マーメイド−人魚姫の恋−(18)

いつもは耳に心地良いはずの野菜を刻む音が、何故か少し乱れて聞こえ、遼は皿を用意する手を止めて伸の背中に目を向けた。
「伸……?」
伸は先程から無言のまま、一心にサラダにするための野菜を切り続けている。
「伸? どうかしたのか?」
伸からの返事はない。やはりちょっと様子がおかしいと思い、遼はテーブルの上に重ねた皿を置くと、シンク台の前に立つ伸の隣に回り込んだ。
「大丈夫か? 伸!?」
「え? あっ……!」
ちょっと大きめに声をかけた為、驚いた伸が手元を狂わせた。
「痛……」
「伸!?」
カランとまな板の上に包丁が落ち、伸が手で指を押さえて顔を歪める。
「ご、ごめん。驚かせて。指、切ったのか? 大丈夫?」
「だ……大丈夫……ちょっとかすっただけ……」
言いながらも押さえた指の先から赤い血がじわりと滲んでくる。遼は慌てて伸の肩を押さえてそばの椅子に座らせた。
「ごめんっ伸! オレ……あ、えと、止血しなきゃ……」
「大丈夫だよ、遼。そんなたいした傷じゃないし」
遼の慌てぶりに伸は済まなさそうに目を伏せた。
この失態は間違いなく自分の所為だ。遼の声に多少驚いたからと言って誤って指を切るなんて本当にどうかしている。
「あ、じゃあ、オレ救急箱取ってくる。ちょっと待ってて」
「どうかしたのか? 遼」
慌てふためく遼の声が聞こえた為か、キッチンを飛び出そうとした遼と入れ違いに当麻がキッチンに顔を出した。
「あ、当麻! 伸が指切ったんだ。オレ救急箱取ってくるからちょっと見ててくれるか?」
「え? ……伸! 大丈夫か?」
伸の元に駆け寄り、当麻は思わず伸の手首を掴んだ。勢いにつられて伸が椅子から腰を浮かせる。遼はそのまま居間へ行くため、キッチンから姿を消した。
「……あ……」
手首を握りしめられたまま真正面から向き合う形になって、伸は戸惑ったように当麻を見上げた。間近で目が合う。何となく気まずくなって、伸が一歩後ずさりした。トンと背中が冷蔵庫の扉に当たる。
「………大丈夫か?」
呟くように当麻が聞くと伸はコクリと小さく頷いた。
「お前が指を切るなんて、どうしたんだ?」
「……どうもしない……ごめん」
小さく伸は首を振った。
「ごめん……当麻」
俯いたままの伸を見て当麻の目がすっと細まる。伸は口を閉じたままそれ以上何も言おうとしない。
「……伸」
やがてぽつりと当麻が伸の名前を呼んだ。
「伸」
「……何……?」
「……ひとつ、聞いていいか。どうしてオレにあんなことを言った?」
ビクリと伸が顔をあげた。
「あんな事……?」
「オレに見られた事がそんなに後ろめたかったのか?」
「……当麻……」
「そうなのか? だから……」
「違……そうじゃない」
「じゃあ、何だ」
「…………」
「どうしてあんな事を言った?」
伸が身を硬くする。
「伸……」
脅えたように伸は当麻から目を逸らせた。
「どうして……」
『君が好きだよ』
少しも嬉しくなかった。
それどころか苦しくて、苦しくて。
これ程までに苦しくて。
どうしようもないほど苦しくて。
「…………」
当麻が伸の手首を掴んだままそっと伸に顔を近づけてきた。
伸の頭の後ろには冷蔵庫の扉が迫っているので伸はそれ以上後ろに動くことが出来ない。扉に頭を預けたまま、伸は近づいてくる当麻に視線を合わせた。
「…………」
静かに2人の唇が重なる。
「……んっ……」
掠れた声が伸の喉に引っかかった。
一瞬だけ僅かに唇を離し、少し角度を変えてもう一度当麻は伸に口付けた。先程より深く。
「…………」
伸は抵抗しなかった。
柔らかな唇と唇の間から伸の艶のある声と吐息が微かにもれてくる。舌を絡め取ると捕まれたままの手首の先で指がピクリと反応した。
その時。
ガシャーンと耳障りな音がキッチン内に響いた。
重なっていた唇を離し、当麻がゆっくりと振り返る。
キッチンの入り口に立ちすくんで、遼が驚きに目を見開いたまま硬直していた。床には遼が取り落とした救急箱が転がっており、運悪く蓋が開いてしまったのか、中身が辺りに散乱していた。
当麻の肩越しに、伸が目だけで遼の姿を捉える。一瞬だけ目が合うと遼は弾かれたように伸から目を逸らせた。
言葉が出ない。
すっと伸から離れ、当麻は無言のまま遼のそばをすり抜けるように通り過ぎるとそのままキッチンから出ていった。
冷蔵庫に背をもたせかけたまま、伸がズルズルと床に座り込む。
遼はやはり伸と目を合わせようとはしなかった。

 

――――――夕食の為、階下へ降りようと征士が部屋の扉を開けたとたん、当麻が倒れ込むように入って来て、そのままどさりと自分のベッドに身体を投げ出した。
「当麻?」
征士が何事かと不審気な目を向ける。
「そろそろ夕食ではないのか?」
「いい……オレ、パス」
「……え?」
耳慣れない言葉を聞き、征士は扉に手をかけたまま当麻の方を振り返った。
「……今、何と?」
「だから、オレ……夕食パス。いらないってみんなに言っておいてくれ」
「…………」
いくら何でもただ事ではない。征士は一度開けかけた扉を閉め、当麻の側へと戻って来た。背中を向けてベッドに横になっている当麻を上から見下ろしていると、当麻は居心地悪そうに身じろぎして寝返りをうち、じろりと下から征士を睨み付けた。
「……んだよ」
「何かあったのか?」
「別に。何かなくちゃいけないのか?」
「何もなくて貴様の食欲がなくなる理由が思いつかないだけだ」
「……ちぇっ……」
ベッドの上に身を起こし、諦めたように当麻がため息をついた。
「今日さ……」
「…………」
「逢ったんだ」
「逢った? 誰に?」
「…………」
当麻が征士から視線を逸らす。征士は、分かったと言ったふうに小さく声をあげた。
「もしかして聖さんに逢ったのか?」
「ああ」
「なるほど。で、感想は?」
大きく息を吐き、当麻が真っ直ぐに征士を見上げた。
「伸に告られた」
「…………え?」
自分の問いに対する答えとして返ってくるにはあまりにも予想外の言葉に一瞬征士が絶句する。
「あ……な……何?」
聞き返す言葉も、たどたどしくなってしまうのは仕方ないことだろう。当麻は苦笑しつつ、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「伸に好きだって告られた」
「…………」
マジマジと当麻の顔を見つめ、征士が首をひねった。
「……にしてはあまり嬉しそうではないな」
「当たり前だ。あんなものは愛の告白でも何でもない」
吐き捨てるように当麻が言った。沈黙が落ちる。
「……では何だというのだ?」
静かに征士が聞いた。当麻はくしゃりと顔を歪め、征士を見上げる。
「あれは、ただの謝罪だ」
「謝罪?」
「そうだ」
頷くと、当麻は再びベッドの上に身体を投げ出した。そして、苦しげに両腕で顔を覆う。征士はしばらくの間、そんな当麻をじっと見下ろしていたが、やがて静かにベッド脇に腰を降ろし、なだめるように当麻の腕をトントンと軽く叩いた。
「……なあ、征……教えてくれ。どうしてこんなに苦しいんだ?」
「…………」
「好きなのに……どうして苦しくて仕方ないんだ……?」
「当麻……」
腕に隠された隙間から見える当麻の髪を征士はそっと撫でた。
「当麻。だが、それでも伸のその言葉は嘘ではないだろう。伸はそういうことで嘘をつける人間ではない」
「…………」
当麻が顔の前から腕を離した。
「伸の言葉の意味は真実だと思うぞ。私は」
「……征士」
小さく当麻が呟くと、僅かに征士が頷いた。

 

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