マーメイド−人魚姫の恋−(14)

トントン。
静かなノックの音の後、答える声を聞かないまま伸は当然のように書斎に顔を出した。迎える当麻もそのまま振り返りもせず手だけで挨拶を返す。
「いつもサンキュー、伸」
「声出してないのによく僕だって分かるね、君は」
トンっとデスクの上に珈琲を置きながら、伸は呆れた口調で当麻を見下ろした。
「んなもの気配で分かるって」
にやっと笑って伸を見上げた当麻は、次の瞬間おやっと首を傾げた。
「あれ? カップが二つ?」
入ってきた伸の気配は感じ取れたものの、持っているカップの数までは分からなかったらしい。
「うん。ちょっと多く作っちゃったから、僕もご相伴に預かろうと思って」
言いながら伸は、ソファに深々と腰を埋めた。やはり家の中では此処のソファが一番座り心地がいい。当麻が悩み抜いて選んだだけあるというものだ。伸は満足そうに足を投げ出し、コクリと珈琲を飲んだ。
当麻はそんな伸を見てデスクに置かれた珈琲を取りあげ、椅子から立ち上がると、ストンと伸の隣に座った。
「あれ? 作業は? 途中じゃなかったの?」
デスクにはまだ電源が入ったままのパソコンが煌々と明かりを灯している。当麻は、別に急ぎの作業じゃないからと言って伸の方に身体をすり寄せてきた。
「だってせっかくお前が来てくれたのに、あんな味気ないことしてられないって」
「あのね……」
言い返しながらも伸は僅かにふわりと微笑んだ。
「どうだった? 撮影」
珈琲を飲みながら当麻が聞いてくる。伸はそうだね、と中空を見つめたまま小さく頷いた。
「うん……疲れた……かな」
「でもずっと海の中にいたんだろ? それでなんで疲れるんだよ」
キョトンとして当麻が聞く。まったく、当麻といい他の皆といい、本気で人を人間扱いしてないのか。
伸は少し拗ねた顔で当麻を見上げた。
「あのね。人を海洋生物みたいに言わないでくれる? 僕はれっきとした陸上の生き物なの。いくら水の中が好きだって言ってもさすがにずっと海の中だと疲れるよ」
「そうなのか?」
「そうなの」
「じゃあ、オレの側で疲れを癒してくれ」
言うが早いか、当麻の手が伸の肩に回される。
「と……当麻!?」
そのまま引き寄せられて伸は倒れ込むように当麻の胸にもたれ込んだ。
「ちょ……ちょっと……」
「ほら体重預けていいから。疲れたんだろ」
「……急に引っ張るなよ。珈琲がこぼれたらどうするんだ」
「んなドジしねえだろ、お前は」
ニッと笑いながら当麻の手がトントンと伸の肩を軽く叩く。ふうっと息を吐き、伸は身体の力を抜いた。そして、当麻の胸にもたれたままコクリと珈琲を飲む。何だかとても甘い。
「明日は? まだ撮影あるのか?」
伸の肩に手を回したまま当麻が聞く。
「明日はお休み。そう毎日はないよ。何か明日は今日取ったフィルムを編集して次回の撮り分を検討するんだって」
「ふーん。そっか……」
その時、ブンっと小さな音がして、パソコン画面がスクリーンセイバーに切り替わった。
ああ、海に降る星だ。
伸は当麻の腕の中からぼんやりと海に降る満天の星を見つめた。
海に降る無数の星達。胸が痛くなるほど愛おしい世界。静かな時間。暖かな空気。
此処の空気が好きだ。優しくて暖かくて、ほっとする。この空間が好きだ。
本当に、本当に好きだ。
それなのに。
「ごめんね、当麻」
「何が?」
「……色々」
「色々って何だよ」
「色々だから色々だよ」
「……変な奴」
耳元で当麻の声がする。暖かくて響きのある深い声。聖の声とは正反対の。
そう思うと何だか泣きそうになった。
ふと当麻の胸に額をこすりつける。
やっぱり泣きそうになった。
「……伸」
「……ん?」
「好きだよ」
ガバッと当麻の腕を逃れて伸が顔をあげた。
「なっ……何、突然」
「いいじゃんか。言いたくなったんだから」
「バカか君は」
にこりと笑って当麻は伸を見つめていた。

 

――――――海で撮った写真の現像を終え、ようやく遼が暗室代わりの部屋から出てくると、すかさず征士が居間から声をかけてきた。先程伸がいれておいた珈琲はまだ保温状態のままのはずである。よければ飲んでくれとの言葉に遼は有り難く感謝の意を示し、マグカップに珈琲を注いで征士や秀がいる居間に顔をだした。
「おう、お疲れ〜。良い出来だったか? 写真」
秀がソファから身を乗り出して聞いてきた。
「ああ、結構良いの撮れてるよ。聖さんが撮ったのも何枚かあるし」
「聖さんの分も現像したのか?」
「え?」
征士がやけに驚いて座っていたソファから腰を浮かせた。征士がそういうふうに話に乗ってくるのは意外なことなので、遼は珈琲を手に持ったまま、どうしたのだろうと居間の入り口で足を止めた。
「え……あ、ああ。基本的にはそれぞれ自分達のカメラで撮ったんだけど、水中用のとかは貸して貰ったり色々してたし、見本にって言ってオレのカメラ使って貰ったりもしたから」
「そうか……あの、遼」
「ん?」
「その……」
「征士が今日撮った写真見たいってさ。オレも見てみたいんだけど暗室行ってもいいか?」
遠慮がちに言葉を濁す征士をみかねてか、横から秀が口を挟んできた。征士も多少バツが悪そうだったが素直に秀の言うとおりだと言って遼に頭を下げる。
「いいぜ」
にっこり笑って遼は征士と秀を暗室へと連れて行った。
普段、遼以外のものは暗室へは足を踏み入れない。部屋の掃除も遼が自分でするからというので、伸でさえ入ったことはほとんどない部屋だ。
初めて入る暗室に、秀はへえと感嘆の声をあげた。
部屋の中央に置かれた大型のテーブルに所狭しと並んでいる現像液の瓶。パット。天井には無数のロープが張り巡らされていて、今は現像液から出したばかりの写真達がクリップで留められ、干し物状態になっている。
「お、いたいた。伸だな、これ……って、うわぁぁ……」
美しい人魚の姿を捉えた写真を指差し、秀があんぐりと口をあけた。
「すげぇ、マジ綺麗だ……」
白い肌。しなやかでバネのある体つき、光線の具合で人魚の鱗が見事に煌めいて見えるのがまた幻想的で、秀はしばらくの間じーっと写真の中の人魚姫を見つめ続けていた。
「いやぁ、綺麗だろうとは思ってたけど、ここまでとは……」
「生で見たらもっと綺麗だよ」
秀の後ろから自分が撮った写真を一緒に見て遼が言った。
「オレの腕じゃ、これが限界。本当はもっともっと綺麗だった」
「……遼……?」
「すごく綺麗だったよ」
くるりと振り返り、秀がポンポンと遼の肩を慰めるように叩いた。
「何しんみりしてんだよ。オレは他の誰よりお前が撮る伸の写真が一番綺麗だと思うぜ」
「遼、これは?」
ちょっと離れて別の写真を見ていた征士が一枚の写真を指差して遼を振り返った。
「これもお前が撮ったものか?」
「どれ?」
征士の所まで行き、指された写真を見た遼の表情が一瞬強ばった。
「あ、違う。それは聖さんが……」
「え? どれどれ? ……!?」
覗き込んだ秀が絶句した。
「…………」
岩場の上に座る人魚姫。
言葉が出なかった。本当に。
それほどに綺麗で儚くて。
そこにいるのは、本当に紛れもない人魚に見えた。
「……なんだよ……これ……」
ゴクリと秀が唾を飲み込んだ。
「……遼」
じっと写真を見据えたまま征士がぽつりと聞いた。
「教えて欲しい。人の写真を撮る時、お前は相手を素材だと思って撮ったりするのか?」
「え?」
征士の質問に遼は驚いて目を丸くした。
「素材って? そうだな……まあ、対象が無機質な物だったりしたら、素材って言い方するかもしれないけど、対象が人だったり動物だったり、生きてるものだったりしたら、オレはあんまりそういう言葉は使わない……かな」
考え込む口調で遼は答えた。
確かに普通、相手が人間の場合は特に、被写体と呼ぶのが一般的だろう。
「ファインダーに映ったものは、人も動物も植物も景色もみんな大切なものだから……だから、これはオレの考えだけど、素材だって思って撮ったら、その人の想いが撮れないような気がする」
撮りたいのは外見の形ではなく、内面。内に込めた想い。それは愛おしさだったり優しさだったり切なさだったり。
「では、この写真は? 相手を素材だと思って撮れるような写真か?」
「いや。違う」
征士が指差した聖の撮った写真を見て遼は何の躊躇もなく答えた。
「お前、すげえ即答したな、今」
秀が半ば呆れて、半ば感心したようにつぶやいた。遼は苦笑しながらそっと干してあった写真をクリップから外し、手にとって眺める。
「だって即答するよ」
「…………」
「オレじゃなくても即答する。誰に聞いてもそうだろう。だって、これ……」
「…………」
「すごい写真だ。本当に。現像液の中から画が浮かび上がって来た時、鳥肌がたった。こんなの撮るんだ、あの人はって、本気で背筋がそそけだった。こんなの、本気で想ってなきゃ撮れるわけない」
「本気で……って、それ……」
真っ直ぐに。瞬きすることすら勿体ないと思っているほど、じっと微動だにせず、あの時、聖は伸を見つめていた。どれだけ見ていれば、どれだけ想っていれば、こんな瞬間をフィルムに収められるんだろう。
写真の腕だとか、センスだとか、そんなもの何の意味も持たないと思えるほど、これは。
この写真は。
「……こんなに対象物を愛してる写真、オレは初めて見たよ」
はっきりと遼はそう言った。

 

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