マーメイド−人魚姫の恋−(27)

この剣で。
この剣で目の前の王子の胸を刺せば、そして、その血を足にかければ、人魚に戻れる。
何もかもがもとに戻る。
ただ一突き。それだけで。
それだけで運命は変わる。

画面の中の人魚姫が微かに微笑んだ。それはとてもとても綺麗な笑みだった。
そして、その微笑みを残したまま、人魚姫は海へと歩き出す。
何も知らず眠る王子を残して。

人魚姫の身体が透明に変わっていく。
柔らかな泡の中へと消えていく。
遠い彼方を見つめる人魚姫の瞳は、透きとおっていて。
今までで一番美しかった。

一番美しかった。

 

――――――エンドロールが静かにスクロールしていき、画面にFIN.の文字が浮かんだ。
皆が大きな拍手を映研一同に捧げている間、伸はぼうっと白くなったスクリーンの画面を見つめ続けていた。
泡になった人魚姫。
原作そのままの、いやそれ以上に美しい映像がそこにあった。
彼女はきっと倖せだったのだ。
泡になった瞬間、彼女はきっと誰よりも倖せだったのだ。
なんとなく、そんなことを思った。
「倖せそうだったな。あの姫は」
伸の心を見透かしたように聖がそうつぶやいた。
「聖さん……?」
「あの姫は、王子の命を護れて倖せだったんだな。薄々感じてはいたけど、繋がるとよりはっきりと分かる。これが描きたくて、彼はこの企画を立てたんだ」
伸はもう一度、何も映していない白いスクリーンに目を向けた。
ああ、そうか。そうなのだ。
これが崎谷の考えた人魚姫の恋なのだ。
「そう……か。この作品の人魚の恋は、護る恋だったんですね」
ちらりと聖が伸を見た。
「人魚姫は死を掛けて愛しい人を護った。自身が犠牲になっても、愛する人の、王子の命を護りたい。それがこの人魚の恋だったんだ」
「死を掛けて……か。まさに劇的だな。姫にも、そんなふうに命を賭けても惜しくないっていう相手がいたりして」
そう言って聖はくすりと笑った。
伸は、ほんの一瞬、遼を見る。遼は伸達の少し前の席に座り、やはりじっと上映の終わったスクリーンを凝視していた。
「そう……ですね……いるかも」
「……え?」
「うん。いますよ。命をかけてもいい人が」
「…………」
聖は驚いたような、呆れたような目で、伸を見た。
「なんつーか、相変わらず姫は複雑怪奇な性格してるよな。まあ、そこが魅力なんだろうけど……」
「…………?」
何もかも見透かすようないつもの表情で聖はふっと笑った。そして、なんだか独り言のように低い声でポツリと呟いた。
「命をかけてもいい人……ね。つまりは相手を護るためなら、死をも厭わない……って事か」
「…………聖さん?」
「それってさ……つまり護った奴の目の前で、お前さんは死んでもいいって思ってるってことだよな」
「…………え……?」
一瞬、伸の表情が引き締まった。
「目の前でお前が死ぬ……か。その状況って、それがたとえどんな理由にせよ、オレは嬉しくはないかも」
「………………」
「……なんてな。この平和な世の中で、んなぶっそうな事あるわけないか……」
一瞬眩暈が襲ってきた。
軽い口調で話を終わらせようとした聖の声が、なんだかとても遠くに聞こえた。
「…………!」
伸は自分の額に手を当てる。
耳鳴りがした。
雨が降っていた。
身を切るように冷たい雨が。
あれは、いつの事だったろうか。
「…………!!」
ガタンと音を立てて、伸が椅子から立ち上がる。
「……あ……」
冷たい雨の中、剣を手に自分を見下ろしていた青年の瞳。
死にゆく自分を、息を引き取る最期の瞬間まで、じっと目を逸らさずに見つめ続けていた2つの瞳。
二度と見たくないその光景が目の前に広がった。
「……姫!? どうした!? 姫!?」
伸はそのまま口元を押さえ、床に蹲った。

 

――――――「少しは落ち着いたか?」
聖の心配そうな顔が、伸の目の前にあった。
「すいません」
「……ったく、脅かすなよ。心臓止まるかと思ったぞ。今度こそ」
「……すいません」
突然気分が悪くなったと言う伸を、聖は慌てて視聴覚室から連れ出した。そしてそのまま手近なドアから外の非常階段へと向かう。本当は保健室へ行こうと伸を促したのだが、当の伸が、外の空気に触れればすぐ回復するからと言って、大事になることを拒んだのだ。
鉄の階段はひんやりと冷たくて、伸はそこに腰を降ろすと、ゆっくりと息を吐き出した。
「大丈夫か? 貧血か? ってそんな持病持ってたっけ? お前さん」
「いえ、ちょっと……多分、全部終わって緊張してた糸が切れただけだと……思います」
「……嘘つけ」
怒ったように言って、すぐ聖は本気で済まなさそうな表情になった。
「悪かったな、姫」
「……え?」
突然の謝罪の言葉に思わず伸は顔をあげて聖を見上げた。
「本当に悪かった。すまない」
「……どうして聖さんが謝るんですか?」
「オレ、地雷踏んだろ?」
「…………」
「多分、オレはお前に言ってはいけないことを言った。そうなんだろう」
「そんなこと……」
ない。とは伸には言い切れなかった。
さっき。まるでフラッシュバックのように突然過去の記憶が流れ込んで来た。
思い出すといつも吐き気を覚える。消したくても消えてくれない記憶。
普段は忘れていられるのに、急に思い出してしまった。
引き金はおそらく聖の言葉。
伸は軽く頭を振った。
「……聖さんが謝ることはないです。貴方が言ったことは正しい」
「…………」
「誰だって、大切な人に目の前で死なれたくなんてない。絶対。だから、聖さんが謝ることは何もないです」
戸惑ったように聖が表情を曇らせた。そんな聖は初めて見たような気がする。
「それでもオレはお前に謝る。お前を傷つけたくはないから」
「…………」
「悪かった……」
そう呟いて、そっと聖は伸の身体を抱き寄せた。
なんだろう。妙に懐かしい感触がして、伸は聖の腕に身体を預けたまま目を閉じた。
「そうか……分かった……」
「……え?」
何が分かったのかと、聖が不審気に眉を寄せる。
「聖さん……似てるんだ」
「……似てる? ……誰に?」
「……えっと……と……当麻……に」
ちょっと違う。
正確に言えば、当麻ではなく、雫兄様にだ。
「似てる? オレと彼が?」
思ってもみなかったことを言われて、聖が目を丸くする。
伸はそんな聖を見あげてくすりと笑った。
一瞬のフラッシュバック。その表情に聖の顔が重なった。懐かしい兄様に聖の顔が重なった。
造形ではなく、心の形が重なった。
恋と呼ぶにはあまりにも淡すぎて。でも、確かにそれは其処にあって。
其処にあって。
決して自分の本心を語ろうとせず。ふわりとかわす。
望むものは見返りでも何でもなく、ただ、其処にいるということ。
まるでそれ以上望んだら罰でも受けるのではないかと思いこんでいるかのように、あの人は頑なだった。
なのにいつもいつも、どうしようもないほどの愛おしい光を携えて自分を見つめてくれた。
ただただ純粋に。自分の事を見守ってくれる姿に自分がどれだけ甘えていたか。
純粋に想う心。そんなところが、聖は兄と似ているのだ。きっと。
伸はふっと息を吐いて、聖を見上げた。
「聖さん」
「……?」
何、と聖が軽く首をかしげて伸を見た。伸はじっと聖を見上げたまま微かに、分からないほど微かに微笑んだ。
「聖さん。僕はもう夜のプールには行きません」
「…………」
「もう、二度と行きません」
「……どうして?」
ゆっくりと聖が聞き返す。
「行ったら探してしまうから。あなたを」
「…………」
「どうしようもないほど期待して。あなたの姿を探してしまうから。だから、もう行きません」
随分と長い間、聖はそう言った伸を見つめ、次いでフッと笑みをこぼした。
「そうか……分かった」
くしゃりと聖が伸の髪を掻き回した。伸はちょっとくすぐったそうに笑う。
もう心臓はドキリと鳴らなかった。
しばらく伸を見つめていた聖はもう一度くしゃりと伸の髪を掻き回し、立ち上がった。
「じゃあ、オレはそろそろ中に戻るよ。スタッフミーティングが始まってるはずだから」
「あ、はい」
「姫ももう少ししたら、帰ってゆっくり休め。こっちに来るよう伊達王子には伝えておくから」
「すいません」
「じゃあ、またな、姫」
「ええ」
扉へと向かいかけた聖がふいに足を止めて振り返った。
「そうだ、姫」
「何ですか?」
伸に向かって、聖は極上の笑みを見せた。
「ありがとうな」
「……え……?」
「倖せな時間をくれて、感謝している。有り難う」
「聖さん……」
「しばらくの間だったが、オレはとても倖せだったよ。お前にまた出逢えて」
そう言った聖の表情はとても優しくて。あまりに優しくて。
ふと、目頭が熱くなる。
聖は呆れたように肩をすくめて再び伸の元へ近寄ると、コンッと伸の額を小突いた。
「ほら、またそういう顔する。やめろって言ってるだろ」
「何ですか……そんな顔って」
「…………」
ふと言葉を途切れさせ、聖が伸の頬に手を添えた。そのまま顎に手を掛け上を向かせる。
「愛してたよ、伸」
「…………え……」
「それでも、本当に愛してたよ」
「…………」
「伸」
添えていた手を離し、聖はそのまま何もなかったかのようににこりと笑って背を向けた。
呼び止めることも出来ず、伸はただ黙ってその背を見送る。
伸。
名前を呼ばれて。初めて名前を呼ばれてようやく分かった。
あの人がどれだけ苦しかったのか。ようやく、それが分かった気がした。
伸は、もう姿の見えなくなった相手に向かって深々と頭を下げた。

 

前へ  次へ