マーメイド−人魚姫の恋−(6)

実際問題、プールの鍵のスペアを借りれたということは、これから伸は自由な時間に勝手にプールに来ることが出来るようになったということなのだ。といっても学校の開門閉門時間はあるので、結局は皆が学校に来るより少し早めに来てみたり、少し遅い時間まで一人で残ったり、という程度ではあるのだろうが。
ただ、時間に束縛されないというのは、気分的にはとても楽だった。
たった25mの長さしかないプールは、海に比べるとかなりの閉塞感がある。でも、やはり地上にいるより楽に呼吸ができるような気がしてくるのは、何故だろう。
「……って、これじゃ本当の本当に人魚だって」
苦笑しながら伸はトプンっと音をさせて水に潜り、次いで勢いをつけて水面に飛び上がってみた。
水飛沫が飛び散る。キラキラ光っている。やっぱり綺麗だなあと、伸は心の中で呟いた。
「あ、やっぱりここにいたんだ。伸ー!!」
ひとしきり水と戯れていた伸の元に遼がやってきたのは、太陽が真上にきた昼。
プールサイドの入り口から元気に手を振って駆け寄ってきた遼に伸は大きく手を振り返した。そして、その遼の後ろに続いて走ってくるもう一人の少年の姿をみつけ、更に笑みをこぼす。
「秀! 来たんだ」
「おう、人魚姫の調子はどうだ? 」
満面の笑顔で秀はプールサイドから水の中にいる伸に声を掛けた。
「前々から遼に頼んでおいたんだ。この日には見学してみてえってさ。んで、連れてきてもらった」
「この日って?」
「衣装合わせの日だよ」
遼が笑顔で伸にそう告げる。
そう。今日は人魚姫だけでなく、他の人物達の衣装も完成を迎えたということで、一同揃っての衣装合わせをする日であったのだ。
「そっか……征士の王子姿を見てみたいって、秀言ってたもんね」
伸は笑いながらプールサイドに手をかけ、よっと声をかけると水際にあがってきた。そして器用に身体を反転させて手すりの横に腰掛けると、足を縛っていたビニールの縄をほどきにかかる。
「あれ? お前……足」
「これ? ああ、そうそういつも衣装の尾ひれつけて練習は出来ないからね。汚しちゃ大変だし。ってことで、代用品」
はらりと縄をほどき終え、伸はそれをまとめて腰に巻いたベルト代わりのひもに引っかけて慣れた仕草で立ち上がった。秀は感心したようにほうっと息を吐き、伸の後ろに広がる光る水の波を見つめる。
「やっぱ、人魚姫って難しいんだ?」
「まあね。普段の泳ぎとは使う筋肉が微妙に違ってたりもするし。でも、随分と慣れてきたよ」
最初の頃、家のソファでぐったりしていた頃に比べるとかなり余裕の笑顔に見える。なんだかんだ言って、ちゃんとこなせるように練習するところ、伸は真面目だなあと、秀は感心して頷いた。
「ますます完成が楽しみってやつだな。なっ、遼」
「ああ。今日衣装が完成したら、間もなく本格的な撮影期間にはいるんだし、今からオレもワクワクしてるよ」
「そうそう衣装と言えば、これからの衣装合わせって、お前も着るの?」
実は伸の人魚姫姿も見てみたかったのだと秀が期待に目を輝かせて身を乗り出してきたので、伸は苦笑しながら、その身体を引き戻した。
「あのね、秀。残念だけど僕の分はいちおうこの前完成して具合も見てるから今日はパス。あ、でも本来の人魚姫である海野さんは今日合わせるはずだよ。征士とのバランス見たいって言ってたし」
本来の人魚はまどかなのだから、全員のバランスをみるのには、伸は必要ない。秀は少々残念そうにそっかぁと呟いた。伸は、水に濡れた身体を軽くタオルで拭き、遼が持ってきてくれたシャツを羽織ると、じゃあ、行こうかと言って、まだ残念そうにしている秀を促して歩き出した。
伸自身は衣装合わせには不参加だが、一応全員集合との指令は飛んでいたので、伸もこれから衣装合わせの会場となる裁縫部の部室へ向かわなくてはならなかったのだ。まだ少し集合時間には早いが、構わないだろうと、伸は遼と目を合わせ、念のためプールの施錠をして、校舎へと向かった。

 

――――――3人が裁縫部の部室前にくると、黒山の人だかりが出来ていた。
「何? この人数……?」
どう見てもスタッフでも関係者でもない奴らまで押し掛けてきている気がするのは気のせいではない。これは俗に言う野次馬連中だろうか。伸は呆れたように思わず廊下の端で立ち止まった。
そうなのだ。崎谷がかなりあちこちに協力要請の声をかけて回った為か、今回の企画はほとんど学校全体が知ることとなっていたのだ。伸の隣で遼がくすりと笑う。
「みんな期待してるんだよ。伸や征士に」
「……征士はともかく僕はスタント専門なんだから関係ないよ」
「あるある。大あり」
そう言って、ふと遼は伸を見つめた。
「だってマジで綺麗だもんな。伸の泳ぐ姿。誰かに見せるのが勿体ないくらい……」
一瞬、秀がえっという顔をして遼を見た。
「なんてね。冗談。早くちゃんと海で撮影してみたいよ」
そう言って遼はにこっと伸に笑顔を見せ、そのまま視線を巡らせると人混みの中から一際目立つ黄金色の髪をみつけ、そこに向かって大きく手を振った。
「あ……征士だ。征士ー!」
遼の声に反応して征士がこちらを振り返る。
「遼!」
すでに王子の衣装に着替え終え、野次馬連中に取り囲まれていた征士は、救世主が来たとばかりに、人混みをかき分け歩き出した。
「伸も来たんだな。そういえばそろそろ集合時……あ……」
征士の言葉が途切れる。
伸の隣で小さく手を振っている秀の姿を見つけたのだ。一瞬征士の頬に朱が走った。
「よう、征士」
「しゅ……秀も来ていたのか? 来るなら来ると言ってくれれば……」
「ああ、前々から遼には頼んでおいたんだけどさ。一回見てみたくて」
「……別に見せるような代物ではないぞ」
僅かに頬を上気させ、照れた口調で言いながら征士は秀の元に駆け寄って来た。
王子の衣装を身にまとった征士は、思った通りとても綺麗であった。
白を基調とした軍服ふうの衣装。肩に付いた飾りも金ではなく銀を主体としていて、それがやけに征士の白い肌と鮮やかな黄金色の髪に映えている。裁縫部のセンスもなかなかのものだと、3人は同時に思った。
「征士、すっげえ似合ってるな」
遼が無邪気に笑いかける。隣で伸もうんうんと同意を示して頷いた。
「ほら、秀も何か言ってやれよ。それとも見惚れて声も出ないのか?」
大きな目を真ん丸に見開いてじっと征士を見つめている秀に遼がからかい口調で声をかける。秀はハッとしたように瞬きをし、にっこりと征士を見た。
「いや〜マジでビックリ。やっぱめちゃくちゃ似合うじゃんか。王子様」
「……秀!」
未だに王子という呼ばれ方に慣れていない征士は、更に赤くなって秀の言葉を制止しようとした。と、その襟元で何かがチカリと光るのが見え、秀の表情が一瞬固まった。
「……征士、それ」
「……え?」
光の正体。それは征士の服の襟元につけられた薄紫の綺麗な石だった。薄紫の大きな石と、それを囲むように装飾されたやはり銀色の台座。その石の飾りを指差して秀が戸惑ったようにつぶやいた。
「それって……宝石?」
「え? ああ、これか。これはアメジストというのだそうだ。別名紫水晶とも言う。私の瞳の色に映えるだろうと言って、衣装係の方が用意してくれたのだ」
「紫水晶……? 征士の瞳の色に映えるって……?」
「ああ」
薄紫の綺麗な飾り。まるでスミレの花が咲いたような透き通った紫色。綺麗な綺麗な薄紫の。
「…………」
「……秀? どうかしたのか? あ……に…似合わないだろうか? これ」
「え? い、いや、んなことねえよ。すっげえ似合ってる。綺麗だよ」
慌ててそう言って秀はにこりと笑った。
「そうか? ならいいが……」
「おーい、王子! 早く来てくれ。姫とのバランス見たいから何枚かポラ撮るぞ!」
廊下の向こうから征士を呼ぶ声が聞こえた。どうやら他の出演者達もそろそろ支度を終えだしているようだ。
「あ、ほら、呼んでるぞ。行けよ」
秀が軽く征士の背中を押した。
「あ……ああ」
「頑張れよ」
にっこり笑って秀は征士に手を振る。ほんの少し未練を残しながら、それでも征士は背を向けて、教室の中へと戻っていった。
「僕達も行かなきゃ。秀も来るだろう? 見学しに」
「……いや、いいや。オレこのまま帰るわ」
「え?」
秀の言葉に、走り出そうとしていた伸は思わず足を止めた。
「秀、来ないの?」
「ああ、征士の王子姿も見れたし、目的は達成したから。これ以上部外者が邪魔するのも悪いだろう」
「部外者って、別に見学くらい……」
「いや、もう充分すぎるくらい堪能したから。それにオレ、これからちょっとバスケ部に顔出さなきゃいけないからさ」
「あ、そうなんだ」
相変わらず、夏休みでも秀は各運動部に引っ張りだこらしい。
「じゃあ、お前も頑張れよ」
そう言って秀はくるりと踵を返す。しかしそのまま走り出そうとはせず、思い出したように足を止めると、伸に向かって呟いた。
「あ、そうだ。あのさ、伸……当麻に言っておいてくれねえか」
「え? 何を?」
「やっぱ、お前はすげえって。お前の言うとおりだって」
意味が分からず、伸は小首をかしげる。それはそうだろう。征士や遼への伝言ならともかく、今此処にいない当麻に対し、何故自分が秀に伝言を頼まれる必要があるのだろうか。
「じゃ、オレ、行くわ」
「ちょ……ちょっと、秀?」
伸が止めるのも聞かず、秀はそのままタタッと走り出した。
「……へんな奴」
秀が走り去った廊下を見つめ、伸は小さく肩をすくめる。
「……あれ? 秀は来ないのか?」
一旦教室に入っていた遼が、なかなか入ってこない伸達を気にして、顔を覗かせる。
「あ、うん。なんかこれからバスケ部の集まりがあるんだって」
「相変わらず忙しい奴だな」
「ホントだね」
遼に促されて、伸もようやく衣装合わせを始めている裁縫部の部室である教室へと入っていった。

 

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