マーメイド−人魚姫の恋−(2)

「で、承知したわけか? 夏休み丸々、映研の活動に協力するって?」
「いや……その、それは、成り行き上というか……」
しどろもどろの伸の言い訳に、当麻はソファに突っ伏して頭を抱え、秀はその隣で大口を開けて笑っていた。
「いや〜、まさか伸がそういうの承知するとは思わなかったぜ。オレ」
笑いを堪えもせずに秀がそう言いながら身を乗り出すと、伸は罰が悪そうに口をへの字に曲げて肩をすくめた。
「なんというか、ちょっとぼうっとした隙をつかれたっていうか。ついつい勢いで頷いたら、後戻り出来なくなっちゃって……」
「ぼうっとって、何を考えていたんだ?」
「いや、別にたいしたことじゃ……」
言いながら伸の頭に再び声が聞こえる。
人魚姫……と。
『……マジで人魚かと思った』
そうなのだ。あの声に、あの言葉に惑わされた。
少し掠れたハスキーボイス。もうすっかり忘れていたと思っていた出来事だったのに。それなのに、あんな台詞一つでドキッとしてしまうなんて。
つまり、自分はちっとも忘れてなどいなかったってことなのだ。あのことを。
小さく息を吐き、当麻の視線を避けるように目をそらすと、伸は壁際で腕を組んで難しい顔をしている征士の方に目を向けた。
「っていうか、僕のことより、征士はどうなんだよ。僕は征士が承知したって聞いたから、後戻り出来なくなったんだよ」
「え? そうなのか? 征士」
秀がさすがに意外そうに目を丸くする。
「そうだよ。さすがに僕も勢いに押されて頷いちゃった部分もあったものだから、慌てて訂正しようとしたらさ、カーテンの向こうから映研部員の子が飛び込んで来て、「伊達が承知した!」って。おかげで、言い訳するチャンス逃したんだよ、僕は。なんで承知したの? 征士」
「私は承知などしていない」
ムッとした顔で征士はそう答えてきた。
「え? だって……」
「私はお前が承知したと聞いたから、渋々納得しただけだ」
苦々しげに征士はそう吐き捨てた。
「私は断ろうと思っていたのだ。そうしたら、お前が引き受けたという報告が入ってきた。ここで私が拒否したら、お前まで考えを変えて非協力的になりかねない。お前の協力は絶対に必要なものだから、その為にも何とか私も協力してくれと、私は脅されたのだ」
「脅し?」
「あれは脅し以外の何物でもない。だいたい上級生にあんな言われ方をされて、断れる下級生がいたら教えてもらいたいものだ」
高校時代の1年というのは、こういうとき不思議なほどの威力を発揮するものだ。恐らく、年齢を盾に無理矢理説得されたのだろう征士は、憮然とした表情で伸を睨み付けた。
「だいたい何故私が王子の格好などしなくてはいけないんだ。他にも適役は居るだろうに」
「いや、それはお前が一番適役」
反射的にそう即答した当麻に、征士と伸の視線が集中する。
非難を含めた2つの視線を受け、当麻は呆れたように唇の端をあげた。
「だいたい、相手が承知したからお前もやれよ、なんて、下手な刑事ドラマの常套手段じゃねえか。犯行グループを別々に尋問して、あいつは吐いたんだから、お前も本当のこと話せ、とか何とか。ああいうの良く見るだろ? だから、それに引っかかるお前らが馬鹿なだけ」
「当麻!」
慌てて遼が当麻の言葉を止めに入る。言ってることは正しくても、こんなところでふたりの神経逆撫でしたら、収まるものも収まらなくなる。
「あんま、そういうこと言うなよ、当麻。それに征士も伸もきっとやってみたら楽しいんじゃないか? 高校時代のいい思い出になると思うぜ。オレも協力することになってるから一緒に居られるし」
「え? 遼も参加するの? この企画」
伸が目を丸くして聞くと、秀もへぇ〜と身を乗り出した。
「何? お前は何役なんだ?」
「違う違う、オレは役者じゃない。スタッフ側だよ。ほら、オレ、いちおう写真やってるからスチール撮りとか協力するんだ」
遼は慌てて大きく手を振って秀の質問を否定した。
「あと、うちの部の如月さんのお兄さんがアドバイザーとして全面協力してくれることになったから、それの補助とか」
「如月の兄貴が?」
今度は当麻が驚いて目を丸くする。
「あいつの兄貴って、大学生だろ? しかもうちの映研のOBでも何でもないじゃねえか」
「そりゃそうなんだけど、あの人って、聖(ひじり)ってネームで色々写真展にも参加してるし、コンクールにも入賞とかしてて、映研でも話題の人だったらしいんだ。映像と写真っていうと別ジャンルに思えるかも知れないけど、あれも同じ芸術の括りでいれれば同じなんだって。それで、如月さんに話を持ちかけてみたら、二つ返事でOKもらったって、すごく喜んでた。オレもちょうどいい機会だから色々勉強させてもらおうと思ってるし」
如月聖香の兄。如月聖彦。
彼の撮った「雪柳」の写真を遼がいたく気に入っていたのは伸も知っている。
「オレも企画書とかちょっと読ませてもらったんだけど、好い感じじゃないか。衣装デザインも派手すぎなくて征士に似合いそうだと思ったし。人魚姫もなかなか。オレ、伸が泳いでる所撮りたいしさ。いい話だと思ったよ」
「…………」
「やっぱり伸は海の中に居るのが一番絵になるし、オレも見たい。写真に残してみたい。すっげえ良いチャンスだと思ったんだ。オレ、絶対綺麗に撮るからさ。伸も征士も」
「……遼……」
「な、だからやろうぜ。二人とも」
「……なんかそういうの聞いたら、本当にもう後戻り出来ない気がしてきた」
「…………」
伸の言葉に征士も無言で肩をすくめる。
なんだかんだ言いながら、遼の言葉に弱いのはお互いの弱点なのかも知れない。
二人は知らずお互いの顔を見合わせて頷いた。

 

――――――伸と征士が参加協力を無理矢理取り付けられた翌日。伸は崎谷に呼び出されて学校のプールサイドにやってきた。
「じゃあ、まず練習がてらこれを着て泳いでみてくれよ」
「これって……?」
「人魚姫の衣装テスト版」
そう言って差し出された衣装は、とても綺麗なものであったが、いかにも泳ぎにくそうな代物だった。
淡い桜色といったらいいのだろうか、柔らかな布で裁断されたその衣装は、肩から胸にかけての細かなドレープが特徴的で、更に肘や手首にも動きにあわせて布が揺れるようにと、細かい装飾品が数多く取り付けてあった。
「単に布を巻き付けるだけだったら、水の中でペタッとしちまうだろ。だからちょっとワイヤーとか仕込んで、身体に布が張り付かないように設計してるんだってさ。裁縫部の奴らが言ってた。で、これでちゃんと水の中で綺麗に見えるか確認したいんでよろしく」
いかにも着づらそうな衣装。そして、人魚姫の尾ひれ。
「……これ、マジ?」
分かっていてもついつい聞き返したくなる。
「いや、マジマジ。大マジ。それとも何か? 胸に貝殻つけた簡素な衣装の方がよかった?」
「……それだけは勘弁」
昨日、いくらロングショットとはいえ、男が人魚姫のスタントをやるなんてすぐにばれてしまうだろう。と、最後の抵抗を試みた伸に、崎谷は衣装デザインのスケッチを見せ、これなら問題ないだろうと言って得意げに鼻を鳴らしたのだ。
身体のラインを強調しないよう、それでいて優美で繊細な衣装。自分が関わるのでなければ、単純に感心しただろう程に、それは見事なものだった。確かにこの衣装なら遠目では男も女も関係ないだろう。
「……にしてもさ、僕がこの衣装のスケッチみたのって昨日だよね。なんで1日で出来上がってるの?」
「んなもの、とっくの昔から製作開始してたからに決まってるじゃないか」
「じゃあ、サイズが僕用になってるのは?」
「お前がやるって決まってたからだろ」
「拒否権は?」
「あるわけない」
当然のように言い切って、崎谷はふふんと笑った。
そんな前から製作を始めてたということは、本気で、最初から、つまり試験終了後、映研の部室に向かった遙か前からこうなることは決定付けられていたということじゃないか。
伸は本気の本気で大きくため息をついた。
「オレもスケッチ見た時は、本当にこんなの出来るのかって半信半疑だったんだけど、さすがうちの裁縫部。もう大乗り気だっただけあるよな。イメージ通りのもの作ってきてくれたんだ。それもこれもお前に着て欲しいからだぜ」
「僕にじゃなくて、海野さんに、じゃないの? 本来の人魚姫はあっちだろ」
「あら、この衣装に限っては、彼女たちは毛利君に着て欲しかったんじゃないのかな?」
すぐ後ろで二人の会話を聞いていた海野まどかがすかさず会話に割り込んできた。
「衣装の打ち合わせに行った時、みんな言ってたわよ。早くあなたに着て欲しいって。だってこれ、私より毛利君が着る率の方が高いじゃない」
「それはそうだろうけど……」
「きっと似合うと思うな。私も早くみたいし」
「……全然嬉しくない」
にっこり笑うまどかを見て、伸は思わず天を仰いだ。
そうなのだ。つまりは海の中での撮影分は、ほとんど伸が担当することになるのだ。
もちろんアップショットは本来の人魚姫、海野まどかが演じることになるのだが、そういったショット以外、泳いでいる所、全身が映る場面は全部伸。まあ、確かに泳げないまどかに人魚姫の泳ぐシーンが撮れないのは当たり前のことなのだが。
今日、崎谷はコンテを見せながら言い切った。楽しげに泳いでいる最初の場面と、嵐の場面。つまり征士が演じる王子を助ける場面は、全部伸と征士の二人でやるのだということらしい。
「とにかく、水の中でどんなふうに見えるか早く確かめたいから、お前の分だけ先に作っておいたんだぞ。オレの計画を台無しにする気じゃないなら、今更グチグチ言わずにさっさと着替えてこい。あ、尾ひれつけると歩けなくなるんで、これだけは水際まで行ってからつければいいからな」
「分かってるよ。そんなことくらい」
諦めて衣装を手に取り、伸はやれやれと立ち上がった。
空は快晴。
唯一の救いと言えば、誰はばかることなく、ずっと水と戯れていられるということだけだろう。
海での撮影は本格的に撮りだしてからということなので、今日来ているのは学校のプールだが、それでも水の中で過ごすという事を考えれば、海へ行くのとさほどの違いはないだろう。
太陽の光を反射して揺れている水面を見ながら、伸は眩しげに目を細めた。
そう言えば、学校のプールで泳ぐのなんて何年ぶりだろうか。
いちおうこの学校にもプールがあるが、普段の授業に水泳の科目はない。従ってプールを使用しているのは、水泳部のみ。だから、考えてみると、伸もこの学校のプールに入るのはこれが初めてだったのだ。
ということは。
「あれ以来じゃないか……」
思わず声に出してつぶやきかけて、伸は慌てて口を押さえた。
「え? 何? 何か言ったか?」
「何でもない。更衣室行ってくるね」
崎谷の問いかけに何でもないと首を振り、伸は足早に更衣室へと走って行った。
ほんの少し、顔が火照る。
何でもないと自分自身に言い聞かせるように、伸はもう一度大きく首を振った。

 

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