マーメイド−人魚姫の恋−(17)
とうとう本格的に雨が降り出した。
結局そのまま伸と征士、まどか達役者は全員解散ということになった。
征士は先程の言葉通り、剣道部の部室に行ってしまい、遼は撮った写真の整理と、編集作業の手伝いの為、もうしばらく学校に残ると言って崎谷達と共にPC部の部室へ向かった。
伸はというと、そのまま帰ると言って皆と別れたのだったが、少しずつ強くなってきた雨の為、校門横に建っているプールの更衣室の前で足止めを食っていた。
「……置き傘くらい持っとけばよかった」
後悔しても始まらない。とりあえずしばらくは此処に居るしかないと諦めて伸は壁にもたれたまま降りしきる雨の滴を目で追った。
いちおうまだプールの鍵は持っているので、更衣室の建物の中に入ってしまえば良かったのだが、なんとなくそんな気になれず、結局伸はそのまま、申し訳程度に張り出している屋根の下に身を置いた。
右手にある金網の向こうには誰もいないプール。中には水がたゆたっている。伸はふと首を回し、金網越しにぼんやりとプールの水面を眺めてみた。
誰もいない静かな水面には、雨の滴が当たる度丸く円が描き出される。緩やかなその円を見つめて、聖はあの時、満足そうに頷いた。
『うん。好い感じだ。姫』
伸は水面から目を逸らせた。
今まで毎日のように顔を合わせていたからなのか、急に姿を現さなくなった聖の態度にかなり自分は戸惑っているのだろう。
本当に聖が今回の話に乗り気だったというのなら、この状況は何かがおかしい。何処かに意図的な部分が感じられる。
「って、それは考えすぎだよね……」
誰に言う出もない独り言を呟いてみる。
どちらにしても、肝心の聖が伸の前に姿を現さないのだから、理由があったとしても聞き出しようがない。
ただ、ほんの少し、息をするのが億劫に感じられるだけだ。
伸は無理矢理大きく肩で息をすると空気を吸い込んだ。
「…………?」
その時、伸はふと何かの気配を感じて顔をあげた。
吸い込みかけた息が途中で止まり、肩が大きく上下する。
「……聖さん……?」
見慣れた長身。黒い傘を差しているので顔は見えないが、あれは間違いなく聖だ。
そう思ったとたん、伸は、まるで惹き付けられるように聖に向かって駆けだした。
「聖さん……!」
雨の滴が直接頬に当たる。
さすがに傘なしで飛び出すのは遠慮したい程、降りしきる雨は激しくなってきていたのだが、走り出した足を途中で止めることも出来ず伸はそのまま聖の元に駆け寄った。
「……姫……?」
伸の声に驚いて振り返り、聖はそのまま立ちすくんだように足を止めた。
伸が走るリズム合わせて水を含んだ道路がパシャパシャと音をたてる。門を抜け、道路を横切り、聖の目の前に辿り着いてようやく伸はほっとしたように大きく息を吐いた。
「お……お久しぶりです……」
ずぶぬれの状態で交わすには多少不似合いな言葉で、それでも律儀に伸は聖に頭を下げた。
「今日は撮影じゃなかったっけ? 姫」
「あ、雨で……中止になりました」
「ああ、そっか……」
傘の隙間から聖は空を見上げた。
「残念だったな」
「……ええ」
聖を見上げる伸の髪から雨の滴がポタリと流れ落ちる。聖はそっと自分の傘を傾けて伸の身体が傘の下に入るよう招き入れた。
「まったく……そんなに濡れて、風邪ひいたらどうするんだ?」
「この程度で風邪なんてひきません。そんなことより、聖さんは……?」
「オレ?」
「今日は撮影には参加出来ないって聞いてましたから来ないものだと」
居ないはずの聖が何故この時間帯にこの場所に来ているのだろう。もしかして用事がキャンセルになったとかでこっちに来てくれたのだろうか。
問いかける伸の眼差しに聖は済まなさそうに軽く頭を下げた。
「実は、これからダチの所に行かなきゃいけないんだよ。ただ、ちょうど奴の家がこっちの方角だったからついでに此処まで遠回りしてきて様子だけ見ようと思ったんだけど。そうだよな。考えてみれば今日は海撮影の日だから雨が降ってたら中止だよな」
「っていうか、晴れてたら逆に今の時間帯に来ても出発してますよ。僕等」
「…………ホントだ。忘れてた」
「…………?」
妙な違和感を覚えて伸はじっと聖を見上げた。
いつも飄々としてはいるが、聖の頭の回転の速さや要領の良さ、記憶力の確かさは折り紙付きだ。時間にも正確でその辺りいい加減なところはないはずなのに、この聖が出発時間を忘れていた等ということがあり得るのだろうか。しかも何故答えるまでにあんなに間があったのだろう。
「……何? 姫」
「あ、いえ何も」
戸惑ったように伸は俯いた。
雨が激しくなる。
「……まいったな……」
小さく息を吐いて聖が呟いた。伸が何のことかと顔をあげる。
「何?」
「何でもないよ。さすがに姫は勘がいいなと思っただけ。というよりオレが下手ってことだろう」
「下手って……何がですか?」
「さ、何がでしょう?」
いつもの誤魔化した笑みを浮かべて聖はくしゃりと伸の髪を掻き回した。何故か聖のその行為が伸の不安をかき立てる。なんだか、頭の上に置かれた手が離れたとたん、聖の心まで一緒に離れていってしまいそうな気がしたのだ。
「あの……聖さん」
「ん?」
小首を傾げて聖は伸を見下ろした。
「次の海での撮影には来てくれますか?」
「…………」
すっと聖の表情が硬くなった。
「今日の撮影が流れちゃったんで、崎谷がスケジュール組み直すって言ってました。次は来てくれますか?」
「……姫?」
「次は……来てくれますか?」
「そんなにオレがいないと心細いのか? 姫」
「違……そうじゃなくて」
慌てて否定する伸の頬が僅かに赤く染まった。
「せ……せっかく色々教えてもらえてるのに、最近聖さんが来ないからって遼が残念がってました。それに崎谷達もやっぱり貴方がいるといないとじゃ全然違ってくるっていうか……」
「他の奴のことはどうでもいいよ。お前は?」
「……え?」
「お前はどうなんだ?」
伸が大きく瞬きをした。
「……どうって……」
僅かに目を見開いたまま、伸は聖を見上げた。聖は驚くほど真剣な瞳でじっと伸を見下ろしている。
「お前は……オレにそばに居てほしいのか……?」
「…………」
言葉を言ったら。
今、頭に浮かんだ言葉を言ってしまったら、何だか取り返しがつかないような気がした。
「相変わらず無防備な顔するよな。お前は……」
くしゃりと、本当に困ったように聖が顔を歪めた。
そのまま、しばらくの間、2人は無言で見つめ合うような形になる。
降りしきる雨の滴が聖の差した傘を伝って地面に落ちた。
「……姫」
呟くように聖がその名を呼び一歩伸に近づいた。
その時、一台の車が歩道ギリギリをかすめて走りすぎ、大きな水飛沫を飛ばしてきた。
「……!?」
「危ないっ!」
とっさに飛沫がかからないよう傘を横に倒し、聖が伸の肩を抱き寄せた。
「……あ……」
引き寄せられるまま伸の身体が聖の腕の中に収まる。風にあおられて傘が聖の手を離れた。
直接雨が身体に当たる。
一瞬、伸の肩を抱く聖の腕に力がこもった。気付くと、傘を離した手を添えて、伸の身体は聖の両腕で抱きすくめられる形になっていた。心臓が跳ね上がる。
「聖……さん?」
「悪い」
慌てて腕の力を緩め、聖は転がった傘を持ちあげ、差し直した。
「……大丈夫か? 飛沫、かからなかったか? っつっても、最初からずぶぬれだったっけ?」
からかうような笑顔を見せて聖が言った。それは普段と変わらないいつもの飄々とした表情だった。
「あ……えと、はい。大丈夫です」
「なら良かった。じゃあ、オレは行くけど、姫はこのまま帰るんだろう。傘、貸してやろうか?」
「え? でも、そうしたら聖さんが……」
「オレはいいの。何たって水も滴るいい男目指してんだから」
にやりと笑いながら聖が軽く片目をつぶってみせた。聖の態度にほっと安心し、伸もいつものように呆れたように肩を落としてみせた。
「バカなこと言わないでください。僕はもう少し雨宿りして帰ります。それに、だいたい水は僕の方の専売特許ですよ。勝手に取らないでくださいません?」
「ははっ」
見事な切り返しに聖が楽しそうに笑う。伸もつられて笑みを浮かべた。
「……姫」
ふと、笑いを収めて聖が呟くように言った。
「忘れるなよ。これは人魚の恋なんだ」
「……え?」
人魚の恋。確かこの間、学校のプールでも聖は同じ事を言った。
どういう意味なのだろう。
だが、口を開きかけた伸の言葉は、背後から掛けられた声の為、発せられずに止まった。
「……伸?」
「…………!?」
聞き慣れたその声に思わず伸が振り返る。聖も伸の肩越しにこちらへ歩いてくる人物の姿を捉え、口を閉じた。
濃紺の傘を差して歩いてくる少年。その深い宇宙色の瞳がじっと伸と聖の姿を見つめていた。
「あ……」
伸が息を呑む。同時に聖は納得したように表情を和らげた。
ああ、彼が羽柴当麻だ。間違いない。
当麻は2人の方へスタスタと歩み寄ると、伸と聖の間に立ち、伸の頭上に傘を掲げた。
「どうしたんだ、こんな所で。傘もささないで」
「……あ、ごめん。傘、持ってくるの忘れちゃって……」
「そうか。じゃあ、オレが通りがかってちょうどよかったってわけだ」
独り言のようにそう呟いて、当麻の目が伸の正面に立つ青年に向けられた。
「あ、当麻、この人が……」
「如月の兄貴か?」
当麻の目がすっと細められる。まるで値踏みするような不躾な視線に、ふっと聖が笑った。
「ご名答。君が羽柴君だね。妹がいつもお世話になってます」
当麻が無言で頭を下げた。
「じゃあ、お迎えも来たようだし、今度こそオレは退散するよ。またな、姫」
「聖さん……!」
軽く手を振り、聖はくるりと踵を返すと、伸の止めるのも聞かずそのまま歩き出した。
またはぐらかされた。
何故、今此処に来ていたのか。次の撮影には参加してくれるのか。結局、聖は何も答えてくれなかった。
立ちすくんだまま動こうとしない伸の正面に回り、当麻がそっと声をかけた。
「帰ろう、伸」
「…………」
「さあ……」
「……あ……うん」
小さく伸が頷く。ほっと息を吐き、当麻は伸が濡れないように傘を掲げると、ゆっくりと歩き出した。
「行くぞ」
当麻に促され、伸も歩き出す。そのままバス停へと足を向ける当麻の隣を並んで歩きながら、伸は小さな声で呟くように聞いた。
「ねえ、当麻……人魚姫の恋ってどんな恋だと思う?」
「人魚姫の……?」
「うん……」
当麻はちらりと去っていった聖の後ろ姿を目で追うように振り返り、小さく首を振った。
「……そうだな。あれは、諦めるという選択肢しかない恋……だな」
「諦めるという選択肢?」
伸の足が止まった。
「そうだ。結局あの話って自分が生き残るためには王子の命を諦めなくてはいけないだろう。逆に王子の命を取った場合、自分の命を諦めなくてはいけない。どちらを選んでも、何を選んでも、結局の所、何かを諦めるという選択肢しか示されていない。そういう話だ」
「随分と悲観的な解釈だね」
「そうか?」
「…………」
伸の足が止まった為、数歩離れて立ち止まる形になった当麻は、そのまま振り返らずに背中越しに伸に言葉をかけた。
「どうした。お前は今、そういう恋でもしてるのか?」
「…………!?」
思わず、伸は当麻から逃げるように一歩退いた。
この時になってようやく気付く。そういえば、当麻はいつ自分達に気付いたのだろう。声をかける前、いったいいつから自分達の姿を見ていたのだろう。自分達の会話を何処から聞いていたのだろう。
「ごめ……」
「謝るな!」
ビクリとするほど強く当麻は伸の言葉を遮った。
「……謝られたら、オレが惨めになる」
「…………」
あまりの息苦しさに、伸は無理矢理空気を吸い込んだ。
喉が軋む。息が出来ない。
伸の前髪からポタリと雨粒が滴り落ちた。雨の滴は伸の頬を伝い、肩を濡らし、地面に落ちる。
「当麻……」
「…………」
「当麻……聞いて……」
「…………」
「当麻」
ゆっくりと当麻が振り返る。
「当麻……君が好きだよ」
「伸……?」
「信じて…欲しい。僕は……君が…好きだ」
「…………」
「君が……好きだよ」
返す言葉をみつけられないまま、当麻はその場に立ちつくした。