マーメイド−人魚姫の恋−(25)

「はい、カット〜!! 終了!!」
嵐の場面の最終カットがようやく終了したとたん、海岸線から朝日が顔を出した。
「おわっ!? マジでギリギリ間一髪ってやつ?」
おどけて言う崎谷の顔が何だかとても満足気で、伸は砂浜に腰を降ろして人魚の尾ひれを脱ぎながらくすりと微笑んだ。
「さすが名監督。時間配分もばっちりってことかな?」
「上手いこと言うね〜。この主演女優は」
「僕はスタント。主演女優はあっち」
伸が指をさした先には、伸と同じ衣装を身につけたまどかが居た。
崎谷は眩しそうにまどかをみつめ、ニッと微笑むと、再び伸に視線を戻した。
「オレにとっては2人共が主演女優だよ。何たって、お前じゃなきゃ「人魚」は撮れなかったからな」
「またまた……」
謙遜するように肩をすくめた伸のもとへ、同じく撮影を終えた征士が駆け寄ってきた。
「伸!」
「あ、征士も撮影終了、お疲れさま」
「お疲れさま。それより伸、遼が出てきているぞ」
「え? ホント?」
さすがに早朝3時からの撮影に付き合わせるわけにはいかなかったので、遼はひとり部屋に残っていたのだ。
最後の最後まで一緒に行くと言い張った遼を無理矢理ベッドに寝かしつけてから、すでに2時間以上が経過している。恐らく撮影終了間際に、こっそり起き出してきたのだろう、遼も重い身体を引きずりながらも海岸まで出てきていたのだった。
「遼! 無茶しちゃ駄目だって言ったろう」
伸と征士が遼の元へ駆け寄ると、遼は許しを請うように両手を顔の前で合わせて伸に向かって頭を下げた。
「薬が効いてきたのか、熱もちょっと下がってきたから大丈夫だと思って……」
「本当に?」
疑わしげな表情で伸は遼の額に手を当てる。確かに少しだけとはいえ熱は下がってきているようだ。
「な?」
嬉しそうに遼が微笑む。
「……ったく、しょうがないな……」
小言を言いながらも伸の表情は穏やかだ。横目でちらりとそんな伸を見て、征士は安心したようにほっと息を吐いて視線を海へと向けた。
「あ……」
その時、海岸線から伸びた一筋の光が、まるで3人の姿を包むように照らしてきた。
夜明けの海。
「海の時間だ……」
征士がポツリと呟いた。
「海の時間? ってそれ……」
「そっか、征士が一番気に入ってた写真だ」
遼がふっと笑みをこぼした。
「なんか懐かしいな。萩で伸と一緒に見た、あの夜明けの海を思い出す」
しみじみと言って、遼は視線を海の彼方へと向けた。
海。
場所は違っていても、やはり此処も同じ海なのだ。
「やはり、海は綺麗だ」
「…………うん」
「とても綺麗だ」
じっくりと噛みしめるように征士はそう繰り返した。
しばらく、3人でじっと朝日の昇る海岸線を見つめていると、少し離れた場所で機材の点検をしていた崎谷がおもむろに立ち上がって大声を上げた。
「おーい! 毛利! ちょっといいかー?」
顔を向けると、砂浜の向こうから崎谷が大きく伸を手招きしているのが見えた。
「なんだろう……ちょっと行ってくるね」
「ああ、私達はもうしばらく此処にいるから」
「分かった」
じゃあ、すぐ戻るからと言って、伸は軽い足取りで砂浜を駆けだした。
「人魚が走ってる。なんか変」
そう言って遼がくすりと笑った。なんだか、今の今まで、伸が人間であったことを忘れていたみたいだ。
それほどに、伸は人魚だった。
「なぁ……征士」
伸の姿が小さくなって始めて、遼はその表情から笑顔を引っ込めた。
「オレ、人魚姫が泡になった気持ち、なんとなくわかる気がするんだ」
「え?」
海岸線から視線を戻し、征士がじっと遼を見つめた。
「姫はさ……泡になってでもいいから、ずっとずっと見守っていたかったんだよ。好きな人のことを」
「…………」
「自分を見てくれなくてもいい。触れられなくてもいい。そんなこと期待しないで、ただただ純粋に、見守っていたかったんだよ」
倖せに。
誰よりも誰よりも倖せに。
「きっと、そういう恋だったんだ。人魚姫の恋って……」
「そうか……そうだな……」
呟くようにそう答えて、征士は遼を見下ろした。やはりいつもより少しだけ顔色が悪いように見える。
「具合はどうだ? 大丈夫か?」
「ああ、大丈夫。それにちょっとくらい無理してでも出てきたかったんだ。だから、ほんの少しでも、この目で人魚姫を見られて良かった」
「遼、人魚の姿だったら、ちゃんとフィルムに収まっているはずだろう? 無理して余計体調を崩すよりは……」
「全然違うよ。征士」
遼が顔をあげて真っ直ぐに征士を見た。
「自分の目で直に見るのと、出来上がったフィルム見るのとでは、全然違う。オレは、オレの目で人魚姫を見たかったんだ。それくらいはいいだろ?」
「…………?」
「あの伸を当麻は見てない。伸が本物の人魚であった瞬間を当麻は見ていない。オレは、当麻が知らない伸を見られた。へへっちょっと得した気分」
そう言って少しだけ、遼は笑顔を作ったが、それは笑顔にはなっていなかった。
「征士……」
「何だ?」
「オレ、後悔してないから」
「…………」
「伸を好きになったこと、絶対後悔してないから……」
「知っている」
「…………」
「そんなこと、私は随分前から知っているぞ。遼」
コクリと小さく遼は頷いた。

 

――――――「どうしたんだ? 伸。帰りは明日じゃなかったっけ?」
海での撮影は2泊3日の予定だったはずなのに、出発翌日の午後、柳生邸に戻ってきた伸と遼を玄関口で迎えた秀は驚いて目を丸くした。
「うん、そのつもりだったんだけど、遼が体調崩しちゃって。で、今朝、嵐の場面を撮り終えた後、大急ぎで僕のカットだけ先に撮っちゃって2人で帰って来たんだ」
「え? 体調って……大丈夫なのか? 遼」
伸の後ろに立つ遼は、なんとか一人で立ってはいるものの、確かに顔色は相当悪く見える。
慌てて遼の身体を支えるように抱えて家へあげると、秀は心配そうに遼の額に手を当てた。
「朝方は少し下がってたんだけど、やっぱりバスに揺られてる間に熱があがっちゃったみたいなんだ。とりあえず二階で寝かせて、お粥か何か食べさせなきゃ」
「分かった。じゃあ遼、オレに寄りかかっていいから、歩けるか?」
「……ああ。悪い、秀」
「ほら、二階に行くぞ」
手際よく遼の身体を支えながら、秀は二階への階段を上りだした。
「あ、そうだ、伸。粥くらいならオレが作ってやるから、お前も休め。疲れた顔してるぞ」
階段の真ん中で少し足を止め、秀は伸に向かってそう言ってきた。伸も秀の申し出をありがたく受けて、そのあとの遼の世話を任せると、自分の部屋に戻り、楽なスエットに着替えてベッドに横になった。
身体は疲れている。その証拠に手足が泥のように重くて持ち上がらない。
でも、何故か目は冴えていた。
「…………」
しばらくどうしようか迷った末、伸はゆっくりと身体を起こし、部屋を出た。
そのまま階段を下り、書斎へ向かう。ノックもせずに静かに扉をあけると、中で当麻がその細長い身体をソファに投げ出して眠っているのが見えた。
「やっぱり……」
いくらマイペースが信条の当麻とはいえ、さすがに自分達が帰ってきたら気付いて出てくるだろうに、それがなかったということは、家にいないか、何処かで眠りこけているかしか考えられない。予想的中ということか。
小さくため息をついて、伸はそっと当麻が眠っているソファのそばに腰を降ろし、当麻の緩んだ頬を力一杯引っ張った。
「……!?」
「おはよ、当麻。良かったらその場所空けてくれる?」
にっこり笑ってそう言った伸を見て、当麻は状況を把握できず目を白黒させた。
「あれ? 伸? なんで?」
「ちょっと予定が変わってね。征士が帰ってくるのは明日だけど、僕と遼は先に帰ってきたんだ」
「変わった? 予定が? なんで? 遼は?」
伸の言葉をそのままリピートするしかないというのは、かなり当麻の頭が混乱しているという証拠だろう。或いはまだ寝起きの為、頭が活動を始めてないのか。
「遼は自分の部屋で寝てる。僕も休みたいんで、ちょっとそこ空けて」
押し出されるようにソファから当麻が身体を起こすと、伸は器用に空いた空間に身体を滑り込ませて、そのままソファの上に置いたクッションに頭を乗せた。
「部屋で寝てるって……遼、どうかしたのか? お前が先に帰ってくるのは分からなくもないが、あいつはスタッフだろう? 最後まで同行してなくちゃいけないんじゃないのか?」
ようやく少し頭がはっきりしてきたのか、当麻は伸の寝るスペースを空ける為、ソファから立ち上がった。
「うん、その遼が体調崩しちゃって。熱が高いんだ。で、僕の分の撮影は終わった、というか無理矢理終わらせたから、2人で先に帰れって……崎谷と聖さんが……」
言いながら、伸は目を閉じた。聖の名前に、当麻が一瞬反応する。
「遼の世話は、今、秀が見てくれてる。だから僕もちょっと休もうと思って……」
「だから……ここへ?」
「そう」
「……って、ここで休むのは構わないが……ちゃんとベッドで眠った方がいいんじゃないか?」
「そうでもないよ。このソファ気持ちいいし。落ち着くんだ」
「そうなのか?」
「うん。だってこのソファは君の匂いがするから……」
「……へぇ……って……え!?」
一瞬聞き間違いかと思って、当麻は目を剥いた。伸は相変わらず目を閉じたまま、軽い寝息まで立てだしてる。
「…………おい、伸?」
そっと声をかけるが、すでに返事はない。
「伸……おいっっ……」
「…………」
伸の反応はない。
「なあ、伸……お前、今、すげえこと言わなかったか?」
伸は完全に眠ってしまったのか、やはりピクリとも反応しない。情けなさそうな表情でくしゃりと前髪を掻き揚げ、当麻は眠っている伸のそばに腰を降ろし、その寝顔をじっと見つめた。
「…………」
伸の胸は規則正しい呼吸に上下している。表情も穏やかだ。そっと手を伸ばし、当麻は伸の額にかかっている前髪を払った。
「伸……お前なぁ……そんな倖せそうな顔して無防備に寝るなよ。襲うぞ……」
嬉しそうに当麻が顔を歪めた。

 

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