マーメイド−人魚姫の恋−(22)

「とにかく解熱剤か、でなければ氷だけでも持ってくるから動いちゃ駄目だよ」
必死でそれだけ告げると、伸は遼をむりやりベッドに寝かせて部屋を飛び出した。
バタンと扉を閉じ、大きく息をつぐ。
「あ……そうだ」
シャツのボタンが外されたままになっているのに気付き慌てて止め直し、伸はそのままずるずると廊下に座り込んだ。
身体が熱い。遼の熱を半分もらってしまったのではないかと思えるほどに熱い。
あまりの混乱状態で、何を考えることも出来ない。伸は自分自身を抱え込むように腕を回し、大きく息を吐いた。
その時、背中の扉を通してゴホッと微かに咳をする声が聞こえてきた。
遼の声だ。伸はゆっくりと顔をあげる。
やはり遼は風邪をひいてしまっているのだろう。かなり熱が高かったので、今は意識も朦朧としているのかもしれない。ということは部屋を出る気力はもうないだろう。
伸は冷たい廊下の床を手で押し上げるようにして、何とか足を踏ん張った。
手も足も自分のものではないような感覚がする。力が入らない。
でも、だからといって此処にいつまでも座り込んでいるわけにはいかないのだ。
「行かなきゃ……」
何処へ? 誰の所へ?
この状態で征士には会いたくなかった。自分自身さえ混乱しているのに、何をどう説明したらいいいのか分からない。崎谷の所もまずい。この状態の自分を見たら、いくらなんでも崎谷だって何かあったと気付くだろう。
伸はようやく立ち上がると、そのままふらふらとした足取りで歩き出した。
とにかく、一旦外へ出よう。
病院は難しいとしても、薬局くらいなら少し歩けば見つかるかもしれない。
最悪、何も見つからなくて戻って来るとしても、自分を落ち着かせる為の時間稼ぎにはなる。
ユースホステルの玄関を出て、伸は足を止め、外の空気を大きく吸い込んだ。
海の匂いがした。
日も落ち、すっかり暗くなってきた海岸線を伸は吸い込まれるように見つめた。
僅かな明かりの下で波がうねっているのが見える。
もう少し時間が経って、すっかり日が落ちたら、月の光の下で見える伸の一番好きな波の姿が見えてくるはずだ。
「…………」
何かに引き寄せられるように伸はゆっくりとした足取りで砂浜を海に向かって歩き出した。
足に直接砂を感じたくて、靴を脱ぐ。持ったまま歩こうかどうか一瞬迷い、結局伸はそのまま靴を砂浜の上に置き去りにして先に進んだ。
水際まで来る。足首に申し訳なさそうに波がかかる。
ふいに涙がこぼれた。塩分を含んだ涙が海の水と混ざり合う。
一歩、足を進めた。
波が今度は膝にぶつかった。
もう一歩足を進める。
膝はすっかり水面に隠れるほどになり、波はザブンと音をたてて伸の腰を濡らした。
もう一歩。もう一歩。
伸が足を進めようとした瞬間、ふいに後ろから力強い手が伸の腕を掴み砂浜まで引きずり戻した。
「…………!?」
「何やってんだ!? お前!!」
砂浜に放り投げられるような形で尻餅をつき、伸は驚いて顔をあげた。
「聖……さん?」
「この馬鹿!!」
言うなり、聖は強い力で伸の肩を力任せに揺さぶった。聖のあまりの剣幕に、伸は言葉をなくす。
「……ひじ……り………さん……?」
「お前、何考えてんだよ!!」
ふと、目の端に放り出されたスポーツバッグが見え、伸はようやく正気を取り戻したように顔をあげた。
「聖さん……あの…………カメラ……機材が……」
「んなものよりお前の命の方が大事だろうが!」
再び肩を掴んで大きく揺さぶられ、伸は眩暈を起こしたように額に手を当てた。
「…………」
「あ……悪い……」
伸の苦しげな表情を見て少し冷静さを取り戻したのか、聖がそっと伸の肩から手を離した。
「大丈夫か?………姫……?」
聖が伸の顔を覗き込んだ。
「姫? どうした?」
まったく。こんな時でさえ姫と呼ぶのか。この人は。伸は苦笑を浮かべた。
「……姫?」
苦笑はそのまま笑いに変わる。伸はとうとう肩を震わせて笑い出した。
「……おい」
「何、勘違いしてるんですか、聖さん」
ひきつった笑みを浮かべ、伸が顔をあげる。
「僕は海の中では死ねません。人魚ですから」
「…………」
「人魚……ですから」
言いながら伸の瞳から涙がこぼれ落ちた。
聖が驚いて目を見張る。
「……姫?」
溢れ落ちる涙はとどまることを知らないかのように、次から次へと流れ落ちる。
「……お……おい」
とうとう聖の腕にしがみついて伸は泣き出した。
それは決して激しいものではなかった。伸は必死で歯を食いしばり、嗚咽を堪えていたが、それでも伸の瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちてきていたのだ。
聖はそっと伸の身体を抱え込み、優しく背中を撫でてやった。
伸が落ち着くまで、ずっとずっとそうやって何も聞かず背中を撫でてやっていた。 

 

――――――「すいません。カメラ無事ですか?」
「ああ、大丈夫。レンズも割れてない。おもいっきり放り投げちまったから覚悟はしてたんだけど、下が柔らかい砂浜で本当に良かった」
ほっと安心したように聖は自分の愛機であるキャノンのカメラケースを開け、蓋を取ってレンズの点検を始めた。
「にしてもマジで心臓がひっくり返るかと思ったぞ。あまり脅かすなよな」
大事そうにカメラをケースにしまい、聖はコツンと伸の額を手で小突いた。
「脅かすなって、別に何も……聖さんが勝手に勘違いしたんでしょう?」
「普通するって。こんな夜に服のまま海の中へ歩いていくんだぜ。何事かと思うじゃねえか」
「ああ……」
「……っつっても、そうか。姫は前科があるもんな」
「何ですか。前科って」
「あの時の場所はプールだったけど、夜中に無許可で泳ぎまくってただろう?」
にやりと笑い、聖は伸の髪をくしゃりと手でかき回した。
ほんの一瞬、ドキンと胸が高鳴る。とたんに、聖がすっと手を引いた。
「で、何があったんだ? まあ言いたくないなら聞かないけど。一応オレには尋ねる権利はあるよな。何たって愛機を危険にさらして、一張羅を砂だらけにされた責任はとってもらわなくちゃ」
「……すいません」
素直に謝って伸は砂浜に目を落とした。
もちろん海の中に入って行ったからと言って、別に死ぬつもりは毛頭なかった。
そんなことは欠片も考えていない。
ただ、陸の上にいると息が出来なくて。夜の海が自分を呼んでいるような気がして。気が付いたら足が海に向かっていた。
分かっている。これはただの逃げだ。自分は逃げたがっているのだ。
逃げたがっている。
何から。
誰から。
逃げて。本当に逃げていいなどと。逃げて構わないなどと思っていたのだろうか。自分は。
「……ん?」
黙ったままの伸を促すように聖は小さく声を発した。
ハスキーボイスだった。
あの時と同じハスキーボイスだ。
そう思ったとたん、再びじわりと涙腺がゆるんだ。
慌てて袖口で涙を拭き、伸は誤魔化すように口を開いた。
「えと……聖さん、あの、解熱……剤なんか持ってませんか?」
「…………?」
さすがに意味不明で聖が首を傾げる。
「あ、いや、実は、遼が……」
「何? 熱に浮かされた遼に好きだとでも告られたのか?」
「…………!?」
大きく目を見開いた伸の表情は、間違いなく聖の言葉を肯定しているという意味だろう。
呆けたように目を見張る伸をしばらく見ていた聖は、ようやくクスリと笑ってバッグの中を探り出した。
「うん。確か持ってきてたと思う。待ってろ。今出すから」
「…………」
「にしても、それが理由とはね。で、上手く対処できなくて逃げ出したってわけか。姫さんは」
「…………」
伸がまだ言葉を発せられないでいるのをいいことに、聖は可笑しそうに笑いだした。
「手際が悪いっていうか、堅いっていうか、不器用っていうか。本当にお前さんはどうしようもないなぁ……」
「僕は……!」
「大丈夫。姫が心配しなくても遼だって最初から分かってるさ」
「……え?」
伸はそう言った聖の顔をマジマジと見上げた。
分かってるって、何を。
聖は驚くほど優しい目で伸を見つめ返していた。
「あいつも言ってたんじゃないか? 分かってるって。ただ、それでもほんの少しの希望にすがりついてみたくなっただけだって」
「…………」
この人は千里眼か何かなのだろうか。
まるで見ていたようにズバリと本当のことを言い当てる。
「……姫」
「はい」
「あいつを。遼を一番傷つけずにすむ方法を教えてやろうか?」
ふっと笑みを見せて聖が言った。
「遼を……」
傷つけずにすむ。そんな方法があるのだろうか。
何を言っても、どうやってもきっとあの子は傷ついてしまう。
誰よりも大切に護っていきたかったのに。
自分自身の命より大切に思ってきたのに。
それなのに自分は遼を傷つけることしか出来ないのだと。
そう思っていたというのに。
「……本当……に?」
「……ああ」
耳に心地良いハスキーボイスで、聖は囁くように言った。
「あの少年を傷つけないで済む方法はただひとつ。お前が。毛利伸が、自分の気持ちに正直になることだよ」
「え? だって……」
「反対に一番やってはいけないことは、嘘をつくこと。誤魔化すこと。隠すこと。それをしたら結果的にはあの子をとても傷つけることになる。まずはそれを理解するんだ」
嘘をつくこと。誤魔化すこと。隠すこと。
そう言えば遼も言っていた。もう嘘はつくなと。誤魔化すなと。
あれは。
「嘘を……つくこと」
「そうだ」
「誤魔化すこと……隠すこと……」
「そうだ。それを忘れるな」
これ以上優しい目はないのではないかと思うほどに優しい目をして聖は伸を見つめた。
そして、ほんの少し悔しそうに唇を歪める。
「まったく……お前が誰を好きかなんてのは、オレだって知ってるぞ」
「……え?」
思わず顔をあげた伸から目を逸らすように聖はプイッと横を向いた。
「自覚症状がないのかどうか知らないけど、いい加減本当に素直になって欲しいもんだよ。でないとこっちが困る」
「……困るって……?」
「叶わない夢を見てしまうから」
独り言のように聖はポツリと呟いた。

 

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