マーメイド−人魚姫の恋−(3)

やっぱり水の中は気持ちがいい。
嫌々ながら着替えたはずの人魚姫の衣装だったはずなのに、水の中でゆらゆらと揺れるその見事な動きに、もしかしたら自分自身が一番感動しているかもしれない。なんとなく楽しくなってきて、伸は必要以上に水の中でゆらゆらと腕を伸ばしては曲げ、また回してみたりを繰り返した。
「好い感じじゃん」
伸の動きを目で追いながら、嬉しそうに崎谷がほうっと息を漏らした。
チャプンっと水の中で腕を回すと、それを追うように手首に絡めたうす桃色の布が揺らめく。そして、ゆらりと水面が揺らぐ。時たまザッと音を立てるほど素早く水面から腕を伸ばして振り上げると、濡れた布地から水滴がほとばしるように周りに飛び散り、太陽の光を浴びて七色に光って見えた。
確かに綺麗だ。
これを撮りたいと思う気持ちも解るなあと、伸は表情を和ませてトンと水面を蹴るように潜ってみた。水際と違って中に潜ってみると、また布の動きが微妙に違ってくる。まるで生き物のように揺らめく、腕に絡ませた淡い桜色。これもまた違った感じで興味深い。
ただ、足を覆っている人魚の尾ひれはかなり泳ぎづらくて、腕の力をうまく利用しないと思うように進まないことだけが予想外だった。これはもしかして、かなり練習が必要かもしれないなあと考え、そこまできて伸は自分がこの企画に随分と協力的になってきているのかも知れないと自覚した。
絡みつくような水滴のベール。太陽の光が揺らめく水面。暖かな風と心地よい波。どうやっても切れない水という存在との関係。水の中でようやく自分自身を感じられるのは、やはり自分の中の水滸の意識が為せる技なのだろうか。
「おーい、毛利! ちょっとあがってこいよ」
崎谷の声に、伸は泳ぐのを止めて、水面に顔を出した。
「何?」
「聖さんが来たみたいだ。いちおう挨拶してくれないか?」
「聖さん? ああ、如月さんのお兄さん?」
今回の企画のアドバイザーをやってくれるという如月の兄、如月聖彦。彼はどうやら皆には聖さんと呼ばれているようだ。
「聖さん! こっちこっち」
崎谷が大声で手招きした方向に目を向けると、プールの入り口付近から遼に案内されてこちらに向かって歩いてくる長身の男の姿が見えた。
あれが噂の如月聖彦か。伸は聖の姿をよく見ようと水の中で背伸びをした。
少し痩せすぎと言えなくもないスラリとした細身の男。遼より頭一つ分高いということはかなりの長身のようだ。肩にかかるくらいの少し長めの柔らかそうな髪は、色を抜いているのだろうか、やけに明るい色をしていて、遼の黒髪とは対照的に映って見えた。でも軟派な感じがしないのは、きっと視線の鋭さの所為だろう。全体的には柔らかな輪郭の顔立ちの中で目だけがやけに印象的で、その切れ長の瞳は綺麗な二重瞼だった。
あまり聖香と似ているとは思えないが、整った顔立ちという点では、この兄妹は二人ともかなり見栄えが良いと言って過言ではないだろう。
「おっ、あれが例の人魚姫?」
伸の姿を見つけて、聖は隣の遼に確認をすると、そのままプールに向かって駆けだした。走るフォームも軽快で、運動神経の良さを伺わせる。伸は何故か聖から目を逸らせず、釘付けになったようにじっと動かずに聖の姿を凝視していた。
「初めまして、お姫様」
笑顔を見せて手を差し出した聖から、突然伸は逃れるようにすーっとプールの中央へと退いた。ただ、視線は相変わらず聖を捉えたままだ。
「…………?」
「おい、毛利?」
「え……あ、ごめん」
自分の行動の意味が自分で解らず、伸ははっとして表情を変え、慌てて再びプールの縁へと戻ってきた。
「何やってんだよ、毛利」
「す、すいません。えと……初めまして」
「お前……人魚姫……?」
「……え?」
思わず顔をあげ、伸が大きく瞬きをした。
「……あの……」
「そうなんですよ、聖さん。好い感じでしょう?」
二人の間に割って入って崎谷が嬉しそうに言った。聖はじっと伸を見つめたまま二度ほど瞬きをすると、再び伸へ笑顔を向けた。
「初めまして。如月聖彦と言います。皆は聖って呼んでるんで、それで構わない」
「あ……はい……」
何故かドキンと心臓が波打った。
人魚姫。そう呟いた聖の声が、耳の中にこだまする。
少し掠れたハスキーボイス。あの時聞いたのと同じ。
そこまで考えて、伸は気持ちを振り払うように力一杯首を振った。あり得ない。そんなこと。いくらなんでもそんな偶然はあり得るはずがない。だって、あの人は。
「どうかしたのか? 伸」
何故か動揺している伸の様子に、聖の隣にいた遼が心配そうに身を乗り出してきた。
伸は気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸をし、なんでもないと遼に笑顔を向ける。すると、目の端に映った聖の表情も遼と一緒にふわりと和んだ。
「うん。確かに好い感じだ。崎谷君。良い素材を見つけたな。本当に」
「でしょう」
「素材って……人を物みたいに」
思わずふくれっ面をした伸を見て、聖が声を挙げて笑った。
なんだ。やっぱり思い違いだ。
伸はほっと安心したように息を吐いた。
楽しそうに笑う聖の声は少しも掠れていなかった。ハスキーボイスでもない。あの時聞いた声とは似ても似つかない、朗らかで明るい、よく通る笑い声だ。
安心した。
「…………」
伸の表情が固まる。
何故。何故自分は安心しているのだろう。戸惑ったように、伸はまだ笑い続けている聖の顔を見上げた。
何だろう。この感情は。安心して、そして、何故同時にがっかりしているのだろう。自分は。
「…………伸?」
何故、自分はこんなにがっかりしているのだろう。
「伸? どうした?」
「なんでもないよ、遼」
そう。何でもないのだ。何でもあるわけがない。
伸は、大きく息を吐き、遼の手を借りると、水の中からプールサイドにと身体を持ち上げた。
水面から出ると、水の中にいた時より少しだけ息苦しいような気がした。
これではまるで本物の人魚姫じゃないか。
伸は誰にも気付かれないようにと、苦笑した。

 

――――――聖が姿を見せたことで、役者とスタッフ一同がようやく全員そろった。
プールの隣にある水泳部部室を仮のミーティングルームとして集合した皆は、部長の崎谷を中心に顔合わせと紹介、これからの撮影スケジュールについて話し合った。
「海での撮影は、あまり時間をかけられないから、集中して行いたいんだ。で、一番大変なのは嵐の場面になるんだけど、光線の具合から見て、明け方に出来れば撮りたい。夜中だと別途ライトの仕込みが必要になるんで、さすがにそれは資金的に難しいかなと思って。夕方だとちょうど逆光になるんで、それも不可。ということで、嵐の場面は前日夜から泊まり込み。朝日の昇る少し前に撮影を開始する。大丈夫か? 王子と姫さん」
「……その呼び方はやめてください」
伸の隣に座っていた征士が眉間にしわを寄せながら崎谷に向かってそう答えた。室内に小さく笑いが広がる。
「まあまあ、いいじゃんか。だって伊達って名前、呼びにくいんだよ」
にっこり笑って崎谷は征士の不満を軽く受け流し、話を続ける。
「いちおう目星つけてる海岸の近くにユースホステルがあるんだ。よく臨海学校とかでいろんな学校が使用してるらしい。ユースだから結構安くで泊まれそうだし、撮影が2日に渡る可能性もあるんで、先に外泊大丈夫かみんなに確認しておきたいんだけどさ。一番肝心なお二人さんに最初に確認しときたい」
「あ、それなら自分も伸も大丈夫です」
そう言って征士は、そのまま泊まり込みや早朝撮影に関して、二人ともまったく問題ないということを告げた。崎谷がほっと胸をなで下ろすと同時に崎谷の隣に座っていた聖がそうかそうかと頷き、その後、ふと不思議そうに首を傾げた。
「二人とも協力的でいいねえ。でもなんで姫の事情まで王子が答えられるわけ?」
「……え……」
もっともな疑問である。
そういえば、聖は初対面なので自分達の事情は何も知らなかったのだと、征士は聖に説明不足の謝罪を兼ねて、現在自分と伸は同居していることを説明した。つまり二人とも今は親元にいるわけでもなく、そういった規制は一切ないので、数日家を空けることも問題ないということだ。
「同居ねえ……じゃあ、地元は此処じゃないんだ。二人とも」
「はい。私は仙台出身で、伸は山口の萩に実家があります」
「……萩?」
聞き返した聖の表情が見たくて、伸は思わず聖の方へと顔を向けた。だが、聖は少しの表情の変化も見せず、話の続きを再開するよう促しつつ、口を開いた。
「じゃあ、最大の問題である2人のキャストの確保はOKとして、本来の姫様、まどかちゃんだっけ? さすがに女の子に男共と一緒に泊まりを強制するわけにはいかないんじゃないか? ということはまどかちゃんだけ日帰りで昼間のみ合流ってことになるのか?」
「そうなんですよね……それが問題なんです。まあ、アップショットだけなんで、昼間の撮影でもなんとかなるっちゃぁ何とかなるんですけど、光線の具合もあるし、出来れば同じ時間帯に撮りたいってのが本音ですけど」
他の場面なら、いざ知らず、嵐の場面に関しては出演する女子はまどかだけだ。だが、さすがに男だらけの中、女の子一人の外泊を許可する親はいないだろう。
「あ、じゃあ私も参加していい? だったら女子二人で部屋も取れるし、親御さんも心配しないんじゃないかしら?」
聖香が名案だというように手を挙げて意見を言った。
「なるほどね。それは名案……っていうか、それ、単にお前が見に来たいだけだろう?」
「酷ーい! そういう言い方ないじゃない、兄さん!」
軽口を叩きながら、順調に話し合いは進行していく。伸はぼんやりと話を聞きながら、微かにため息をつき、目を閉じた。
「海での撮影ってのは実はオレ達も初めての経験なので、泊まりの前にも、リハ兼ねて何回か海岸へは足を運ぶことになると思う。交通費とか色々迷惑かけるけど、協力よろしく」
頬を紅潮させながら説明を続ける崎谷の声が聞こえる。
「そうそう、海中撮影用に聖さんから私用のカメラを提供していただけることになったんで、御礼を言っておいてくれよ」
「そんな大仰に御礼なんかいいよ。それよりもやるからには良いものを作ろう。オレも出来る限りのことはするつもりだから」
「よろしくお願いします」
崎谷の説明に答える聖の声。相づちを打つ声。適度なアドバイス。時には穏やかに、時には冗談めかして。聖の声は伸の所に届いてくる。
目を閉じ、伸は微かな記憶の中のイメージを辿った。
違う。やはり違う。
いや、違うと言うほどに自分はあの時の声を記憶などしていない。記憶などしていないのだ。
それが悔しい。なんだかとてもとても悔しい。
悔しくて、寂しくて。
いや、違う。
あれはただの思い出で。今更思い出しても詮無いことで。
そんなことをあれこれ考えていること自体、おかしいことなわけで。
自分はいったいどうしてしまったのだろう。
何故。
何故、こんなにまで気になるんだろう。
自分は、何を、どうあって欲しいと思っているのだろう。
「……利……毛利!」
「……え?」
大声で名前を呼ばれて、伸ははっと目を開けた。
「お前、話し合いの最中に寝るなよ」
顔をあげると崎谷が不満そうな顔をして伸を睨んでいた。横を見ると、遼と征士も心配そうな顔をして伸を見つめている。伸はごめんと小さくつぶやき、ふと聖へと目を向けた。
聖は伸の視線には気付かなかったようで、穏やかな目を壇上の崎谷の方に向けている。
『……人魚姫』
なんだか、寂しい。
あの声を、あのささやきを、もう一度聴きたいと思っていることに、伸は今、ようやく気付いた。

 

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