マーメイド−人魚姫の恋−(10)

海での撮影初日は見事な程の快晴だった。
毎日の天気予報とにらめっこしながら立てた撮影計画。初日はとりあえず海で泳ぐ人魚姫を、どういった形でフィルムに収めるか、そのアングルを決定するためと、初めての水中撮影のテストを兼ねてのものとなった。
早朝、撮影機材を山程抱えた崎谷始め映研のメンバー達と一緒に、伸は近くの海岸へと向かうバスに乗る。
今まで何度か文化祭等で上映するための短編映画を撮っているとはいえ、海での撮影は崎谷達にとっても初めてのことらしく、実際どれくらいかかるかというのは、皆目検討がつかないようだった。
まずは水中での撮影というものに慣れる為、出来ればリハとして日帰りで1回か2回。その後、嵐の場面の撮影も兼ねての泊まりがけでの遠出。状況によっては2泊するかも知れないという。もちろん伸はそのすべてに同行することとなるのだ。
早朝に集合して乗り込んだバスはほとんど貸し切り状態で、皆はそれぞれ思い思いの場所を陣取り、すぐに寝息をたてだす者、本を読む者、近くの者とゲームを始める者など様々だった。
伸はバスの丁度真ん中辺りの座席に征士と並んで腰を降ろした。遼は最後部座席で聖と一緒になにやら色々と話し込んでいるみたいだ。
「……何を読んでいるのだ? 伸」
さっきまで窓の外の景色を眺めていた征士が、隣に座っている伸に声を掛けてきた。
「ああ、うん。ちょっとね」
そう言って伸が掲げて見せた本のタイトルには『アンデルセン作・人魚姫』の文字があった。
「人魚姫? ああ、原作の童話のか?」
伸の手元にあった本は絵本や児童用のものではなく、きちんと原作を翻訳したもののようだ。
「うん。子供の頃、読んではいたんだけど、そういえばきちんとした原作って読んでなかったなあと思ってさ。ちょうどいい機会だから昨日買ってきたんだ。原作ってディズニーの映画とは全然違うんだよね」
「それはそうだろう。何と言ってもラストが違っているのだからな。あの映画は」
数年前に上映されたディズニーの人魚姫。
さすがに映画館で見たわけではないが、いつだったかテレビで放映された時、伸も征士も見ていたのだ。
「征士はどっちが好み?」
伸の質問に征士は真剣な表情で考え込んだ。
泡になって消えてしまう本来の人魚姫と、倖せなハッピーエンドを迎える映画の人魚姫。あの映画が公開された時も、結構賛否両論、いろんな意見が飛び交っていたような気がする。
しばらく思案したのち、征士はぽつりと言った。
「好みは……原作かな」
「そうなんだ。悲劇が好みなの?」
予想通りの回答に伸はふっと笑みを見せて征士を見た。ハッピーエンドが似合わないわけではないが、征士はきっとそう答えるだろうと、何処かで分かっていたような気がしたのだ。
「そういうわけではないが……少なくとも今回の人魚姫のイメージは原作のものだろう。お前といい海野先輩といい」
「ああ……」
確かに、伸もまどかも、美しい姫という点では充分に華やかではあるが、映画にあるような天真爛漫なお転婆ぶりというイメージとは程遠いかもしれない。
「願いが叶わず泡になって消えていくというのは、子供心に随分印象に残っている。あの物語は悲劇と言えばこれ以上ないくらい悲劇なのかもしれないが、私は、不思議と悲惨な気持ちにはならなかったんだ」
「へぇ……」
「悲劇と言うより、美しかった。最期の最期まで王子の事を想っている人魚姫の姿は、とても美しかった」
そう呟く征士の方が、どう考えてもそこらの姫より綺麗なのではないだろうか。
苦笑しながら伸は読んでいた本をパタンと閉じた。
「……なんか征士にそう言われると、凄い責任重大なことのように思えてきた」
ただでさえ綺麗と言われて憚らない人間に、ここまで美しいという言葉を連発されてしまうなんて。どう演じても無理なような気がしてくる。
「大丈夫。お前の人魚姫は充分に美しい」
「真顔で言わないでくれる? どう反応していいか分からなくなるじゃないか」
「そうか? 私は嘘は言っていないつもりだが」
「はいはい……」
伸の困ったような反応に多少苦笑しながら、征士は窓外へと目を向けた。外からは微かに潮風の匂いが香ってきている。間もなく目的地に到着する頃なのだろうか。
「……ねえ、征士。全然関係ない質問していい?」
「……? ああ、構わないが」
少しだけ声を潜めて聞いてきた伸に、征士は眺めていた景色から顔を戻し、身体をずらして正面から伸を見つめた。
「何だ?」
「あ、うん。そんな構えられるような事じゃないんだけど……あのさ」
「…………」
「僕って無防備なの……かな?」
「………………?」
どう答えていいか分からず、征士の眉間に皺が寄った。
「あ、いや、その…そんな真剣に考えなくていいから」
「その無防備というのは戦いにおいて、ということか?」
「え? いや……」
多分違うだろうなあと思いつつ、全否定も出来なくて、伸は曖昧な表情をした。
「戦いにおいてという限定付きなら、正直に言って、私はお前ほど隙のない相手は見たことがない。一番戦いたくない相手だ。というか唯一勝てる気がしない相手だと思っている」
「え? そうなの?」
これはある意味、かなりの誉め言葉ではないだろうか。征士がそんなふうに自分を見ていたとは思いもしなかったので、伸は意外そうな顔でじっと征士を見つめ返した。
「でも、実際戦ったら、秀や遼のほうが力は上じゃないの?」
「腕力だとか、技の大きさだけでいうなら奴等の力はかなりのものだろう。だがその分、秀も遼も隙が多すぎる。防御がなっていないからいつも失敗するのだ。当麻もしかり。奴はムラっ気が多すぎる。集中している時は手強いが、その集中が途切れた所を狙えば簡単に形勢逆転できる」
「ああ……」
そういえば征士は、いつだったか将棋の勝負で、上手い具合に当麻の集中を途切れさせて逆転勝利した経歴の持ち主だった。
「だから、皆の中ではお前が一番安定していて隙がない。無防備という言葉には程遠い人種だ。ただし」
そこで征士は言葉を止め、少し考え込むように視線を上に向けた。
「ただ、そうだな。これは戦いにおいてという意味ではという事だ。それ以外の事となると話は全く別問題」
「…………え……?」
ゴクリと伸は唾を呑みこんだ。征士はそんな伸を見て、ふっと笑みをこぼし、トンと座席の背もたれに背中を預けた。
「きっと、こういうことは当麻のほうが上手く表現出来るのだろう。私ではあまり上手く説明出来ないのだが、そうだな……お前は心を許した相手には、とことん無防備になる傾向があるのではないか?」
「………………」
伸が大きく瞬きをした。
「言っておくが、これは誰にでも愛想がいいとか、そういう次元の話ではないぞ。むしろお前にとっては、愛想がいい相手ほど、心を許していない相手である場合が多い。遼は特別としてだ」
「…………」
「だから……つまり……」
つまり。どういう言い方がいいのか探るように征士は視線を巡らせる。
「つまり……そういうこと……?」
征士の言葉を引き継いで伸がポツリと言った。征士がおや?という表情をする。
心を許した相手にはとことん無防備に。
『お前は無防備すぎるんだよ。人魚姫』
つまり自分は、あの人に心を許していて、それを見透かされてしまったということなのだろうか。
「……伸」
征士がやけに小さな声で聞いた。
「誰がそれを言ったのだ?」
「え……それって?」
「お前が無防備だと。そう言ったのは誰だ」
征士の質問に答えられず、伸は困ったように口を閉じる。しばらく探るような視線を伸に向けていた征士は、ひとつ息を吐いて真っ正面から伸を見つめた。
「言ったのは、聖さんか?」
ポツリと征士が言った。とたんに伸の心臓がビクンと跳ね上がる。
「え……あ……」
「やはりな」
すっと髪を掻き揚げ、征士がふっと笑みを見せた。
「別に隠す必要はない。確かにあの人は尊敬に値するだけの能力をもった人だと私も感じた。だから、お前があの人に惹かれるのも分からなくはないし………」
「惹かれてって……ちょっと待ってよ。僕は別に……」
「違うのか? 私はてっきり………」
そこで征士の言葉が途切れた。伸の頬が僅かに赤く染まっていたからだ。
「伸……?」
「あ……いや、その……」
かあっと朱に染まった伸の頬が更に紅潮する。そして、征士が瞬きする間もなく、その朱は耳まで到達していた。そんな深い意図で言ったわけではなかったはずの征士の言葉に、まさか伸がこれほど過剰な反応を示すとは。これはいったいどういう意味なのだろうか。
「…………?」
まさか。
伸の表情の変化を目で追う征士の思考が止まった。
「…………」
これ以上ないくらい赤く染まった頬。戸惑いに見開かれた瞳。今まで見たことのない表情。
無防備と言うなら本当に、これほど無防備な伸は見たことがないかも知れない。
「あ……あの……違っ……これは……」
何を言っていいのか分からないと言った表情で伸が手で自分の口を押さえた。
「ごめん……違う……あの…僕……」
次の言葉が告げられずに止まる。
「……僕…………」
初めて逢った時から、何故か目を逸らせなかった。
声を聞いた瞬間、心臓が口から飛び出すかと思った。
そして、気が付くといつもその姿を目で追っていた。
スラッと伸びた長身。明るい色の髪。鋭いくせに時々びっくりするほど優しくなる瞳の色。そして、耳に残るハスキーボイス。
あれほどに欲していたハスキーボイス。
ようやく。
ようやく気付いた。
どうして、あれほどに自分があの声を欲していたのか。
あれほどに逢いたいと思っていたのか。
ただ、声が聞きたかった。もう一度。もう一度あの声であの言葉を聞きたいと。
それは。
その理由は。
「……伸……」
ほとんど聞き取れないほど微かな声で征士が呟いた。
「伸……お前……まさか…そうなのか……?」
「…………」
「本当に……そう…なのか……?」
「…………」
「……伸……」
「……分からない」
分かっていた。
「……分からないよ」
本当はとうの昔から分かっていたのだ。
「……征士」
自分がこんなにまであの人に惹かれていたのだということを。
「……征士……」
最初から、分かっていたのだ。
「…………」
どうすることも出来ず、征士は再び窓外へと目を向けた。

 

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