マーメイド−人魚姫の恋−(13)

夕陽が水面を赤く照らしている。
水際に踵の辺りまで濡らしながら海を眺めていた征士の耳に微かなシャッター音が聞こえてきた。
「ナイスショット」
振り返ると、聖がカメラを片手に、征士ににこりと笑いかけてきていた。
「聖さん……?」
征士は呆れたように溜息をつき、聖の方へと身体を向ける。
「聖さん。何を撮っているんですか。そんなもの撮っていてはフィルムの無駄ではないんですか」
「無駄じゃないさ。今のなら結構高値がつくと思うぞ。伊達王子」
悪びれたふうもなく、聖はニッと笑みを見せる。苦虫を噛みつぶしたような表情で征士はもう一度これ見よがしに溜息をついた。
「………………」
「ははっ、冗談冗談。そんなマジで怒るなよ。見た目通りお堅い奴だなあ」
「別に私は怒ってはいません」
「そうか?」
構えていたカメラを降ろし、紐を肩にかけると、聖は砂浜の上に腰を降ろした。風が聖の髪を揺らす。思った通り柔らかい髪質なのだろうか、聖の髪はさらさらと風に抵抗なく揺れていた。
如月聖彦。彼は、頭の回転も速く、周りへの気遣いも申し分なく、人に好かれる条件を充分に揃えていた。恐らく誰に聞いても、間違いなくいい男の部類に属するだろう。
征士はしばらく聖の顔を見据えていたが、そのまま水際から砂浜へと戻り、聖の近くで立ち止まった。
「今日の撮影は終了ですか?」
「ああ、そういえば今日は残念だったな。出番なしで」
「そうですね。でも、別に構いません。今日は自分の撮影があると思って同行したわけではありませんから」
言いながら征士は聖の隣に腰を降ろした。聖が興味深そうに征士の横顔を眺める。
「自分はこういうことは初めてなので、どういった感じで進行していくのか先に見ておいた方が、いざ自分の番が来たときに戸惑わなくてすむと思ったのが今日来た一番の理由です」
「なるほど。本当に噂に違わず真面目人間だな。オレはてっきり他の目的でもあるのかと思ってたよ」
「他の……とは?」
征士が不審そうな目を向けると聖は軽く肩をすくめてみせた。
「いやね……オレを見張っているのかと思ってさ」
「どういう意味ですか?」
征士の目つきが鋭くなる。
「そう睨むなって。お前がそういう目をするからこっちはそうかも知れないと思っただけなんだから」
「そういう目とは何ですか」
「分かってるくせにはぐらかすな。お前、結構オレのこと嫌ってるだろ」
少しも堪えてなさそうな顔で、それでも決して冗談ぽくもなく、聖は真面目にそう言った。
一瞬言葉に詰まった征士は、それでも視線を逸らすことなく、聖の顔を正面から見返す。遠くで微かに聞こえていたはずの崎谷達の声がすーっと遠くなって、なんだかこの空間に二人だけが存在しているような錯覚を覚えた。
「私は、はぐらかしてなどいません。それに私はまだよく知らない相手を嫌えるほど、先見の明もないつもりです」
「じゃ、被害妄想か。オレの勘も鈍ったものだ」
「…………」
聖は真正面から征士を見た。
「お前さ、今日ずっと見てたろ。オレのこと」
「………………」
「崎谷達のボートに乗っている時も、海岸に居た時も、ずっとオレのこと見てただろう。きっつい目して」
真っ直ぐに。瞬きさえせずに聖はそう征士に言った。征士の目に一瞬怯む様な戸惑いが走る。
「……私は、別に……」
「何? オレが姫に手を出すとでも思った?」
「なっっ!」
かあっと、征士の顔に朱が走った。
「って、そんな感じで見てたぞ。ずっと。そうだな、例えて言うなら、まるで姫を護る騎士のようだった」
「…………」
ゴクリと征士は唾を飲み込もうとしたが、口の中がカラカラに乾いていて、呑みこむべき唾がなく、苦しげに眉を寄せた。
「まあ、親友のことが気になるのは分かるが、伊達王子。入れ込む相手を間違えてないか。お前の役は姫を振る役なんだぞ。そこんところ分かってるのかねぇ?」
ようやくほんの少し聖の口調が冗談めかしたものに変化した。征士は聖から目をそらし、海の彼方に沈む夕陽に目を向ける。何だかとてもとても複雑な心境だった。
やがて、征士はポツリと言った。
「貴方は本当の人魚姫の王子を知らない」
「え?」
聖が首を傾げる。征士はまだ真っ直ぐに夕陽を見つめたまま、呟くように言葉を続けた。
「王子は姫を愛していた。確かにそれは恋愛感情ではなかったかも知れない。恋人に向けられる愛ではなかったかも知れない。だが、それでも王子は心から姫のことを愛していた。誰よりも倖せになって欲しいと。心からそう願って」
そう、心から願って。
夕陽を見つめる征士の横顔を眺めていた聖の表情がふっと和らいだ。
「まいったな……本当に……」
「え?」
くしゃりと前髪を掻き上げて、聖が苦笑を洩らす。
「もうちょっと自粛するか」
独り言のようにそう呟いて、聖は征士の方へ顔を向けた。
「安心しろ。さすがにオレも、崩壊するのを黙って待つほど酷い奴になるつもりはないから」
「………………」
征士が僅かに目を見開く。
「だから……約束するよ」
「約束……?」
「オレはお前達の姫を傷つけるようなことはしない。決して。約束する」
思わず怯むほど、聖の表情は真剣に見えた。
「……聖……さん……」
声が掠れる。
「誓って」
「…………」
「絶対に傷つけたりしない」
「…………」
「傷つけたりしない」
聖の目は真っ直ぐで、とても透き通って見えた。それが何だか悔しくて、征士はすっと視線を逸らして俯いた。
ようやく征士の耳に周囲のざわめきが戻ってきた。
波の音が一際高く聞こえた。

 

――――――その日、5人で囲んだ夕食の席は、いつもより少しだけ静かに感じた。
1日中撮影をしていたということもあり、さすがに遼も伸も疲れが顔に見えている。気を利かせて片づけは秀が率先して行ってくれたが、それでも律儀に伸もキッチンへ顔を出した。
「おし、これで終了」
最後の皿を洗い終わり、秀がタオルで手を拭いた。
「ごめんね、当番では僕だったのに、すっかり手伝ってもらっちゃって」
「気にすんなって。んじゃ、オレ、見たいテレビがあるから行くな」
「うん。さんきゅ」
パタパタと廊下を去っていく秀を見送り、伸はふうっと息を吐いてキッチンの椅子に座り込んだ。背もたれに体重をかけて天井を見上げる。何だか身体より心が疲れているような気がした。
「……伸? ちょっといいか?」
「……え?」
振り返ると、キッチンの入り口に立って征士が伺うように顔を覗かせていた。
「何……?」
「あ、いやちょっと珈琲を飲もうかと」
「ああ、じゃあ煎れてあげるよ」
にっこり笑って立ち上がると、伸は慣れた動作で冷蔵庫から珈琲豆を取り出した。
「すまない」
「いいって。ちょうど僕も飲みたいなあと思ってたところだし」
「では、もう一つ我が侭を言っていいか?」
「…………?」
珈琲メーカーに豆を入れようとした伸の手が止まった。
「あ、違う。当麻が、食後の珈琲を飲みたがっていたので、出来れば3人分……」
「ああ、そういうこと。了解。じゃあ、ついでに遼と秀の分も作っちゃおう。飲むよね、二人とも」
「そうだな。遼は今、今日撮った写真の現像の為、暗室に籠もっているが、秀はテレビを見ているだけなので飲むだろう」
「じゃ、遼の分はあとで飲めるように保温しておこう。うん」
独り言ともとれるような言い方で呟きながら、きっちり5人分、伸は豆の量を計った。
「伸……」
「ん?」
豆を入れ、水をセットし電源を入れる一連の動作を止めず、伸は声だけで征士に注意を向けた。
「何?」
「その珈琲、出来れば当麻の所へ」
「ああ、持って行くよ。僕が」
あっさりと伸が征士の言葉を引き継いで答えた。征士はまっすぐに伸を見る。
「本当に?」
「もちろんだよ。どうして?」
「……良かった」
独り言のように呟き、征士がほっと息を吐いた。初めて動作を止めて伸が征士の方へと顔を向けた。
伸と征士の視線が合う。
「伸……」
再び、呟くように征士が言った。
「……伸……これは独り言だ。いいか。ただの独り言だからな」
「…………」
伸は無言のまま、じっと征士を見つめ返す。
「本当は、こんなことを考えてはいけないのだろうが……」
「…………」
「私は、あの人が……軽蔑できるような人だったらよかったのにと思っている」
僅かに伸の目が見開かれた。
「……そうしたら……せめてくだらない人間だったら、 どうしようもないほどくだらない人間だったら、蔑んで軽蔑して、そして力尽くでも止めるのに」
俯いて、征士は悔しそうに唇を噛んだ。伸は一つ息を吐き、くしゃりと表情を歪ませる。
「征士。君がそんなふうに人を嫌うなんてあり得ない。出来もしないことを言うんじゃないよ」
「伸……」
「それに、大丈夫。あの人は僕のこと人魚姫だとしか思ってない」
征士が大きく瞬きをした。
「本当だよ。何たってあの人、初めて会った時の挨拶で人のこと素材扱いしたんだから。あの人にとっての僕は毛利伸じゃない。ただの人魚。今回の作品を成功させるための素材。それ以上でもそれ以下でもない」
「…………」
「本当だってば」
その時、珈琲が出来あがったピーという電子音がキッチンの中に響いた。
伸は、すっと後ろを向き、4つのマグカップに珈琲を注ぐと、2つを征士へと手渡し、2つをお盆に乗せた。
「じゃ、これ当麻の所に、持っていくね」
そう言った伸の笑顔が何だか泣きそうな顔に見え、征士は結局、伸がそのまま書斎へ向かうのを黙って見送った。

 

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