マーメイド−人魚姫の恋−(8)

「おい、伸、こんな夜に何処へ行くんだよ」
当麻が玄関口で靴ひもを結んでいた伸に向かって声をかけた。
「何処って……学校」
「……は?」
「……のプール」
決まり悪そうに言葉を濁しつつ、伸が答える。
「何で、こんな時間に行くんだよ。昼間散々泳いだんじゃないのか? 人魚姫」
「……その名前で呼ばないでくれる?」
結び終わった靴ひもを離し、伸はトントンっと床を蹴って踵の位置を調節するとくるりと振り返って当麻を見上げた。
「昼間だと人の視線が痛いんだよ。それにいつもいつも水泳部に遠慮してもらうわけにいかないから、出来るだけ時間をずらして練習しなくちゃいけないだろう」
「……そうなのか?」
「そうだよ。水泳部も合宿から戻って来たし、こっちもプールを独占出来なくなっちゃったし」
「……はぁ……」
当麻の声はどうも伸の説明に納得していないようだ。
「それに明日から海での撮影が開始されるんだ。出来ればちょっと復習しておきたい動きもあるし……やっぱり泳ぎはきちんとマスターしたいし。だから……」
「マスターって、泳ぎはお前の……」
「結構難しいんだよね。あの衣装着て泳ぐの」
まるで当麻の追求を誤魔化すかのように、伸は矢継ぎ早に言葉を繰り出した。
「プールならまだしも、海での泳ぎは波があるから更に難しくなりそうなんだ。しかも実際は征士を抱えて泳いだりもするんだよ。足が普通に使えないって結構大変なんだと、ようやく気付いたものでね。だから自主練習」
なんとか最後まで言葉を言いきり、伸はごくりと唾を飲み込んだ。一瞬視線が泳ぐ。
「お前、夜中の学校に入って良い許可なんか持ってるのか?」
「プールの鍵は渡してもらった」
当麻がやけに無表情のまま聞くと、伸は呟くように返事を返す。
「…………」
もちろん鍵は渡してもらっただけで、夜中の使用許可など取っていない。
ほんの少し後ろめたい気持ちを抱えながら、伸はポケットの中の銀色の鍵を握りしめた。当麻は探るような視線を伸へと向けている。
「……じゃ、行ってきます」
なるべく当麻と視線を合わせないようにとでもしているのか、俯いたまま伸は当麻に背を向けた。
「…………なあ、伸」
ドアノブに手をかけた伸に、当麻は最後の言葉をかけた。
「お前にとって、その場所って何だ?」
「……え?」
何を言い出すのだろうと、伸は思わず当麻を振り返った。
「何? その場所って?」
「夜のプール。学校の」
一言一言を区切るようにやけにゆっくりと当麻は言った。伸は思わず眉間に皺を寄せる。
「何言ってるの? 当麻」
「何でもねえよ。行ってらっしゃい」
「…………」
当麻は伸の答えを待たず、そのまま背を向けると居間の方へと姿を消した。
しばらくの間、当麻の背中を見送っていた伸は、やがて気を取り直したように鞄を肩に抱え直し、ようやく扉を開けて玄関を出ていった。
微かに当麻のため息が聞こえたような気がした。

 

――――――ピシャン。
誰もいない真っ暗なプールに水音だけが響く。
伸は水面に顔だけだしてゆらゆらと揺れながら暗い星空を見上げていた。
「……何、やってんだろうな……」
自分で自分の行動に苦笑を洩らす。
ただ。
夜のプール。此処に来たかった。
あの頃のように。
来たからと言って何がどうなるわけでもないのに。それでも、何故だろう、ただ、こうやって夜のプールに来たかったのだ。
萩に居た頃は、それこそ毎日のように通っていた。
水が恋しいような気がして。ずっと地上にいると息苦しいような気がして。
「……って、そんなこと考えてるから人魚だって言われちゃうんだ」
呟いて、伸はくすりと笑った。
人魚。
初めて伸がそう呼ばれたのは、こんな夜。やはり学校のプールでの出来事だった。
『お前、またこんな所来て……どうりで家に居なかったわけだ』
中学3年生の秋。こっそりと学校のプールに忍び込んでいた伸に向かってそう声をかけてきたのは正人だった。
いたずらっ子のような笑顔と呆れた口調。
すぐにあがるから待っていてくれと、正人を校門前で待たせ、伸はそのあと、最後のひと泳ぎをした。
そしてその時。
その時出逢ったのだ。あのハスキーボイスの持ち主に。
伸のことを人魚姫と呼んだ。あの男に。
あれが、最後に泳いだプールでの思い出。萩での最後の秋。
伸は大きくため息をつき、くるりと水の中で一回転した。
あの時と同じように。
そして。
「……人魚姫?」
突然、聞き覚えのあるハスキーボイスが耳に飛び込んできて、伸は声のした方向に首を向け、硬直したように身体を固くした。
「……え?」
まるで、あの時と同じ。
再現ドラマでも観ているような気分だった。
3年前のあの時とまるで同じように、学校のプールの金網の向こう側で聖が目を丸くしてじっと伸を見つめていたのだ。
「……ひ……聖さん……?」
「……人魚姫? お前……何やってんだよ、また」
やはり同じようにひらりと金網を乗り越えて、聖はプールサイドに降り立った。伸は目を丸くして聖の動きを追う。一挙手一投足。すべてを見逃さないように。自分の記憶と繋ぎ合わせる為に。
そして、確信する。
同じ状況になって確信する。あの時の男は間違いなくこの人だ。
背格好、雰囲気、仕草。どれをとってまったく同じ。既視感でも何でもない。やっぱり、本当に本当に本当にこの人だったんだ。
「……あ……」
「……まったく、何年経っても同じ事してるんだな? オレの人魚姫は」
近づいてくる聖から逃れるように、伸はすーっとプールの中央へと位置を移動した。あの時と同じ距離、同じ目の高さで、もう一度相手を見てみたかったのだ。
「こらこら、今更逃げる気か?」
聖が可笑しそうに笑う。やはりその声は懐かしいあのハスキーボイスだ。
「こっちに来いよ。人魚姫」
そう言って手招きする姿があの時のものと重なる。
伸は無言のまま、今度はすーっと音を立てずにプールサイドの聖の元へと泳ぎだした。
伸の動きを目で追い、聖が懐かしそうに目を細める。
「やっと逢えた」
ぽつりと聖がつぶやいた。
プールサイドまで辿り着き、伸が顔をあげる。
「…………」
「逢いたかったよ。人魚姫」
「本当に……あの時の……?」
伸の不安をかき消すように、聖は笑った。
「久しぶりだな。人魚姫。約3年ぶりの再会ってことだ」
側まで来た伸の頬に手を添え、聖がふっと笑った。そして、その手がそのまま伸の顎の下に回される。
「……あ……」
聖の手は軽く伸の顎に添えられているだけのはずなのに、上を向かされた角度で、伸は聖を見つめたまま動けずにいた。微かに伸の唇が開かれる。吐息が洩れる。ふと目を細めた聖は、そのまま伸が抵抗する間もなく、唇を寄せた。
「……え? あ、ちょっと待っ……」
一瞬触れかけた唇。伸はハッと我に返り、必死で避けるようにとっさに水の中に顔を沈めた。
「…………」
聖は無言で小さく肩をすくめ、水に沈んだ伸の行方を目で追う。伸は水中でギュッと目をつぶり、早鐘を打ち続けている心臓をなんとか沈めようとやっきになっていた。
頬が熱い。顔の周りの水が沸騰するのではないかと思うほどに熱い。どうすればいいんだ。この状態を。
「い……いきなり何するんですか!」
息が続かなくなり、ついに水飛沫と共に水面に顔を出した伸は、まだ真っ赤な顔をしたまま必死でそう怒鳴った。
「……何って?」
聖が可笑しそうに首をかしげる。
「やっぱり見ちまったんだから必要だろう? 口止め……」
「き……今日はあの時とは違いますっ! 口止め料は必要ありません!!」
必死で叫べば叫ぶ程、声が裏返る。そんな自分が恥ずかしくて、更に伸の頬が熱くなった。
『いちおうこれが口止め料な。人魚姫』
ついばむようなキスをしてあの時彼はそう言った。無断で夜の学校に忍び込み、プールで泳いでいた伸に向かって。
あれが伸にとってのファーストキスだったなんて、きっとこの男は考えてもいなかったのだろう。そう思うと何だか無性に悔しくて腹が立った。そして、自分がとても子供に思えた。
真っ赤になって俯いている伸を見て、ついに聖が吹き出して笑い出した。
「相変わらず良いキャラしてるな。お前は。本当、からかい甲斐がある」
「か……人をからかって楽しんでるんですか? あなたは!? だいたい冗談にも程があります。男相手に何考えて……」
「何言ってんだ。だって、お前は姫だろう」
伸の言葉を遮って、聖はきっぱりと言い返してきた。対して、思わず伸の方が言葉に詰まる。
「言ったろう。オレは人魚姫に逢いたかったんだって」
「…………」
人魚姫。
あの時と同じ声。同じ口調で、聖は愛おしそうに伸のことをもう一度人魚姫と呼んだ。
人魚姫と。
「不思議だな。オレは無神論者で、神も運命も信じない人間だったんだぞ。それなのに、今初めて運命ってものを信じてみる気になったよ」
「………聖さん………」
「オレ、今初めて神に感謝してる。お前に再び巡り会わせてくれた運命って神様に」
「…………」
「人魚姫」
懐かしい声。耳に残るハスキーボイス。
やはり自分は、この声を欲していたのだ。そう思ったとたん、少し。ほんの少しだけ、チクリと胸が痛んだ。

 

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