マーメイド−人魚姫の恋−(24)

「征士、まだ起きてる?」
「伸か!?」
伸がドアを開けようとドアノブに手を掛けたとたん、征士が中から勢いよく飛び出してきた。
「伸! 遼の様子は!?」
血相を変えた征士の態度に、伸は思わず表情を和らげた。
恐らく一足先に部屋に来た聖から、遼の具合が悪いことを聞いたのだろう。聖がどういう形で伝えたのかは分からないが、それでも伸が様子を告げに来るまで大人しく部屋で待っていてくれたというのは、征士が自分達のことを気遣ってくれたという証拠だ。
「うん、大丈夫。今は薬が効いてよく眠ってるから」
「そうか」
あきらかにホッとした口調で征士は安心したように息を吐いた。
「ごめん。心配かけちゃったね。もっと早く来れば良かったんだけど、遼が寝付くまで待ってたら遅くなっちゃった」
「いや、それは構わないが……それより伸、今夜は私が遼を看ていたほうがよくはないか?」
「……え?」
征士の申し出に伸はきょとんと首を傾げた。
「……なんで?」
「あ、いや、伸は早朝の撮影があるから無理をしないほうがいいのではないかと」
「何言ってるの。早朝撮影は征士も一緒だろう」
「そうは言っても、ただ失神していればいい私と、泳がなければいけない伸とでは大変さが全く違うだろう」
確かにもっともな話だ。
でも、伸はまっすぐに征士の目を見てきっぱりと首を振った。
「とてもありがたい申し出だけど、却下ね」
「伸!?」
「誰にも譲りたくないんだ。この権利は」
「…………」
「今夜、僕は遼の一番近くにいたい。だから、この権利は誰にも譲らない」
「…………」
真っ直ぐに自分を見つめる伸の視線に、征士は分かったと言って小さく頷いた。
「では、遼の看病をする権利はお前に託そう。だが、何かあったらすぐに知らせてくれ。私にもそれくらいの権利は残っているのだろう?」
「そうだね。分かった」
にっこりと伸は征士に笑いかけた。
「あ、じゃあ、ひとつ征士に頼み事してもいいかな?」
「何だ?」
「実はまだ崎谷の所に報告に行ってないんだ。熱が下がらなかったら早朝撮影は絶対無理だし、もし熱が下がったとしても無理はさせられないから、その状況は言っておかなくちゃと思って。これから行こうと思ってたんだけど、代わりに行ってきてくれると嬉しい」
「分かった。すぐに行ってくる」
言うが早いか、征士はそのまま廊下に出て、崎谷のいる個室へと向かった。
横目で征士を見送った伸が視線を部屋の中に戻すと、予想通り、聖が伸を見て笑顔を浮かべていた。
ちょうどシャワーをあびたばかりなのか、濡れた髪にタオルをひっかけたままの姿である。
「ちゃんと言った?」
伸と目が合うと、聖はそう聞いてきた。
伸は素直にコクリと頷く。
「そっか。で、遼の返事は?」
「知ってたよって言われちゃいました」
「だろうな」
クスクスと笑いながら聖は頭に載せたタオルでゴシゴシと濡れた髪を拭き始めた。滴が数滴床に飛び散る。
カーペットに吸い込まれていく水の行方を目で追っていた伸は、再び顔をあげて改まった顔で聖を見つめた。
「聖さん。有り難うございます」
「気にするな。愛しい姫の力になれたのなら本望だって」
おどけた調子で聖は笑った。
やはりどこまでが本気で、どこまでが冗談なのか見極められない。
「聖さん」
「……ん?」
「ひとつ聞いて良いですか?」
「オレに答えられることなら」
「聖さんにとっての人魚の恋ってなんですか」
「…………」
初めて聖の表情に真剣さが垣間見えた。
「……何?」
「聖さん、僕に何度か言いましたよね。これは人魚の恋だって。あれは……」
「そういえば、この間、伊達王子が面白いことを言ってたぞ」
「え? 征士が? 何?」
突然の話題転換にまんまと乗せられて思わず聞き返してきた伸に、聖は満足気に笑みを浮かべるとベッドの脇に腰を降ろした。
「あいつ言ってたぞ。人魚の恋はともかくとして、王子は姫を愛してたんだって」
「……王子が…姫を?」
「そうさ。王子は間違いなく姫を愛してたんだと。それは決して恋愛感情ではなかったかもしれないが、それでも確かに王子は姫を愛してた。誰よりも倖せになって欲しいと」
「誰よりも……」
誰よりも倖せに。
倖せに。
ただ、それだけを願う。
「伊達王子は、姫に誰よりも倖せになってもらいたいそうだ。お前、みんなに愛されてるんだな」
「…………」
ほんの一瞬、伸の頭の隅で、夜光の長い金糸の髪が揺れて見えた。
もしかしたら彼にとっての自分は、今でも、傷ついたまま逝ってしまった幼い少年のままなのだろうか。
「何だ。思い当たる節があるみたいだな」
「え?」
「今、すごく納得したって顔してたぞ、お前」
「…………」
もしかしたら違っているかもしれない。
でも、たぶん。
いや、きっと。
その言葉を言いたかったのは夜光だ。きっと、夜光が征士の口を借りてその言葉を発したのだ。
なんとなくそんな気がする。
「納得かどうかは分かりませんが、征士なら言いそうだなって思いました」
「……なるほど」
にやりと笑って聖は小さく頷いた。
伸は、もう一度聖に小さく礼をして部屋を後にした。

 

――――――控えめなノックをして部屋に入ると、征士はベッドに眠る遼の枕元に佇んで、静かに遼を見下ろしていた。
「征士……遼は?」
「大丈夫だ。ぐっすり眠っている」
「そっか」
足音をたてないようにしてそっとそばまで行くと、伸が遼の顔を良く見られるようにと、征士は僅かに身体をずらして伸の立つスペースを空けてやった。
遼は何も気付かずぐっすりと眠っている。伸はほっと胸をなでおろして息を吐いた。
「崎谷は?」
ささやくような声で、伸は隣に立つ征士に聞いた。
「ああ、遼の分は聖さんが全面的にフォローしてくれるだろうから撮影自体は心配ない。お前は無理せずちゃんと睡眠を取っておくように伝えて欲しいと言われた」
「そう」
「ただ……私は残念だ」
「え?」
「私は遼の撮った写真のほうが好きだから」
「…………」
思わず伸はマジマジと征士の端正な横顔を見つめた。
「私は別に聖さんを否定するつもりはない。あの人の撮ったものは確かに素晴らしい。私も他の皆と同じように強烈に惹き付けられたことは事実だ。でも、それでも私は遼の撮ったお前の写真が一番好きだ」
「……征士」
「遼の写真は、遼にしか撮れない写真だ。私は、遼が撮る写真をもっと見ていたい」
征士の言葉はまるで宝石の詰まった宝箱のようだ。いつまでも大切に抱え込んでいたい気持ちになる。
伸は眠っている遼の顔に視線を戻した。
「……それ、遼が目を覚ましたら言ってあげなよ。きっとすごく喜ぶよ」
「そうか?」
「うん。ほかの誰が言うより、征士が言ったほうが喜ぶ。だって君はいつでもどんな時でも嘘を言わないから」
「…………」
「君は絶対嘘をつかない。それってすごい大事なことだよ。僕も見習わなくちゃって、本気で思う」
「伸?」
「本当に、そう思うんだ」
大切なこと。
大切な人。
大切な心。
それを護る為に必要なことは、ただひとつ。
そのことを思い出させてくれた聖に、伸はもう一度心の中で感謝の意を述べた。
「そう言えば、征士。ひとつ聞いていい?」
「……なんだ?」
探るような視線を向けて伸が征士に聞いた。
「征士が考える人魚姫の恋って何?」
「……え?」
「人魚姫の恋って、諦めるしか選択肢のない恋だって思う?」
「諦める?」
「うん……」
「……いや、私はその考えには賛成しかねるな」
考え込むように征士は首をかしげて腕を組んだ。
「そうだな……人魚姫は決して諦めたのではないと私は思う。あの姫は、王子が倖せになるという道を選択したんだ。彼が誰よりも一番に愛する女性と倖せに暮らすことが出来るようにと、王子が誰よりも倖せになること選択したんだ。それは決して諦めるという選択肢ではないと、私は思う」
「…………やっぱり君って最高」
思わず笑みがこぼれる。
「伸。私を誉めても何も出ないぞ」
照れたような口調で、征士は微かに眉をしかめた。
それからしばらくの間、2人はただ黙って、ベッドに眠る遼の顔を見つめていた。

 

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