マーメイド−人魚姫の恋−(28)

「これは……?」
「聖さんが、君に渡してくれって」
学校から戻り、書斎へ直行した伸は、聖から預かったDVDを当麻の目の前に差し出した。
伸の手の中のDVDをマジマジと見つめて、当麻は軽く息を吐く。
「これ、人魚姫?」
「うん。しかもこの世に3枚しか存在しない限定バージョン」
「…………?」
当麻が眉をひそめてソファに座ったまま伸を見上げた。
「崎谷がね。本番では海野さんに差し替えた箇所を、全部僕のまま差し替えなしで編集し直したやつだってさ。本当はあまり見せたくはないんだけど……」
「それはまた貴重品を」
伸の手からDVDを受け取り、当麻は、ケースを開けて白い盤面を取りだした。
「……観たくない?」
思ったほど食いつきが良くない当麻の態度に、伸は少しだけ戸惑った。
「あ、いや、観たくないとかじゃないよ」
「じゃあ……」
「すげえ観たいんだけど、オレ、きっと観たら観たで、かなり悔しがると思うぞ」
「悔しがる……?」
意味が分からず、伸が首を傾げる。当麻は苦笑して、取りだしたDVDを再びケースに戻した。
「だって、この中にいる人魚姫はオレのものじゃなく、如月聖彦のものだろう?」
「…………え?」
「お前の人魚は、あの男のものだ。あの男が想い描いて、恋い焦がれた人魚がそのまま形になったものだ。これを観たら、オレは嫌になるほどお前の人魚の中にあの男を感じるだろう。これが悔しくないわけない」
「…………当麻」
「まあ、これはオレの我が侭だけどな」
「当麻」
ゆっくりと当麻が顔をあげて伸を見つめた。
「君に聞いて欲しいことがある。いいかな?」
「…………」
当麻は無言で伸に続きを促した。
「僕ね。聖さんには、3年前に逢ってるんだ」
「…………え?」
伸はまっすぐに当麻を見下ろし、次いで小さく息を吐くと、ストンとソファの当麻の隣に腰を降ろした。
「いつだったっけ? 覚えてるかな。みんなでファーストキスの経験があるかないか、なんて話題になった時のこと」
「…………」
そりゃ覚えているさ。嫌ってくらい。当麻は無言で小さく頷いた。
「あの時、君に話したこと、覚えてる?」
「……夜の学校?」
「うん。さすがに記憶力はいいみたいだね」
「…………」
記憶力が悪くたって、あれを忘れる奴はいないだろう。当麻は身体をずらして、正面から伸を見据えた。
「3年前、奴と逢ったっていうのは、夜の学校? プールで? その時あいつはお前のことを人魚姫って呼んだのか?」
「そう。ご名答」
ようやくすべて繋がった気がした。人魚姫という言葉に敏感に反応をしていた伸の態度。終バスを乗り過ごす時間まで、学校に居たことの意味。雨の中の伸の言葉。
「…………」
「あの時は、名前も知らなかった。顔も良く見えなかった。でも、確かに聖さんだった」
「………………」
「僕にとっては初めてのことだったし、もちろん、それだけが理由ではないけど……」
すっと伸から視線を逸らして当麻は俯いた。苦しげに眉が寄せられる。
「ごめんね。当麻」
「…………」
「僕は、ちょっとだけ揺れた」
「…………」
「ごめんね」
「何でオレに謝るんだよ」
俯いたまま当麻がぽつりと言った。
「お前は、誰の所有物でもないんだから、オレに謝る必要なんか……」
「僕は君のものだよ」
「…………え?」
ゆっくり、ゆっくりと当麻は顔をあげて伸を見た。そして、そのまま微動だにしない。
まるで早く動くとその空気の流れで今の言葉が消えてしまうのではないかと心配しているようだ。
「今……なん……」
伸は真っ直ぐに当麻を見て、ふわりと微笑む。
「もちろん、君がいらないっていうなら話は別だけど……」
「伸!!」
「此処へ戻ってきていいんだよね。僕は」
「…………」
「此処が、僕の帰る場所だって思ってていいんだよね」
「……ぁ……」
「だったら、僕は君のものだ」
「……伸……」
「君のものだよ」
「…………」
おずおずと当麻の手が伸の頬に伸ばされ、触れた。
「本当に……?」
伸が微かに微笑んだ。いつもの柔らかな笑顔。
「本当に? 伸……」
繰り返し確かめるように当麻が呟いた。柔らかな笑顔のまま伸が頷く。
と、その時。
「伸! 今日の夕飯なんだけどさぁ〜」
呑気な声と共にノックなしで、勢いよく書斎の扉が開き、秀が駆け込んできた。
「市販のじゃなくて手製でタレ作るって……あ、もしかして今、マズかった?」
ソファに腰掛けて見つめ合った状態の2人を見て、秀の足が止まる。
「ううん、全然。大丈夫だよ、秀。今日の夕飯って、冷やし中華だよね。じゃあ、そろそろ仕込み始めようか」
伸はにっこりと笑ってソファから立ち上がった。
「当麻、ゴマと醤油とどっちが良い?」
「え……あ、えと、じゃあゴマ」
「了解」
立ち上がった伸は、そのままスタスタと書斎を出ていく。
「秀、手伝ってね」
「あ、ああ」
キッチンへと向かう伸を見送ってから、秀は当麻に向き直り、誤魔化すように頭を掻いた。
「いや〜なんか悪かったなあ、当麻」
「…………別に」
疲れたようにソファに身体を埋め、当麻が大きく息を吐き出した。
「どうせ、いつものことだよ」
「そっか? あ、でもさ、当麻。何か変わったろ?」
「……え?」
当麻がキョトンとして秀を見あげた。
「変わった? 何が?」
「う〜ん。何がっつーか、伸の態度?」
「…………?」
「余裕があるっていうか、慌ててないっていうか、照れてないっていうか。ほら、いつもだったら、あいつ、誰かに見られること、頑なに拒否するじゃんか。なのに……」
「…………」
「なんか、今、普通に倖せそうだった」
当麻の目がゆっくりと見開かれた。
「うん。すげえ倖せそうだった。なんか、ああいう伸っていいな」
「秀ーー、早くー!」
キッチンから伸の声がする。秀はおうっと答え、そのまま書斎を飛び出した。

 

――――――本日の夕食は冷やし中華と具だくさんのスープ。
長い夏休みの一大イベントともいえる企画が終了し、本来の凝り性の性格が戻ってきたのか、伸は、秀に手伝わせて、麺にかけるタレを自家製のものにした。
少しずつ調合を変え、それぞれの好みに合わせて作られたタレは絶品の出来であり、まさに伸の本領発揮というところだった。
「ここんところ手抜きが続いてたからね。ちょっと凝ってみたんだけど、味はどう?」
「めっちゃ美味いぜ、伸♪ お前、将来マジで店構えないのかよ」
あっというまに大盛りの冷やし中華を食べきり、秀が満足気に頷いた。
「店って? それはつまり君の中華飯店の隣で営業していいってことかな?」
「お前……オレの店潰す気満々だろう」
「そんなこと」
にっこり笑って伸が答える。秀の隣で征士がくすりと苦笑した。
久しぶりに皆で囲んだ食卓は何だか開放感に満ちあふれている。
「そう言えば、例のDVDは、今当麻が持ってるんだよな」
麺を口に含んだまま、突然、遼がにこりと笑って聞いてきた。
「なんだ? 例のDVDって?」
秀が首をかしげる。
「ああ、崎谷先輩が作った人魚姫の限定バージョンだよ。伸のオンリー版って言った方がいいかな? さっき聖さんから聞いてさ。当麻に預けたからみんなで観ればって言ってくれて……」
「限定バージョン!?」
「って遼!!」
伸が真っ赤になって立ち上がった。
「なんで君が……」
「伸の許可が取れたら、校内販売も視野に入れたいから一緒に観て説得してくれって頼まれたんだ」
「却下」
「そう言うと思った」
伸の反論を笑顔でかわし、遼は当麻に向けて両手を差し出した。
「まあ、校内販売はともかくとして、オレは観たい」
「オレも観たいぞ!」
便乗して秀も騒ぎ出す。征士も止める気は一向になさそうだ。
「では、食後は上映会だな」
伸のオンリー版なのであれば、逆に自分の出番は少ないだろうから、恥ずかしさもないだろうと言うのが、征士の考えだろう。
伸を除く全員に詰め寄られて、当麻は渋々と立ち上がった。
「一人で静かに観られるようにって、わざわざ伸に預けたんじゃないのかよ。あの男は……」
「最初はそうだったんだろうけど、やっぱり独り占めはよくないって思い直したんじゃないか?」
「何が独り占めだ。お前等は直に観てんだろうが。人魚姫を」
「それはスタッフの特権」
大威張りで胸を張る遼の姿に、当麻は諦めたように書斎へDVDを取りに向かった。
「…………本気で観るの? しかも皆で? しかもここで?」
無駄と知りつつ、伸が微かな抵抗を試みる。
しかし、秀はすでに空いたお皿を片づけだしており、征士と遼は、よく見えるようにと、テレビの前の位置にソファと椅子を動かしている。
見ている間にどんどん準備が整えられていく状況に、伸もようやく諦めたようにため息をついて、残りのお皿を片づけだした。
準備万端。
用意が調ったのを見計らったかのように、やがてDVDを持って廊下を歩いてくる当麻の足音が聞こえた。

FIN.     

2009.06・06 脱稿   

 

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