マーメイド−人魚姫の恋−(5)

顔合わせを兼ねたミーティングがあってからの数日間。崎谷達と聖は、撮影用の機材の準備や、海やホテルでのロケの手はずにと忙しく動き回っていた。
初めは崎谷の頭の中にだけあったのであろう計画は、この数日色々な人達の手で、どんどん整えられていき、形を成していく。
伸も、忙しそうな彼等の姿を見かねて何か手伝えることはないかと口を出したのだが、聖が「姫は泳ぎの特訓だけしてろ」と言ってきたので、伸だけは大人しく学校のプールへ通う日々が続いていた。しかも都合のいいことにちょうど水泳部が夏期合宿に入っているため、今プールはほとんど映研、つまり伸の貸し切り状態となっていたのも、泳ぎ練習を優先できた理由の一つであった。
伸の泳ぎの練習には、たまに遼が付き合ってくれた。征士は本格的な撮影開始までは剣道部の活動を優先しなければいけないと言って、道場へ行っている。なんとか無理矢理承知させた手前、崎谷達もその辺りは大目に見てくれたようだ。ただ、剣道部内でも今回の征士の王子姿には皆興味深々なようで、毎日何かしら、からかいのネタにされてしまっているみたいで、それが征士にとって不満と言えば不満なようだった。
「ふー……」
身体をほぐし、ひと泳ぎ終えて、伸はひとりプールの水の中からぼんやりと校庭を眺めていた。
ほんの1週間前までは、まさか自分達がこんな事に巻き込まれるなんて思ってもみなかったのに。
正直言っていまだに信じられない感じがするというのが伸の本音である。ただ、ここのところ毎日がとても充実しているのも事実であり、本当に一生懸命な崎谷達の足を引っ張ることだけはしないようにしなければと、伸も素直にそう思っていた。
毎日の練習の成果も出て、初日の筋肉痛も今ではすっかり治まっている。以前ほど足を使わない泳ぎにも慣れてきた。あとは実際の波の上でも同じように動けるかどうかと言うところだろうか。
「よう、人魚姫。ちゃんと練習してるか?」
「ひ…聖さん?」
初日の日以来ずっとプールには顔を出していなかったはずの聖の突然の登場に、伸は一瞬身を固くして振り返った。
「あ……お久しぶりです」
ぺこりと頭を下げ、伸はプールの中央からプールサイドまで泳ごうと、ゆらりと水の中で方向を変えた。すると真ん丸な水の輪が伸を中心に広がっていく。その滑らかな動きに、聖は満足そうな笑みを浮かべた。
「うん。調子は万全みたいだな。お姫様。それならもうちょっと複雑な動きも要求してみようかな……あ、筋肉痛とかないよな? 姫」
この間、あれだけ無理難題を押しつけつつ何時間も特訓(といって良いのだろうか?)をさせておいて、更にこれ以上何をやれというのだ。
「おかげさまで」
皮肉な口調でそう言い返す伸に、聖はくすりと口の中だけで笑った。
「それなら結構」
「で、今日は何ですか? その荷物は?」
伸の問いに、聖はそうそうと頷きながら、小脇に抱えていたケースをトンと下に置いた。
「ちょっとあがって来いよ。人魚姫。衣装の最終版が完成したんだ」
「最終版?」
「そう。あと、絵コンテも多少変わったんで、ちょっと目を通して欲しいんで持ってきた。最終的には実際に泳いでもらって検討するから参考程度なんだが、一応な」
そう言いながら、聖は脇に置いた衣装ケースの中から、例の桜色の人魚姫の衣装を取り出した。
試作版を実際に水の中で着てみてから、更に改良を重ねたという人魚姫の衣装。一見しただけでは違いはよく分からなかったが、細かく見ると、ドレープの方向だとか、中に仕込んだワイヤーの曲げ具合だとかがどうも微妙に違っているらしい。
「……なんか人魚姫の衣装、しかも海の中バージョンだけやけに力はいってませんか?」
本当に、ここまで凝る必要があるのだろうかと思うほど、人魚姫の衣装は見事だった。これを自分が着て、しかも姫として泳ぐなんて、やはり信じられない。
「何言ってんだ、姫。今回の作品の何を見せたいかって言うと、他の奴らはともかく、オレは海の中の人魚姫の美しさを一番表現したいと思ってるんだぞ。だったら、そこに心血注ぐのは当たり前って」
飄々と答える聖に、伸は大袈裟に肩を落としてみせた。
「そんな心血注ぐほど必死なんだったら、やっぱり姫は女の子選んだ方がよかったんじゃないですか?」
「……どうして?」
「どうしてって、そりゃ……だって……」
真顔で聞き返してくる聖に、伸は思わず返す言葉に詰まってしまい俯いた。濡れた伸の髪の毛から水の雫がポタリと落ちる。そんな伸の様子をじっと見ていた聖は、突然すっと地面に膝をつき手を伸ばすと、伸の頬に手を添え、そのまま顎に指をかけて上を向かせた。
「…………!?」
ふっと聖が笑う。間近で見る聖はやけに優しげな目をしていた。
「大丈夫。最高の姫にしてやるから」
少し掠れたハスキーボイス。
一瞬伸の心臓が飛び上がるほど大きく鼓動を打った。
そうか。囁くような声になった時、この人は独特のハスキーボイスになるのだ。
かあっと頬が赤く染まっていくような気がして伸は慌てて聖の手から逃れると、ポチャンと水の中に顔を沈めた。
「おい! 姫?」
聖が驚いて水面に身を乗り出す。
「どうした?」
「あ、あのですね……さっきから姫、姫って言ってますけど……僕は男だし、そういうのって海野さんに要求したほうが正しい在り方じゃないのかと……その……思うんですけど……」
珍しくしどろもどろになって、伸は焦ったように言葉を返した。聖はなんだそんなことかと言いたげにくすりと笑みを浮かべ小さく肩をすくめてみせる。
「確かにあっちの姫も良いけど、海の中の人魚姫はお前だろ。オレは海に住む人魚が見たいんだ。今回の話を受けたのも、題材が人魚姫だったからなんだし」
「……人魚姫……だったから?」
胸がズキンと軋んだ。
「そう。会いたかったんだよ。人魚姫に」
「…………え?」
真っ直ぐに、聖は伸を見てそう言った。
会いたかった。
聖ははっきりとそう言ったのだ。
水の中で、伸は瞬きすることも忘れたようにじっと聖の端正な顔を見つめる。
会いたかった。その言葉の意味はどう受け止めればいいのだろう。
「…………どうして……?」
思わずつぶやく。
どうして。
どうして人魚なのか。
どうして。
人魚に会いたかった等と言うのだろうか。
そのまま固まったように動かない伸を見て、聖がくすりと笑った。
「じゃあ、新しい衣装の調子見たいからあがって来いよ……って、ああ、そっか。その格好じゃあがってこれないよな。ほら、つかまって……」
「……え?」
ちゃんとした衣装ではないとはいえ、足の動きを封じるために尾ひれだけ付けていた伸は、足を踏ん張ることが出来ないので一人でうまくプールサイドからあがって来られない。そのことを思い出し、聖はさっと手を伸ばすと水の中の伸の腕を掴み、そのまま伸の身体を引き寄せ水の中から引き上げた。
「え……ちょ……ちょっと」
そして、聖は水から引き上げた伸の身体の脇の下と、鱗で覆われた尾ひれの下に腕を差し込み、持ち上げた。あの細身の身体の何処にこんな力があるのかと不思議に思うほど、聖は何の躊躇もなく軽々と伸を抱き上げたのだ。
「ひ……聖さんっ!?」
抱き上げられた伸の髪や身体から水滴が滴り落ち、聖のシャツを濡らす。でも、聖はそんなこと気にもせず伸を抱きかかえたまま、立ち上がった。
「あの……聖さん! 濡れますってば、ちょっと……」
もがくように腕を突っぱねる伸を軽く睨んで、聖が言った。
「抵抗するなって。そんな尾ひれつけてたら、歩けないだろう。暴れると落ちるぞ」
言いながら、聖は伸がそれ以上暴れないようにと、抱く力を強めた。聖の力強い腕に、思わず伸の動きが止まる。
「そうそう、そういう態度でいればいいんだよ。お姫様は」
「…………」
ドキリと心臓が鳴った。頬が火照る。
すっかり濡れてしまった聖のシャツをギュッと握りしめ、伸は顔を伏せ、俯いた。

 

――――――ピシャンっと伸の足元で水面が弾けた。そして輪を描いて水滴が飛び、水の表面に模様を描く。
「……人魚姫……か……」
低く呟いてみる。
暮れかけた夕陽を背に伸は大きくため息をついた。
「どうかしてる……よね……」
新しい衣装の点検をし、コンテを見ながらの打ち合わせを終えると、聖はそのままさっさと帰って行った。
オレが見ていなくても練習しておけよ。と言い残して。
それなのに、何だか気分が乗らなくて、結局その後、伸は水の中には入らなかった。プールサイドで、足だけ水につけてゆらゆらと揺れる水面を眺め続ける。まるで、そうでもしていなければ平静さを保っていられないかのように。
どうしてなのだろう。ため息が止まらない。
聖の声を聞く度、どうしてあんなに心臓が跳ね上がるような感覚になるのだろう。
頬の火照りが治まらないのだろう。
どうして、あのことを。あの時のことを思い出してしまうのだろう。
あんな事、忘れたと思っていた。実際、忘れていたはずだった。だって、あれは、通りすがりの、ただの事故のようなもので。そりゃ自分にとっては初だったけど、きっとあの人にとってはそうではなかったのだろうし。
「って、何考えてんだよ、僕は」
思わず唇に指をはわせて、伸は呟いた。
本当に、何を考えてるんだろう。だいたい、あれは聖ではない。そんなことはあり得ないはずなのに。なのに。心の何処かで自分は期待しているのだろうか。
「……って、何を?」
何を、期待している。何を考えてる。
なんだか放っておいたら思考がどんどん別方向へ向かっていくような気がする。やはり自分は今、何処か冷静さを欠いているのだろうか。
「……おーい、毛利。そろそろ閉めるぞ」
「え? あ、ごめん」
振り返ると、プールの入り口から崎谷が中を伺うように顔を出していた。
「練習熱心なのもいいけど、たいがいにしておけよ」
「あ、違う違う。ちょっと涼んでただけ。もう出るよ」
そう言って伸は立ち上がった。裸足の足にプールサイドのタイルが冷たくて気持ちいい。
昼間はあんなに暑いのに、日が陰ってくるととたんにひんやりしてくるんだな。
そばに置いておいたタオルを取り、伸はまだ入り口で待っていてくれている崎谷の元へと走り出した。
「あ、そうだ、毛利、これ渡しておくよ」
プールの入り口の施錠をし、並んで歩き出した伸に、崎谷が小さな銀色の鍵を手渡してきた。
「何? 鍵? 何処の?」
「此処の」
そう言って崎谷は後ろを振り返りプールを指差す。
「え? プール?」
「そう。なんか明日から先生、しばらく学校に出てこれないって言うんで、それじゃ、プールが使えないじゃんって怒ったら、それなら、管理は任せたって鍵のスペアを貸してくれたんだ」
「うそっ」
「マジマジ。この夏休み限定ってことでだけどな。ただ、何かあったら責任取らされるから注意はしておいてくれよ。一応オレも気にしておくけど、プールの使用頻度が一番高いのはお前だろうから、お前が持ってたほうが便利だと思って。渡しておくわ」
「つまり、鍵を僕に渡しておくから、勝手に毎日練習しろってこと?」
「い、いや〜まあ、その、何だな。お前が練習熱心なことにはホント感動してるんだぜ、オレ」
「はいはい……お褒めにあずかり恐悦至極」
呆れ口調で言いつつ、伸は手渡された鍵を手の中にギュッと握り込んだ。考えてみれば、これである意味好きな時にプールに忍び込めるわけだ。あの頃のように。
「…………」
ちょっと待て。だから何を考えているんだ。自分は。
思わず立ち止まった伸につられて足を止め、崎谷が不思議そうに伸を見た。
「何? どうした?」
「……ねえ、崎谷」
手の中で鍵をもてあそびながら伸が呟くように聞いた。
「ん?」
崎谷が微かに首を傾げる仕草をする。
「どうして、僕なの?」
「え?」
「どうして、僕が人魚姫なの?」
「………………」
何もかもが。何もかもが、この人魚姫に端を発している。
どうして、今更。このおとぎ話の主人公は自分を惑わせるのだろう。
題材が人魚姫でなかったら。やってきたのが聖でなかったら。そうしたらきっと何も考えないで過ごせていたのだろうに。
それなのに。
「それは、お前が本物の人魚だからだよ」
「……え?」
「って、これは聖さんの受け売りだけど」
目を丸くした伸に崎谷は軽く肩をすくめてみせた。
「もちろん、オレもお前を見ててイメージ湧いたからってのが最大の理由なんだけどさ。聖さんも毛利の人魚をすっげえ気に入ってるみたいだし。本物の人魚だって。また会えて嬉しいってさ。言ってたよ」
「………………」
伸が僅かに目を見開く。
今、崎谷は何と言った。聞き違いでなければ。聞き違いでなければ。
「崎谷……今、またって言った……?」
声が震えないよう、最大限の注意をする。
「聖さんが言ったの? また…って」
「え? ああ、うん。そう。もしかしたら聞き違いかもしれないんだけど、言ったよ。また会えたって。オレ、あの人の事だから、どっかに撮影旅行にでも行って、本物でも見たことあるのかと思っちまった」
「何言ってるの、人魚は架空の生き物だろ」
「ああ、そりゃそうだ」
くすっと笑い、崎谷は再び歩き出した。
伸の手の中で銀の鍵がチャリと小さな音を立てた。 

 

前へ  次へ