」
「…………」
「だから、あんたも好きな名前で呼んでいいよ」
言いながら疾風の目に大粒の涙が盛り上がってきた。
「あれ? おかしいな。変なの。なんでオレ、泣いてんだろう……変なの」
「…………」
そっと手を伸ばし、男は疾風の赤みがかった黄金色の髪をくしゃりと掻き回した。
「変だよ……オレ。なんで会ったばかりのあんたにこんな事話してんだろう。変だよ。絶対変だ」
「そうだな……」
昔、自分がどんな生活をしていたのかなんて知らない。
父親も母親も知らない。
自分が何処の国の人間なのか、今何歳なのか、誕生日はいつなのか、この島へ来る前は倖せだったのか。何も知らない。
誰のことも知らない。そして、きっと誰も自分のことを想ってなどいないだろう。
とっくに死んだと思われて。きっと葬式なんかあげられてて。
だから、何も思い出さない。永遠に、自分は誰でもない。
誰でもない。
でも、それは、ほんの少し心が痛い。
「ま、名前なんて確かにどうでもいいことだな」
独り言のようにぽつりと男が言った。
疾風がそっと顔をあげる。
「お前はお前だ。ちゃんと此処に存在してる。だから、それでいいんじゃないか?」
「…………」
「他の奴等が全員死んで、お前だけ生き残ったからといって、お前がそれを気にする必要もない。お前は其処にいるんだから、お前が今居る場所がお前の居場所だ、。誰の許可がいるわけでもない。お前自身が其処にいれば、それだけで充分じゃないか」
「…………」
「それでも不安になるなら、その時はオレのそばに来い。そうしたら、オレがお前を認めてやる。お前が、他の誰でもない、お前自身だってことを」
「…………」
まん丸に見開いた疾風の瞳から、再び大粒の涙が一粒だけこぼれ落ちた。
――――――すっかり日が暮れて戻ってきた疾風を見つけ、駆け寄ると、朱雀は苛立った顔で疾風の頭をバシっと叩いた。
「こんな遅くまで何ふらふらしてんだ。亜門に邪険にされたからって拗ねてんじゃねえぞ、名無し」
「別に拗ねてなんかねえよ。それにオレは名無しじゃない。ちゃんと、疾風って呼べよ」
じろっと睨んで自分を見上げる疾風を見下ろし、朱雀が驚いたように目を見開いた。
「ふーん、呼んでほしいんだ」
「…………」
「以前は、名前呼ぶたび泣きそうな面してたくせに」
「…………!」
ニッと唇の端をあげて笑いながら、朱雀はくしゃりと疾風の髪を掻き回した。
「ったく。疾風の分際で何言ってんだか」
「何だとっ……!」
怒鳴りかけて疾風は言葉を飲み込んだ。
「……あ……今……疾風って……」
「ほら、来いよ、名無しの疾風」
クイクイっと手で招き寄せ、朱雀はそのまま疾風に背を向けて洞窟の中へ入っていった。
一瞬、呆けたように立ちすくんでいた疾風の顔が、次の瞬間破顔一笑する。
そして、疾風はようやく、朱雀の後を追って駆け出した。
FIN.
2004.10.16 脱稿