マーメイド−人魚姫の恋−(19)

「じゃあ、行ってくる」
「うん。頑張ってきてね」
軽く手を振ってバス停へ向かう征士と遼を見送ったあと、伸は盛大なため息を洩らした。
今日は室内撮影が中心の日だというので、伸の出番はお休み。もちろん付いていっても歓迎はしてくれるだろうが、伸はあえて、今日は一人家に残ることに決めた。
特に用事があったわけではないが、たまには家の仕事を優先しなければ。などと自分自身に言い訳をしてみる。
軽く掃除機をかけ、ちょうどいいからと皆のシーツなど大物の洗濯を開始する。
山盛りの洗濯物を抱えてベランダへ出ると、昨日の雨が嘘のように太陽が眩しげに光っていた。
あまりの眩しさに伸は顔をしかめて燦々と輝く太陽を睨み付ける。
「…………」
晴れの日というのは、心の中も晴れ晴れとするはずなのに今日はまるで真逆の心境だ。伸がもう一度大きなため息をついた瞬間、後ろで人の気配がした。
「けっこうな天気になったな。良い洗濯日和じゃないか」
掛けられた声に、伸は振り返らずに小さく頷く。
「本当に……そうだね」
「……洗濯日和が嬉しくないのか? 伸」
「そういうことじゃなくて……」
振り返ると当麻の宇宙色の瞳と目があった。
「…………?」
言葉の軽さからは考えられないほど当麻の表情が硬く見え、伸は思わず口を閉じた。
「……当麻?」
当麻はすっと伸から視線をはずし、伸が抱えていた洗濯物を受け取ると、物干し竿の前でバッと広げた。
「手伝うよ。干すの」
「あ、うん。有り難う」
なんとなくそのまま無言で、2人は黙々と洗濯物を広げては干しだした。
半分ほど干し終えたところで、当麻はちらっと伸を盗み見るように横目でみて、遠慮がちに声をかけた。
「征士達は……行ったのか?」
「うん」
「お前だけ休み?」
「そう。今日は室内撮影だから。必要なのは陸上組」
「……遼は?」
「スタッフだからね。一緒に行ったよ。征士と」
「そっか……」
何となく会話がぎこちない。
「……遼、何か言ってたか?」
「…………」
当麻の質問に、伸は初めて手を止めた。洗濯物を握りしめてため息をつく。
「……伸?」
「何かもなにも。昨日から遼は僕と目を合わそうとさえしないよ」
「…………」
「話しかける隙さえない。まるで逃げるように僕を避けてるんだ。君も同様じゃないの?」
「……そうだな……」
伸がじっと当麻を見た。
「どうするつもり……」
「オレは謝らないぞ」
伸の言葉を遮って当麻が断言した。伸が返す言葉に詰まる。
「別に見せつけるつもりもなかったし、あんなことで優位に立てるなんて思ってない。だが、だからって謝る気もない」
「それは……」
「それにお前もオレも知ってたはずだ。あの時……」
当麻が一呼吸置いて、挑むような視線を伸に向けた。
「あの時、遼はすぐ戻ると言っていた。救急箱を取ってすぐ戻ってくると。だから、オレ達は知ってたんだ。あいつがあそこに帰ってくることを」
知っていた。確かに。
それこそ、ほんの数分もかからないで遼が戻って来ることなど分かり切っていたことだった。
それなのに。
分かっていて。自分達はしたのだ。
遼の目の前で。
遼が見てしまうことを分かっていて、やったのだ。
認めたくない事実を目の前に突きつけられて、伸は眩暈を起こしたように地面にしゃがみ込んだ。
「…………!」
慌てて当麻が伸の身体を支えようと手を出したが、伸はそれをはねのけた。
当麻は無言で差し出した手を引っ込める。
「どうして……」
絞り出すような声で伸が呟いた。
「……どうして……僕は……」
当麻が唇を噛みしめる。
「傷つけたくなんか……ないのに……どうして……」
「…………」
「どうして僕は……遼……」
こんなに。
こんなに好きなのに。
声にならないそんな言葉が聞こえた。

 

――――――コンッと小さな音をたてて、冷たい缶が伸の額に当てられた。
「……?」
「ほら、差し入れ。オレンジジュース」
顔をあげると、眩しい太陽を背に秀が満面の笑みを浮かべて立っていた。
「……秀……何で?」
「それはこっちの台詞だ。いつまで経っても下に降りてこないと思ったら、こんなとこでボーっとして。何黄昏れてんだ?」
すっかり洗濯物は干し終えたはずのベランダから一向に降りてこない伸を気遣って、秀は此処まで来たのだろうか。そう言えば、確かに洗濯物を干し終え、無理矢理当麻を家の中へ追い返したのはもう数時間も前のことだった。
伸は困ったように笑みを浮かべて秀が隣に座れるようにと少しだけ身体を横にずらした。
「ちょっと疲れちゃって。休んでただけ」
「休むんなら屋根の下の方が身体に良いと思うけどな。ここじゃ日当たりがキツくて余計疲れるんじゃないのか?」
「あぁ……そういえばそっか……うん。もう降りようとは思ってたんだけど」
少しもそんなこと思っていなさそうな口調で伸は呟いた。
秀はストンと隣に腰を降ろし、冷えたジュースの缶を伸の手に握らせた。
「お前さ、もしかして落ち込んでる?」
突然秀が聞いてきた。ビックリして顔をあげ、伸は次いですっと視線をそらせる。
「……何で?」
「何でも何も。何か落ち込んでるだろう?」
「…………」
「当麻は当麻で、ムスッとした顔で図書館に出かけちまったしさぁ……ってことは、お前に何かあったってのは一目瞭然じゃん」
「当麻が出かけたことと僕が落ち込んでるってことに何の関係性があるんだよ」
「あるさ。お前が居るのにあいつが出かけること自体、あり得ない」
何かを勘ぐってるとか、もしかしたらそうなのではないのかとか、そんな曖昧な感じではなく、秀はあまりにも真っ直ぐ直球を放ってくる。
そして秀の勘は滅多なことでは外れたりしない。
「あり得ないことが起こった。と言うことはあいつが今のお前の状態を良くないと思ってるってことだ。更に奴は、自分は出来るだけ遠のいておいたほうがいいと判断したってこと」
「まいったな」
くしゃりと前髪を掻き上げ、伸は苦笑した。本当に、この男を前にするとポーカーフェイスも何もあったもんじゃない。
「ちょっとね。落ち込んでるっていうか、自己嫌悪?」
「何で?」
「……遼に……」
ポツリと伸は言った。
「遼に……酷いことをした。僕は……分かっていて遼を傷つけたんだ」
「…………」
秀がゆっくりと瞬きをした。
「そりゃ、また、穏やかじゃないな」
「うん。穏やかじゃないね」
自嘲気味に伸が笑う。
うーんと空を仰いで、秀は手に持っていた自分用のオレンジジュースのプルタブを開け、コクリと飲んだ。
「じゃあ、謝っちゃえば?」
出来るだけ軽く聞こえるようにと、明るい口調で秀は言った。
「すいません。ごめんなさいって。言っちまえばいいじゃねーか」
「…………」
秀に促されて、伸も手に握らされていたジュースを一口飲んだ。
「っつっても、言えない事もあるか」
独り言のように言って、秀ももう一口ジュースを飲む。
「だけど……なあ、伸。お前だって、もうとっくに気付いてんじゃねえか? このまま遼が傷つかずに済む方法なんて実は何処にもないんだってこと」
伸はギクリとして秀を見つめた。
「何があったのか知らねえから見当違いな事言ってるかも知れねえけどさ。でも……お前……このままずっと、今のまま、誰も哀しませず傷つきもしないで、オレ達は何処まで行けると思ってるんだ?」
伸は無意識にゴクリと唾を飲み込んだ。
自分達の関係は、まるで綱渡りでもしているみたいだ。
いつだったかそんなことを思ったことがあった。あれはいつだったろうか。
今にも落ちそうな不安定な綱の上で、自分達はいつまでこのバランスを保っていられるのだろう。
『いつまで保つんだ?』
ふと、先日聖が言った言葉を思い出した。
あれは、そういう意味だったのだろうか。だとしたら、もしかしたら自分達の関係はとっくに限界まで来てしまっているということなのだろうか。そして、聖の存在は、そのギリギリまで張りつめた臨界点に投じられた石のようなものなのだろうか。
長く深いため息をついて、伸は自分の膝を抱え込んだ。秀がそっとそんな伸の様子を伺う。
「伸……オレに何か出来ることあるか?」
しばらく考えた後、伸はぽつりと言った。
「……ない……かな?」
「そっか……」
分かっていた答えだと言わんばかりに秀が苦笑を洩らす。
「……でも……」
伸が低く呟いた。
「でも、もう少しだけ、此処に居てくれると助かる……かも……」
そう言って伸はもたれるように秀の肩口に頭を乗せた。柔らかな栗色の髪が秀の鼻先をくすぐる。
「まあ、隣に居るくらいいつだって居てやるけど……」
「それと……」
ほとんど消え入りそうな声で伸がつぶやいた。
「明日から、当麻のこと……お願い」
「……なんだ。やることいっぱいあるじゃねえか」
くすりと笑って空を見上げた秀の目の端で白いシーツが風になびいて翻った。

 

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