マーメイド−人魚姫の恋−(9)

「いつ頃から気付いてたんですか?」
プールサイドに腰掛けて伸は聖を見上げた。手に持ったタオルをぱさりと伸の肩にかけてやりながら聖はいたずらっ子のように笑みを見せる。
「そうだな。多分姫と同じ頃かな?」
「……って、それ……」
最初からということなのだろうか。真面目にそう問いかける伸の視線を受け止め、聖はコクリと頷いた。
「まさかと思ったのは、初めて逢った時。でも一瞬後にはそんなことあり得ないと思った。だって、あれは萩での出来事であり、今オレ達がいるのは小田原だ。いくらなんでもそんな偶然ありっこないだろ」
「そう……ですね」
本当に。まさに自分もそう思って、必死で否定したのだ。あり得ない。絶対にそんなことはあり得ない。そう思えば思うほど、真実が心の中に引っかかって取れなくて。ずっとずっと取れなくて。
「だから、伊達王子がお前が萩出身なんだって言った時は、心臓が止まるかと思った」
「嘘付かないでください。平気な顔してたじゃないですか」
「オレ、ポーカーフェイスが売り物だから」
軽く笑って聖はそう返す。本当に、あの時、ほんの一瞬さえ、聖は表情を変えなかった。だから、余計に伸は、まさかという思いを否定し続けたのだ。あれが演技なんだとしたらオスカー賞ものだ。食えない人というのは、こういう人のことを言うのだろう。
「でも、そんな前から確信してたんだったら、どうして言ってくれなかったんですか?」
「そりゃ、仕方ないじゃないか。あれは人魚の恋だったんだから」
「……え?」
意味が分からず伸が小首をかしげる。聖はやけに優しげな目で伸を見つめると、一瞬後、軽く頭を振ってゴロリと仰向けに寝転がった。
「……オレ、高校の3年間、萩に居たんだよ」
ぽつりと聖が言った。
「中学の頃は、阿武郡に住んでたんだけどさ」
「阿武郡?」
萩の隣に位置する所だ。
「そう。で、親父の転勤が決まったのは、ちょうどオレが高校受験を終えたばかりの中3の時だった。せっかく決まった高校を蹴って親父に付いていく気がしなくて、オレ一人萩の親戚の家に居候を頼んだんだ」
「ああ……だから」
詳しく聞いたことはないが、遼の口から如月一家が山口県にいた事があるなんていう話を聞いたことがなかったのは、その所為だろう。聖が中3の時転勤が決まったということは、その頃聖香は恐らく小学校だったはずだ。聖一人残して聖香は両親と一緒に早々にこちらに引っ越して来ていたのだろう。
「大学に進むのならこっちに来いって言われてたから、萩に残るのは3年間だけって約束で。まあ、その3年間が親元を離れて一番自由だった時かなあ」
高校時代を懐かしむような口調で聖はそう言った。
「にしても、あの時は本当に驚いた」
「あの時って……」
「姫に逢った時だよ。オレは幻を見ているんだろうかって。真剣に考え込んだ」
「…………」
「本当に……幻か何かに見えた。こんなことあり得ないって思った。あんな生き物、現実に存在するはずはないって。それにだいたいあそこは学校のプールであり、ネス湖でも何でもないんだし」
「ネス湖って……人を珍獣か何かのように言うの止めてくれませんか?」
しかもネッシーは恐竜であり、人魚じゃない。まったく。真面目に聞いて損をした。
伸がすねた目で聖を見ると、聖はさも可笑しそうにクスクスと肩を震わせて笑い出した。
「充分珍獣だろう。人魚ってこの世に存在しない生物なんだぜ。ほら、人魚はジュゴンを見間違えただけだとか言われてるけど、オレに言わせると、ジュゴンはどう贔屓目にみても人魚とはいえないじゃないか。人魚ってのはもっとこうすらっとしてて………」
「もういいです」
肩にかかっていたタオルで乱暴に髪を拭き、伸はおもむろに立ち上がった。
「帰るのか? 姫」
「僕は姫じゃありません!」
思いがけない程きつい口調になってしまい、伸は慌てて口をつぐんだ。聖は驚いたように目を丸くして身を起こす。
「……何、怒ってるんだ? 姫」
「お……怒ってません。っていうか、だから姫って呼ぶの止めてくださいって言ってるでしょ。僕は……」
そこまで言って伸は言葉を止めた。
そう言えば。思い返してみれば、この聖という男。今までただの一度も伸のことを名前で呼んだことが無かった。初めて逢った時から、ただの一度も。挨拶の時でさえ。
「……どうして……」
偶然ではあり得ない。わざとだ。
「……姫?」
じっと聖を見つめたまま動かなくなった伸を心配して、聖は立ち上がり、真正面から伸の顔を覗き込んだ。
「どうした……?」
「………………」
どうして。どうしてこの人は名前を呼んでくれないのだろう。
どうして。
毛利、とも。伸、とも。呼んでくれないのだろう。
名前を呼ばないと言うことに、どんな意味が含まれているのだろう。
「……こら。姫。そんな表情するなよ」
じばらくじっと伸を見つめた後、困ったように眉を寄せ、聖が呟いた。
「そんなって……?」
オウム返しに伸が尋ねる。聖が微かに吐息を漏らした。
「……ったく。お前は無防備すぎるんだよ。人魚姫」
「…………え?」
「そんな無防備でいられたら、対するこっちが困るだろう」
「…………」
「あんまり手を焼かせるな」
苦笑を浮かべ、聖はそう言った。

 

――――――なんだか、色々なことをはぐらかされたような気がした。
人魚の恋とはどういう意味なのか。無防備というのは自分の何処を指しているのか。
問いかけようとした伸に何も言わせないまま、聖はさっさと帰っていった。あまり遅くなると明日にひびくだろうから、姫も早めに帰るんだぞと言って。
やはり最後まで、聖は伸のことを姫と呼び続けた。
変わらないハスキーボイスで、3年前と同じ呼び方をし続けた。
何故だろう。その呼び方が、心に引っかかって離れない。
バス停までの道をノロノロと歩きながら、思わず大きくため息をついた伸は、次の瞬間、驚いて立ち止まった。
「あれ? 当麻……? なんで」
バス停の所で当麻が自転車にまたがったまま、憮然とした表情でこちらを睨み付けていたのだ。
「なんでじゃねえよ。お前今何時だと思ってる?」
「何時って……」
腕時計を見る。が、暗くて文字盤が見えるわけないことに気付き、伸は曖昧な笑みを浮かべて再び顔をあげた。
「えっと……何時……だっけ?」
「10時半」
「……あ、そう」
確かに早い時間とは言い難い。
「で、此処のバスの最終は何時か知ってるか?」
「…………」
ようやく伸はしまったという表情で立ち止まった。
此処から柳生邸まではバスで約20分の距離。ただ、そのほとんどは登り坂だ。更に街から遠のいていくということもあり、登れば登るほど明かりも少なくなっていく。確かに歩いて歩けない距離ではないが、夜一人で歩くのはちょっと遠慮したい道程である。そして、それを防ぐためには10時20分の最終バスには間に合うようにしなければいけないというのがいつもの決まり事だったのだ。
「ご……ごめん」
「さすがにこれ以上遅くなると、遼が気付いて騒ぎ出すかもと思ってな。頃合いを見計らって出てきた。で、途中ですれ違ったバスにお前乗ってなさそうだったから、此処まで降りてきたんだ」
「……その自転車は?」
「蔵の隅に転がってた。なんだかんだ言って、ナスティは物持ちが良いから助かったよ」
普段、自分達は自転車など使わない。その証拠に当麻の乗っている自転車はかなり錆びていて、長期間乗らないまま放置してあったことは一目瞭然だった。伸も家の蔵にそんなものがあったなんて今まで知らなかったくらいなのだ。ということは、当麻だって知らなかったはずだ。
当麻は、なかなか戻らない伸を気にして、自転車を探したのだろうか。もし自転車が見つからなかったら走ってでも此処まで降りてきたのだろうか。きっとそうだ。
「ごめん……」
もう一度伸がそう言うと、当麻はいいから早く後ろに乗れと仕草で伸を手招きした。
「ほら、行くぞ」
「うん」
伸が大人しく後ろの荷台に腰を降ろすと、当麻はその腕を取って自分の腰に回させた。
「しっかり掴まってろよ」
ゆっくりと自転車のペダルを漕ぎ出す。夜の空気はひんやりとしていて、火照っていた肌を冷ましてくれた。冷たい夜の空気と温かい当麻の背中。それはなんだかとても気持ちよくて。気持ちよすぎて胸が苦しい。
堪らなくなって伸はギュッと目をつぶった。
何をやっているのだろう。自分は。
本当に、何をやっているのだろう。
自分は何を欲しがっているのだろう。
当麻に気付かれないようにと小さくため息をつき、伸はそっと自分の唇に指をはわせた。さっきは触れる寸前に身を引いた。もし、あの時、自分が水中に逃げなかったら。聖の力があと少し強く自分を引き寄せていたら。そうしたら。
そうしたら、自分はどうしていたのだろうか。
「……伸?」
気付くと、いつの間にか当麻が自転車を止めて伸の方に首を向けていた。
「どうした?」
耳に心地よい当麻の低音の声が響く。聖とは対照的な深くて響きの良い声。
「伸?」
当麻の背中に額を押しつけたまま何も答えない伸を見て、当麻はそっと伸の手に自分の手を重ね、あやすようにトントンと叩いた。僅かに伸が反応を返す。
「…………」
小さく息を吐き、当麻は伸の手を自分の腰から離させると、自転車を降りた。伸が戸惑ったように当麻を見ると、当麻は無言で伸に荷台から降りるように指示し、伸が降りたのを確認すると、カタンと音を立てて自転車のスタンドを立てた。
「久々の二人乗りはやっぱきついわ。っつーことでちょっと休憩な」
ニッと笑って当麻はそう言った。そして荷台にもたれるように腰をかけ、うーんと伸びをする。
「あ、そうか。ごめん。重い? 交代しようか?」
「いいって、別に。ちょっと休憩したかっただけだから。それにあとちょっとだしな」
言われて周りの景色を見ると、確かに三分の二は進んで来ているようなので、あと少しで柳生邸が見える頃だった。眼下には街の明かりが僅かに見える。こうやって見ると、柳生邸は結構高い位置にあったのだなあと今更ながらに思った。
「ごめんね。迷惑かけて」
「ああ、まったくだ。これっきりにして欲しいな」
「…………」
「なんて嘘。んなマジな顔すんなよ」
ふっと笑って、当麻はすっと手を伸ばすと伸の髪に触れた。まだ少ししめったままの髪は、風に当たって冷たくなっている。
「大丈夫か? 髪濡れたままで寒くないか?」
「大丈夫……あっ! ごめん! 当麻、背中……」
「……え?」
伸が慌てて持っていたタオルを当麻の背中に押しつけた。
「もしかして冷たかった? 濡れた髪のままでしがみついてたから、僕」
「ああ……そっか。どうりで……」
当麻の着ているTシャツはじっとりと濡れて背中に張り付いている。
「ごめんっ! 本当にごめん」
「別にいいよ。すぐ乾くだろうし」
「ごめん。気付かなくて」
「んな謝るなよ。らしくないぞ」
「でも」
「いいから」
背中に回された腕を逆に取り、当麻は伸を引き寄せるとそのままいきなり腕を回して伸の身体を抱きしめた。
「ちょっ……当麻!?」
「あんま下手に出てると襲うぞ」
「意味わかんない!! 当麻!!」
ガッチリと背中に回された腕は、どうあってもほどけそうにない。
「当麻……?」
きつく抱きしめられたまま、伸は諦めたように力を抜いた。当麻はしばらくの間、何も言わないまま、ずっと伸を抱きしめ続けていた。

 

――――――「……伸は無事帰って来たのか?」
部屋に戻ると征士がベッドの上から当麻に声を掛けてきた。
「ああ、今風呂に入ってる。早めに休めとは言っておいた」
「そうか」
安心したように征士は読みかけの文庫本に再び手を伸ばす。
「明日から撮影だと言っていたから伸も気にしているのだろうが、バスの最終に乗り遅れるほど熱心に練習していたのか?」
「どうだろうな……」
微妙に言葉を濁し、当麻は自分のベッドの縁に腰掛けた。征士は文庫本を手に取ったまま、そんな当麻をじっと見つめる。
「……当麻」
「何だ?」
「気にかけておいたほうが良いか?」
「………………何を?」
かなり長い沈黙の後、当麻はボソッと聞き返す。征士は小さくため息をつき、開きかけていた本を閉じた。
「いや、お前が気にならないなら構わないのだが」
「気にした方がいいという状況なのか? 今」
「さあ、正直言って私にはよく分からない」
「……だろうな」
オレにも分からない。そう言葉を続けて、当麻はゴロリとベッドに横になった。
「……一度見に来るか?」
遠慮がちに征士が聞く。
「撮影をか?」
「そうだ」
「行ってどうする」
「…………そう……だな。どうなるわけでもないか」
言葉を濁し、征士は再び文庫本へと視線を落とした。当麻はベッドに寝転がったまま天井を見上げている。何だか少しだけ沈黙が心に重かった。
「征……あれだ。あの……如月の兄貴って、どんな奴だ?」
「如月……、ああ、聖さんか?」
「そう……」
「そうだな……彼は……」
「いや、やっぱいいや。何でもない」
征士の言葉を遮り、当麻は頭からシーツを被り直した。征士もそれ以上言葉を続けることはせず、しばらくの間黙って背を向けた当麻を見つめていたが、やがてふっと息を吐き、本をベッドサイドのテーブルに置くと、静かに明かりを消した。

 

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