マーメイド−人魚姫の恋−(12)

「まず水中での撮影で注意するべきことは……」
聖の説明に皆が真剣に耳を傾ける。
さすがに遼達に比べて写真に関わっていた年数が違うだけあって、聖の知識はかなりのものだった。
もともと、自然の写真を好んで撮り続けている聖の写真の中では、植物の写真に次いで海の写真が一番多いという。身体を動かすことも好きなのだとのことで、スキューバダイビングの免許も持っている聖は、昨年も沖縄への撮影旅行に出かけたのだと言っていた。
露出の調整も、絞りもシャッタースピードも、地上で撮る場合と水中とでは注意するべき箇所が全然違う。
折角なので人魚姫の撮影だけでなく、海の生き物、魚や海草の撮影や波の撮り方も勉強してみようと聖も進言してくれ、遼は映研の撮影部隊とは別の小型ボートに聖と一緒に乗り込み、海へと漕ぎ出した。
「海岸線から海を撮ったことはあるけど、波の真上だと光線が全然変わってくるんだ。すごいなあ。勉強になります」
溜息と共に遼が波間へと視線を巡らす。
まるで吸い込まれそうな海という空間。聖に教えられた通りカメラを構えて、遼はまずボートの上から飛沫を上げている波の瞬間をシャッターで捉えた。小気味の言い音がカシャリと響く。
「君はそうとう海が好きみたいだな」
可笑しそうに聖が笑う。遼もそうかも知れない、と照れたように笑い返した。
子供の頃、遼は海とは無縁の生活をしていた。だから初めて海を見たのは伸と出逢ってからということになる。つまり、遼にとっての海は、そのまま伸そのものを現すものとなっているのかも知れない。
「そうですね。オレ、海が好きです」
何の躊躇もなく遼はそう言い切った。
「山や空、もちろん自然の景色は全部好きだけど、やっぱりオレは海が一番好きです」
「……そうか」
聖は穏やかな表情で遼の語る言葉を聞いていた。
「オレが写真を始めたのは、父さんの影響ももちろんあるんですが、やっぱり、こうやって自分の好きなものを形にして残してみたいって思ったからだから」
「形にして……か……」
「はい」
そう。自分には当麻のような、いつまでも忘れずにいる記憶というものはない。その代わりこうやって形にすれば、永遠に残る。これが自分のやりかた。自分なりの愛し方なのだ。
「だから、こうやって好きなものを撮っている瞬間が、オレにとっての一番の倖せかも知れない」
「なるほどね……」
感心したように聖が頷く。
「確かに、お前さんが撮るものは、いつも愛おしさが滲んでくるようだからね。ああいうのは被写体を愛していなければ撮れないものだろう」
「…………」
遼が聖を見上げた。聖は柔らかな笑顔でその視線を受け止める。
「撮ったものいくつか見せてもらってるけど、どれもこれも共通して感じることは、被写体へ向ける愛おしいっていう感情だな。あれだけは真似しようったって簡単に真似出来るものじゃないから。素晴らしい財産だと思うよ」
「あ……有り難うございます」
現時点での目標としている人物に誉められ、遼は心底嬉しそうに笑った。

 

――――――「じゃあ、毛利はとりあえず適当に泳いでてくれればいいから」
崎谷の口から伸にとってはかなり有り難い指示が飛ぶ。
ある程度の深さの距離までボートを進めると、崎谷はその場所でボートの位置を固定した。まずはカメラ位置を固定して水面と水中から伸の動きを追うらしい。遼と聖も自分達用の小さなボートを少し離れた場所に泊めている。
「遼もそこから撮るの?」
遼達の所まで泳いでいって、ボートの縁に掴まり、伸が聞いた。
「うん。だけど後でオレも一緒について潜ってみていいか?」
「潜るって、水中撮影?」
「そう。一応さっき聖さんに手ほどきしてもらったから、試しに色々撮ってみようと思って」
「あ、じゃあ、さっきあっちのほう潜ってみたんだけど、小さな魚が結構泳いでるのが見えたんだ。良い撮影ポイントかも。案内するよ」
「サンキュー」
にこやかに会話を交わす二人を聖は穏やかなまなざしで見つめている。ふと聖の視線に気付き、伸が一瞬戸惑ったように視線を泳がせた。
「あ、じゃあ、適当に泳いでるんで、何かあったら呼んでください」
「姫」
聖が声を掛ける。ピクリと反応を返し、伸が聖の方を向いた。
「よろしくな、人魚姫」
「あ……はい」
「そうだ。ひとつ要求していいか?」
穏やかな海面を眺めながら、聖が言った。
「え、あ、構いませんが、何ですか?」
伸が素直に頷いてくれたので、聖は満足気な笑みを浮かべ、すっと指で南の方角を示した。
「姫、あっちに岩場が見えるだろう」
「ええ」
「あそこの……そうだな度胸試しの岩に似た奴。あそこまで泳げるか?」
聖が示した先に大きな岩が見えた。言われてみればそれは萩の海にあった度胸試しの岩と呼ばれていた岩に形がよく似ている。
「ああ、大丈夫。全然問題なしです」
「だろうと思った。じゃあ、あそこまで泳いで岩の上に登ってみてくれ。そこまで行ったらちょっと休憩してていいから」
「岩の上で?」
「そうそう。また戻ってきて欲しいときは合図を送る」
「了解しました」
トポンっと音を立てて伸が海中に潜っていく。そして、そのまましばらく潜水して泳ぎ、岩場の側で顔をだす。波の荒いところも穏やかな所も、まるで何の抵抗もないかのように伸は滑らかに泳いでいく。
「マジ人魚だよな……」
隣のボートから崎谷が感心したように息を吐いた。
本当に、遠目どころか近くで見ても、とても人間には思えない。
「あの……聖さん」
じっと伸の動きを目で追っていた聖に向かって、遼がかなり遠慮がちに声をかけた。
「ん? どうした?」
遼の問いに応じながらも、聖の目はまだ伸に向けられたままだ。
「聖さん、萩に居たことがあるんですか?」
「……え?」
初めて聖が遼の方を振り返った。
「どうして……?」
「だって、今、度胸試しの岩って……」
一瞬、聖が失敗したという表情をした。遼は真剣な眼差しで聖を見上げている。
「そ……そういうお前さんも行ったことがあるのか? 萩」
「一度、伸に連れて行って貰ったことがあります」
「ああ、じゃあその時聞いたのか。度胸試しの岩のこと」
「あ、はい………」
「実はオレ、子供の頃、しばらくあっちの親戚の家に住んでたことがあるんだよ」
にこりと笑って聖は遼にそう答えた。遼は聖の顔から目を逸らし、泳いでいる伸へと視線を向ける。
そうか。それで知ってたんだ。でも、だったら。
「もしかして伸は知ってたんですか? 聖さんがあの岩のこと知ってるってこと。でなきゃあんな……あの、つまり、子供の頃に会ったことがあるってことなんですか? 伸と」
「……何だか質問攻めだなぁ。オレ、何かした?」
ボートの縁に座り直し、聖が肩をすくめた。
「あ、ごめ…んなさ……すいません。オレ……そんなつもりじゃ」
慌てて遼が謝罪すると、聖は可笑しそうに目を細めた。
「気になる?」
「…………!!」
遼が返す言葉に詰まる。しばらくそんな遼をじっと見つめた後、聖はひとつゆっくりと息を吐いた。
「大丈夫。伸には逢ったことないよ。オレは」
「……え……」
遼が僅かに目を見開く。
「故郷が同じってことは話したからね。でも、伸には逢ってない」
「本当に……?」
「お前に嘘ついてどうなるんだよ。だろ?」
「…………」
確かに。聖がこんなことで遼に嘘をつく必要はない。考えてみたらその通りだと思って、遼は再び首にかけていたカメラを手に取った。
「あ……遼、あっち見て見ろよ」
聖が遼を呼んだ。
「人魚がいる」
「……え……」
顔をあげるとさっき聖が指差した度胸試しの岩の上に人魚の姿が見えた。本当に本当にそれは人魚に見えた。
「……人魚姫…………」
「ああ、そうだ。人魚姫だ」
最後は泡となって消えていく運命の人魚姫。儚げで切なげで。
「…………」
ふと、聖の方に目を向けると、聖はじっと瞬きもせず人魚の姿を見つめていた。まるで愛おしくてたまらないとでも言いたげな瞳の色をして。
どうしようもないほど、愛おしげな目をして。
聖はじっと人魚を見つめ続けていた。

 

――――――度胸試しの岩。岩の上に腰掛けて伸はそっとそのゴツゴツした岩肌を手のひらでなぞった。
「度胸試しの岩か……」
随分久しぶりに聞いたその名称。懐かしい言い方がすっと心に入ってきたのは、聖の言い方がいつも言い慣れている言い方だったからだろうか。だとしたら、本当に自分達は同じ時期、同じあの場所で生きていたのだ。
「……っと、危ない危ない」
尖った部分で服や鱗を破らないように注意しなきゃと、気をつけつつ、伸は身体の位置をずらして岩の上で安定させた。ようやくほっと落ち着いて座り直し、岩の上から遠く水平線を眺める。
「へぇ……」
波がとても穏やかに見えた。でも、やはり海の色は萩とは少し違って見える。緩やかに吹いてくる風の匂いも微妙に違う気がした。
同じであって違う。それはまるで聖のようだ。
『人魚姫』
あの声が聞きたかった。
最初はただ、声が聞きたかった。
では今は?
「…………」
伸は遠くに揺らめく水平線を見つめ、眩しそうに目を細めた。
微かにシャッターを切る音が聞こえたような気がした。

 

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