マーメイド−人魚姫の恋−(1)

カリカリッとシャーペンが紙の上を走る音が段々と小さくなっていき、代わりに指が紙の上を滑る音に変わる。と、同時に教室のあちこちから小さな嘆息ともつかない微かな息が洩れる。
高校3年の1学期期末試験。この時の成績は、その後の進路にかなりの影響を与えるものだ。
伸は顎の下に指を置き、小さく爪を弾きながら、書き上げた答案用紙を目で追った。
とりあえずやれるだけのことはやった。小難しい二次関数の問題は先日当麻に協力してもらいながら解いた問題の応用だった。英語はあまり自信がないが、出来るだけ綴りのミスはしないよう、何度も見直した。一番安心して出来たのは国語。古文はまあまあの点数が取れるだろう。
とりあえず、今回の成績を元に、2学期初めには進路指導が始まる。と言うことは、本気で各大学の下調べも始めなくてはならない。
「……って、普通はもう始めてるっての……」
大学へ進むか、就職するか。それとも実家に戻るか。
1年前はそんなことをつらつら悩んでいた。というか、あの頃は、正直に言うと考えたくなかったのかも知れない。
この状態から脱しなくてはいけないという事実と向き合いたくなかったのかも知れない。自分は。
その理由は。
「家を出たからって、今生の別れとは違うんだ……」
と、何度も自分自身に言い聞かせてきた。征士や秀にはそのことについて話もした。
でも。
残りのふたりには言えずにいる。
つまりは、それが自分の弱さであり臆病さなのだろう。
ジリリリリリ……
「終了! 後ろから答案用紙集めてきて」
先生の声を合図に一斉に教室内で嘆きとも安堵ともとれる息があがった。
「みんな、とりあえずはお疲れさま。これで今期の試験は終了。このあとホームルームをして、待望の試験休みから夏休みに入りますが、羽目を外しすぎないよう高校最後の夏休みを堪能してください」
試験から解放された喜びからか、とたんに息が歓声に変わる。高校生っていうのは、本当に単純な生き物なのかも知れない。その証拠に、両隣のクラスからもざわめきが洩れ聞こえてきた。
色々悩んでいても、とりあえず試験は終了したのだ。
ほうっと息を吐き、伸も周りの皆と同様、シャーペンをケースにしまうと、うーんと両腕をあげて伸びをした。
「毛利、毛利」
伸が伸びをするのを待っていたかのように、突然、後ろの席から声がかかる。と、同時に伸ばした腕を捕まれ、伸は驚いて首を回し、後ろを振り返った。
「何?」
「あのさ、お前、このあと用事ある? ちょっと付き合って欲しいんだけど」
「へ? いいけど……何?」
何だろう。そう思いながら、伸が頷くと、声をかけてきた崎谷というクラスメートは嬉しそうに表情を緩ませた。
「ちょっと、頼みたいことがあるんだよ。お前を見込んで。よかったらホームルームが終わったら部室へ来てくれないか?」
「あ、うん。わかった」
詳しいことはあとで説明するからと言って両手を合わせて崎谷はお願いしますともう一度頭を下げた。この崎谷とは一学期間席が前後ろだったということもあって、伸もそれなりに仲良くさせてもらっていた。
部室へということは、部活動関係の頼み事なのだろうか。確か、崎谷の部活は映研だったか漫研だったか何かなはずだ。どんな頼まれ事なのか想像つかないなあと思いながら、伸はそのあと、約束通り崎谷と一緒に、崎谷の部室(映研だった)へと向かった。

 

――――――映像研究会。略して映研。そこは伸にとって未知の世界だった。
「よう、みんな居る? 毛利を連れて来たよ」
崎谷に引っ張られるように部室へと入った伸は、その場で一瞬足を止めた。
「あれ……せ……征士?」
「あ、伸?」
一足先に招集されたのか、征士が部室の中で所在無さ気に部屋の中を見回していたのだ。
「あ、伊達も来てたんだ。どう? 案配は?」
崎谷がそばにいた他の部員に耳打ちをする。聞かれた部員が崎谷に何かを答え、小さく首を振った。
「…………?」
何だろう。何なんだろう。
「分かった。じゃあ、そっちは任せた。あ、毛利、お前はこっちな」
カーテンで仕切られた向こう側の部屋へ来いと、崎谷が伸に向かって手を振った。
「あ、う…うん」
ちらりとお互い目を合わせながら、伸は征士の横をすり抜けると、カーテンの向こうで待っている崎谷の後を追った。ふたりまとめて呼んだのなら個別に話をする意味はなんだろう。別々の用事なのか。でも、自分と征士に映研が何の用事があるというのだ。
頭の中に次々と湧いてくる疑問を整理しながら、伸は勧められるままに崎谷の向かいのパイプ椅子に腰掛けた。
「で、何?」
「うん。まずはこれに目を通してくれるか。毛利」
崎谷が伸の目の前に何かの企画書のようなものを差し出した。
「本当、急に呼び出してごめんな。ちょっと人手が足りなくて協力を仰ぎたい案件があってさ」
「うん」
伸は、崎谷の手から企画書を受け取り、ぺらりとページをめくった。
「フィルムフェスティバル?」
その企画書の冒頭に書かれてあったのは、とあるフィルムフェスティバルの申込み要項だったのだ。
「これって……」
「うん。毎年秋に開催される映像コンクールなんだけどさ。高校生活最後の思い出に応募してみようかって話になってさ」
崎谷が企画書を指さしながら、伸に説明を始めた。
「題材とかコンテは結構早めに決定してたんだけど、キャスト選考がかなり難航してね。只今最後の一人を説得中。彼がOKしてくれたら、この夏休みを使って収録をしようと思ってるんだけど」
「……最後の一人って……まさか……」
とても嫌な予感。
「うん。今カーテンの向こうにいる人物」
「って、それ……征士!?」
それは無理だろう。どう考えても無茶だろう。征士が映像芝居を承諾するなんて考えられない。というか、それは人選にかなり無理があるのではないか。
「あの……それは、かなり……」
無茶なのではないだろうかと言いかけた伸の口を崎谷が手でふさぐ。
「あんまそういうこと大声で言うなよ。せっかく今交渉進めてるんだから」
眉根を寄せた崎谷の態度に、伸は慌てて済まなさそうに頭をさげた。
「あ、ごめん。でも、本当、それは無理だと思うよ。というか、なんで征士なの?」
「そりゃやっぱビジュアル重視とくれば、あいつが断然一番だろう?」
「あのね……いくらビジュアル重視って言っても、演技はどうするんだよ。台詞言えるの?」
「あ、そこんとこは大丈夫。台詞は一切ないんだ」
「……台詞がない?」
きょとんとした伸を可笑しそうに眺め、崎谷は再び説明を再開した。
「今回の作品は、映画っていうより、イメージ映像みたいな感じでいきたいと思ってるんだ。つまり台詞とか一切なくって、映像だけで見せるーみたいな」
「ふーん」
「イメージ的には、プロモーションビデオとかあるじゃん、歌の。ああいうのを想像してくれればOK。だから、台詞を言うっていう意味での演技力は必要なし。必要なのは存在感と表情。まあ、そういうのだったらこっち側で如何に上手く、良い表情を撮れるかといところに重点が置かれる。っていうことは、つまり……」
「黙って立ってても絵になる奴が欲しいってこと?」
「ご名答。さすが毛利。飲み込みが早い。んで、映像が様になるのが第一優先ってことで、演劇部に限らず探してみようって事になって」
なるほどね。
「で、誰がいいかってことを、先日一斉アンケートとってみたんだよ。全学年対象で」
「そんなの僕、知らないよ」
「当たり前だ。候補に挙がった奴相手にアンケートなんか取るか。取ったのは一般生徒相手」
伸の疑問に間髪を入れず答える崎谷。思わずそうなのかと頷きかけて、伸ははたと目を瞬いた。
ちょっと待て。今、崎谷は何と言った。候補に挙がった奴とかなんとか言ったのか。
ということは、つまり、何だ。自分も候補に挙がってたっていうことじゃないか。冗談じゃない。何を考えてるんだ、この学校の生徒は。思わず痛み出した頭を抱え、伸は大げさに嘆息をついた。
「で、つまり、 そのアンケートでダントツ一位だったのが征士ってこと?」
「そのとおり」
にっこり笑って崎谷が頷いた。と、同時に伸は大きく嘆息をつく。
「経緯は分かった。でもさ……」
「でさ、題材は『人魚姫』なんだけどさ」
「え……人魚姫……?」
崎谷の言葉に、企画書をめくる伸の手が止まった。
「人魚姫って、あの人魚姫? アンデルセン?」
伸が大きくひとつ瞬きをする。
「そうそう」
もう一度企画書に目を落とすと、確かにタイトルに『人魚姫の恋』という文字が書いてあった。
人魚姫。
その名前に反応して、心の中がざわりと音を立てた気がした。
「な、どうだ? いける気がしないか? 伊達の王子姿。お前だって似合うと思うだろう。立ってるだけで絵になる男なんてそうそういないぜ。あいつが出てくれればかなり良い線狙えるかもしれないんだ」
「…………」
「衣装とかは裁縫部が全面協力してくれることになったし、他にも色々声かけてんだけどさ」
「……って肝心の人魚姫役は?」
「ああ、それは、まどかに頼んだ」
「まどかって、海野……さん? B組の?」
海野まどか。確かに、彼女は美人でスタイルも抜群。人魚姫には打ってつけの美少女だ。しかも演劇部の部長でもあるので演技力も申し分ない。崎谷とは家が近所だとのことで、色々と懇意にしているらしく、以前にも文化祭か何かで上映した映研の短編映画に出演したことがあったはずだ。
「へえ……海野さんか。なるほど。あれ? でも彼女って確か……」
泳げないとか言ってなかったっけ。伸が目だけで疑問を投げかけると、崎谷は、そうなんだよとでも言いたげに、うんうんと頷いた。
「そう。お前も知っているとおり、あいつは超が付くほどのカナヅチだ」
「……って、じゃあ……」
カナヅチの人魚姫なんて聞いたことがない。いくらなんでもそれは無茶というものだ。
「そこで、お前の出番というわけなんだよ。毛利伸くん」
言いながら崎谷は両手でガシッと伸の肩を掴んだ。
「なあ、毛利。お前、じつはめちゃくちゃ泳ぎ上手いんだってな」
「…………はいぃ?」
伸の眉間にしわが寄った。
「地上での芝居はまどかに全面的に任せられるんだけど、海のシーンだけは無理じゃん。で、その部分だけ替え玉っつーか、スタントってのか、ぶっちゃけスーツアクター?」
いや、その例えは微妙に違う気が。
「そういうのを考えてだな。もちろんアップはまどかのを使うんだけど、泳いでる所のロングカットとか、王子を助ける海の場面とかさ。他の奴に頼もうと思って。で、やっぱ、人魚姫は泳ぎが上手くて綺麗じゃないといけないじゃないか」
「…………」
「美しく、華麗で優雅。海の申し子。それが人魚姫の必要条件」
「……だったら水泳部の女子に頼めば?」
伸の声はかなり不機嫌そうだ。だが、ここでひるんではいけないと、崎谷は伸の肩に置いた手に力を込めた。
「ほら、人魚姫の撮影って、お前も少しは話知ってたら分かると思うけど、嵐の場面とかあるじゃないか。女子にそんな危険なことさせられないだろ?」
「……僕ならいいってわけ?」
「いいも何もお前は溺れたりしないだろ?」
「……正直に断られたって言えば?」
「断られてなんかねえよ! だいたい水泳部に話なんか通してない。水泳部の奴らは泳ぎの速さだけが大事なのであって、華麗さとか優雅さとかとはほど遠い所にいっちまってるじゃないか!」
いや、いくら何でもその言い方は水泳部に失礼なんじゃ。
言いかけた伸の言葉を遮って崎谷は更に力強く力説した。
「オレはなあ、お前が良いと思ったから、お前の方が断然良いと思ったからお前に頼んでるんだ!!」
あまりの崎谷の迫力に押され、伸は思わず身を引いた。
「……ちょっと待ってよ。なんで水泳部の女子より僕がいいの?」
「んなの、お前の方が似合うって思ったからに決まってるじゃねえかっっ!」
「あ、いや、でも……だからって、何で僕が泳ぎ上手いとか思った……?」
「それは……噂で聞いたんだよ」
「噂って、何処で?」
この学校に来て水泳なんぞした覚えはないはずだ。なのに、何処からそういった噂が出るんだ。ついつい伸は小田原に来てからの自分の行動を頭の中で振り返ってみた。
「お前中学の時、一回水泳の地区大会ですげえ新記録作ったことがあるだろう」
「え……?」
ひどく真剣な目で崎谷は伸を見据えて言った。
「全国クラスでも滅多に出ない記録を出しておきながら、そのまま次の大会棄権しちまったから、幻の日本記録だって言われたって」
「………………」
そう言えばそんなこともあった。
あの時は、水泳部の一人が怪我で出場出来なくてピンチヒッターとして、無理矢理駆り出されたのだ。はなから代打のつもりだったし、全国大会になんか行きたくなかったから、1回だけって約束で出場したんだった。でも、まさか、その時のことを覚えてる人間が居たなんて。
「その時のお前、泳ぎの速さももちろんだったんだけど、そのフォームの美しさがすげえ評判で、まるで人魚姫のようだって賞賛されたって」
「……え?」
「話聞いて、オレもまさかって思ったんだけど、偶然その時の記録ビデオを水泳部の奴らが持ってて、見せてもらったんだよ」
「…………」
「マジびっくりした。本気で綺麗だなあって思ったんだ。だから……」
「……人魚姫……?」
「うん。マジで人魚かと思った」
「……え?」
人魚姫。
再び伸の心の片隅にその言葉が引っかかって止まった。
『……マジで人魚かと思った』
人魚姫。
一瞬、耳の奥に、懐かしいハスキーボイスが聞こえたような気がした。

 

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