マーメイド−人魚姫の恋−(11)

海水浴をする人の姿が全く見えないその海は、崎谷が見つけた穴場の場所だった。
キラキラと目を輝かせて遼が眩しげに海を見つめる。
今日は晴天。波は穏やか。人魚姫の泳ぎの練習や、初めての撮影には丁度良い天候と言えよう。
崎谷は眩しい太陽を見上げて満足気に頷くと早速機材の荷解きを始めた。鞄の中身は、聖にアドバイスを受けて用意した防水加工された撮影用機材と専用カメラ。デジタルビデオ等々。
「あ、毛利は着替えたら、適当に泳いでていいからな。今日は海の波に慣れることが第一目的だから。撮影もお前が泳ぐのを勝手に追いかけるって形になるだろうし」
人魚姫の衣装を伸に投げて寄越し、崎谷がニッと笑った。
「ま、毛利は海の申し子だから問題ないだろうけど」
「はは……」
否定も肯定も出来ず、伸は苦笑を洩らした。
「今日は、如何にお前が人魚に見えるかってのが最大目標。適当に泳いでてもらって、それをオレ達が勝手に追いかける。あくまで自然な動きを捉えてみたいんで、注文は出来るだけ少なくするつもりだ。だからあんまり肩肘張らず、自然体でいってくれ。あ、ただあんま遠くに行くなよ。本物と間違えられて捕獲されると困るから」
「捕獲って……なんだよ、それは」
「お前の場合、あり得そうだろう」
ゲラゲラと笑いながら、崎谷は言った。本気なのか冗談なのか。呆れつつも、伸は衣装を抱えると、着替用にと皆で海岸に立てたテントへと向かった。
「今日は綺麗に撮ってやるからな。人魚姫」
「……聖さん……!?」
聖の声に伸の足が止まった。同時に心臓が跳ね上がる。振り返ると、砂の上で聖が笑って手を振っていた。その笑顔に伸は眩しげに目を細める。
今日の聖は、バスの中ではずっと遼につきっきりで海での水中撮影のコツやテクニックを熱心に教えていたため、まともに伸に声を掛けてきたのはこれが初である。
「え……あ……」
ぎこちない笑顔を向け、伸は聖に軽く会釈を返した。
「今日はよろしくお願いします。じゃあ、僕、着替えてきますので……」
「あ、そうだ。姫!」
「…………」
思わず引き留められて足が止まる。自分自身がぎくしゃくしそうになるのに気付かれる前にさっさと行こうと思ったのに。どうして身体は意志とは無関係に動くのだろう。
「……何……か……?」
「夕べ、ちゃんと寝たか? 疲れた顔の姫を撮っても面白くないからな」
伸の所に走り寄ってきて、聖は伸の顔を覗き込んだ。近づいてきた聖の顔に、伸が思わず後ずさる。
「あ、だ……大丈夫! ちゃんと睡眠はとりました」
「本当か? 昨日は忘れてたんだけど、あの時間じゃバスの最終、終わってたんじゃないのか? もしかして歩いて帰ったとか?」
「いえ、それなら当麻が……」
「当…麻………羽柴君が?」
「……あ……」
思わず口をつぐんだ伸は、ゴクリと唾を呑み込み、次いで慌ててまくし立てた。
「そ、そうなんです。自転車で迎えに来てくれたんで、ちゃんとすぐ帰れました。ご心配をおかけしましてすいません」
何故焦る必要がある。別に何でもないことではないか。同居人が迎えに来てくれたことを聖に隠す必要も、言い淀む必要も、言い訳する必要も一切ないはずなのに。それなのに。どうして。
早口でまくし立てて、伸は今度こそ聖に背を向けて走り出した。
どうかしている。本当に、どうかしている。
いつもより激しい動悸を無理矢理静め、伸は逃げるようにテントの中に駆け込んだ。
「…………」
一人になって大きく深呼吸する。
何をやっているのだ。これではまるで。まるで。
「……ったく、征士があんなこと………言う……から……」
自覚の無かった想い。だからこそ、征士の言葉が真正面から突き刺さった。
突き刺さった言葉はそのまま自分自身を貫いて。
「……最悪だ」
呟き、伸はパサリと下に人魚の衣装を落とした。
何故、こんなにまで揺らいでしまっているのだろうか。まるで自分自身を制御できない。情緒不安定にも程がある。
伸は誰にも見られていないことに安心してか、大きく息を吐き、崩れるように座り込んだ。
するとその時、がさりとテントの外で音がした。
「……!?」
「伸……?」
名前を呼ばれて伸は文字通り飛び上がった。心臓から音が洩れ聞こえそうだ。
「あ、ごめん。脅かすつもりはなかったんだ。オレ、何か手伝うことないかと思って……」
「……遼?」
テントの入り口を開けると、遼が中腰でテントの中を覗き込んできた。
「上の衣装はともかく、尾ひれは水際で着けるんだろう。尾ひれ着けたら歩けないだろうから、ある程度の深さの所まで連れてってやろうか」
「あ、そう、そうだね。ごめん。今上だけ着るから待ってて」
「了解」
テントの外で遼を待たせ、伸は手早く人魚の衣装を羽織った。
「伸……か……」
低く呟いて伸はため息をつく。
そうなのだ。一瞬、聖が追いかけてきたのかと思ったのだ。だから驚いた。
でも。
「あり得ないよね。あの人は僕のこと伸って呼ばないんだから……」
そう。あり得ない。
ブンッと大きく首を振って、伸はもう一度深呼吸した。
もういい。余計なことは考えないようにしよう。とにかく、今日は泳ぐのだ。泳いでいればきっと何も考えずにすむ。何も気にしなくてすむ。
伸はきちんと衣装を付け終わると、ようやくテントから顔を出した。
「お待たせ」
「ああ……」
振り向いた遼が一瞬妙な顔をする。
「何?」
テントの外に出て入り口を閉め終わり、伸はまだ妙な表情をしている遼に向かって首を傾げる。
「どうかした?」
「いや、上だけ人魚姫で、下が海パンってのも似合わない組み合わせだなあと」
「仕方ないだろ。ここで尾ひれは付けられないって遼が言ったんじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
上は裁縫部が丹誠込めて仕上げた見事な人魚姫の衣装。だが、その下はウェットスーツタイプのぴったりしたハーフパンツをはいて立つ伸。手に持ってる人魚の綺麗な尾ひれがまたちぐはぐで笑いをさそう。
「笑うなってば、遼」
「だってさ〜」
「もう……」
くすくす笑いを続ける遼と一緒に、伸は海岸に向かって歩き出した。
まだ朝も早い時間なので、足の下の土もさほど熱く感じない。だが、これも昼が近づけば、心地良いとは言いがたい熱さになっていくのだろう。
ふと足を止めて伸は大きく深呼吸した。
「伸? どうした?」
一緒に立ち止まって遼が振り返る。
「うん。なんかようやく帰ってきた気がした」
「帰って……? ああ、海にってことか?」
「うん」
コクリと伸が頷く。
萩とは少し違うが、此処も間違いなく海なのだ。そして、海であれば、それだけでそこは伸の帰る場所なのだ。
「……帰りたいのか?」
「そうじゃないよ。遼」
にこりと伸は笑う。遼も安心したように微笑み返した。

 

――――――水際まで行き、尾ひれを付け終わると、伸は遼に支えてもらいながらある程度の深さの場所まで行くとザブンと水の中に飛び込んだ。
動きのある水はやはりプールとは感触が違う。
ああ、これだ。これが本物の海の水だ。胸一杯に潮風を吸い込み、伸は水の上に仰向けに寝ころぶような格好で波間に身体を浮かべた。海は塩分の濃度があるため、プールにいるより浮遊感がある。
伸はぼんやりと、ゆらゆら揺れる淡い人魚の衣装と、背中から腕に絡みつくように流れてくる栗色の髪の毛を見つめた。今日の撮影から、伸は海野の髪の長さに合わせた栗色のかつらをつけている。最初はもっと違和感があるかと思ったのに、髪質が似ているためなのか、そのかつらは充分伸に似合って見えた。
「毛利ー! 遠目だとばっちり女にしか見えないぞー!!」
有り難くも何ともない賛美が海岸から発せられた。
ふと振り返ると水際で崎谷達が水上ボートを膨らませながら大きく手を振っている。やれやれと手を振り返しながら、伸は身体を反転させて水の中に潜った。波の抵抗があって、やはり思うように進まないが、この浮遊感はかなり気持ちいいかもしれない。
ザブンと音を立てて水面に顔をだすと、太陽に反射して飛沫が七色に光って見えた。
「おおーっ!」
海岸での歓声が一際大きくなる。子供のように無邪気に喜んでいる映研メンバーの姿を見ていると、何だか自分まで可笑しくなってきて、伸はくすりと笑みをこぼした。
「じゃあ、オレ、あっちに戻ってカメラの用意してくるよ」
遼がパシャパシャと波を蹴立てて海岸へと戻っていく。伸は遼の姿を追うように視線を海岸へと戻した。
「…………」
海岸の一点で伸の視線が止まる。そしてそれは、歓声をあげるでもなく、ただじっと黙って立ってこちらを見つめている視線と、当然のようにぶつかった。
「……聖……さん」
真っ直ぐに。これ以上ないくらい真っ直ぐに、聖が自分を見つめていた。まるで一挙手一投足すべて見逃さないようにしているかのように。 
視線に射抜かれるというのは、こういう状態なのだろうか。
ふと、微かに聖が笑ったように見えた。ドキンと心臓が跳ね上がる。
なんだか苦しくて。息が出来なくなった。

 

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