ナイモノネダリ (2) -亜門-

「……昔の……傷跡……嫌なことを思い出すと浮き上がってくるんだ」
先程よりさらに暗くなってきた雲を見あげながら、亜門がぽつりとつぶやいた。
「10年近く昔の事を、なんで忘れられねえんだろうな……」
「……誰のこと?」
「……オレを産んだ女」
「……そっか……」
それ以上何も聞かず、朱雀は亜門の隣に寝転がった。
太陽の熱にさらされ、少し熱くなっていた地面は、決して心地よくはなかったが、朱雀は大きく伸びをして、隣に寝転がって目を閉じている亜門の横顔を見つめた。
高い鼻梁と引き締まった口元。尖った顎のラインから伸びる首には、確かに指の跡とも見える赤い痣が残っていた。
これはきっと亜門の精神的な傷痕なのだ。
だから、消えない。いつまでたっても消えない。
亜門の心の傷が癒されることがない限り。
実の母親に殺されそうになった心の傷は。
お前なんかもういらないと言われた心の傷は。
きっと永遠に消えることはない。
「……だからお前、女が嫌いなのか?」
「えっ?」
ふっと意地悪気な笑みを浮かべて、朱雀は驚いて目を開けた亜門の唇をすばやく塞いだ。
「んっ……」
「…んんっ……」
舌を絡めると、唇から甘い吐息が洩れた。
お互いの反応を充分に堪能して唇を離し、朱雀が可笑しそうに笑った。
「お前、以前男相手は初めてだとかぬかしてたけど、女の経験だってなかったんじゃねえのか?」
「ぬかせ。オレを誰だと思ってる。んなものはとっくに経験済みだよ」
「へぇー」
意外そうに目を丸くする朱雀を見上げ、亜門がふと眩しそうに目を細めた。
「……確かに、オレは女が嫌いだ。」
「…………」
「初めての女は商売女だった。路頭に迷ってたオレを部屋にあげてくれてさ、お遊び気分でオレに色んな事を教えてくれた。きっと退屈しのぎだったんだろう。オレは一夜の宿と飯にありつけた代わりに、女達の体の良い遊び相手にされたってわけだ」
「いいじゃん。得した気分だったろう」
「まさか。オレにとっちゃいい迷惑。楽しくもなんともない。白粉の匂いに気分が悪くなって、吐きそうだったよ」
そう言って亜門はすっと自分の首に触れた。
「首に手を回されると、どうしてもあの女の事を思いだして、最悪な気分になった。オレの首を絞めて殺そうとしたオレの母親。殺気を含んだ視線。頭の中に響いてきた言葉」
「……頭の中…って……」
その時、亜門の心に共鳴したかのように、とうとう2人の頭上に暗雲が立ちこめ、雨が降り出した。
大粒の雨が打ち付けるのを気にもせず、朱雀は地面に手をついて身体を支えたまま、じっと亜門の顔を見つめていた。
「……声が聞こえるんだ。お前なんかいらない。お前なんか死ねばいい。さっさと死んでくれればよかったのに。どうして産まれて来たんだ。どうして死んでくれなかったんだ。お前なんか産む気はなかったのに。お前の所為で私は不幸になったんだ」
「…………」
「最初は何のことか解らなかった。オレもガキだったし、まさかそばにいる母親がそんなこと考えてるなんて思ってもみなかったから。でも、声は日に日に大きくなって、聞きたくもないのに、頭の中に響き続けて。それでオレはようやく気がついたんだ、これは母親の本心なんだって。母親は、オレに死んで欲しかったんだって。オレなんかいらなかったんだって」
「…………」
「永遠に終わらない呪詛の言葉。耳で聞くのではなく心に聞こえてきたあの女の本心」
「…………」
「聞きたくないのに耳を塞ぐことが出来ない。頭が割れるように痛くなって、真っ白になって、オレは……」
「亜門……」
「母親の…あの女の手が、オレの首を絞めた。今度こそ、本気で殺そうとして。もうこれ以上耐えられないからって。もうオレの顔を見ていたくないからって。オレ、どうしていいか解らなくなって」
「亜門……」
「気がついたら、オレはあの女を殺していた」
「亜門……」
「うるさかったんだ。もう何も聞きたくなかったんだ。黙って欲しかったんだ。もう解ったから…………もう……充分解ったから……」
亜門の言葉を遮るように、朱雀は亜門に近づくと、そっとついばむようなキスをした。
軽く触れて僅かに離す。
もう一度。
今度は先程より少しだけ長い間触れる。
唇を離すと、亜門は少しだけ名残惜しそうな表情をして、手を伸ばし、朱雀の頬に触れた。
いつの間にか雨は霧雨に変わっていた。
雨に濡れた朱雀の髪から雫が滴り落ちて、亜門の頬を濡らす。
「なんか、お前、変だぞ」
「お前もな」
ようやく唇の端にいつもの皮肉そうな笑みを浮かべ、亜門は朱雀の首の後ろを抱え込んで力強く引き寄せると、そのしなやかな背中を抱きしめた。
「……あ……」
「言っとくけど先に誘ったのはそっちだからな。あとで文句言うなよ」
「…………!?」
身体の位置を反転させ、亜門は朱雀の上に覆い被さる形になり、にやりと朱雀を見下ろした。
「お…おいっ……」
そのまま素早く服の裾をたくし上げ、露わになった朱雀の滑らかな肌に亜門が舌を這わせると、朱雀がビクンと背筋を反らせる。
「……んっ……」
ぱあっと肌が朱に染まった。
通り雨のおかげで適度に濡れた地面の草。素肌に残っている水滴は雨の滴だろう。それは、すぐに頭をのぞかせた太陽を反射してキラリと光った。
手に入れたいと願ったものは此処にあって此処にない。
「言っとくけどオレは母親の代わりになって頭なでてやる気はねえからな」
「わかってるよ。そんなこと」
欲しいと思ったものは手に入らないもの。
もう、何処にもないもの。
自分の手で壊してしまったもの。
所詮、そういうことなのだ。
「別に母親じゃなくてもいい。お前の声が聞きたい」
「…………」
「オレを呼んでくれる声があれば、それでいい」
それでいい。
お前なんかいらないと。そう言わずにいてくれる心があれば。
しなやかな絹糸のような朱雀の髪を指に絡め取りながら、亜門は再び朱雀に口付けた。

 

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