リトルバード−第2章:夢の国−(2)

ロビンの作ってくれたワカメの味噌汁とベーコンエッグの朝食はなかなか美味しく、皆を満足させるに充分だった。
口々に美味しいと誉められて、ロビンは頬を薔薇色に染めて嬉しがり、今度は伸のベッドを取ってしまったお詫びにと、秀と一緒に洗濯にいそしんでいる。
パタパタと元気よく駆け回るロビンの足音を聞きながら、終始無言で朝食を食べていた遼が、皆がいなくなった後、洗い物をしている伸の背中に、おずおずと声をかけた。
「……あの……さ、伸」
「…………」
無言で伸は振り返り、遼を見る。
「あの……さっきは、ごめんな」
上目遣いに伸を見上げる遼を見て、伸の緑の瞳が微かに揺れる。
「伸……」
「その言葉は、僕に向かって言うべき言葉じゃないよね、遼」
優しく諭すように伸が言うと、遼は黙って頷いた。
「…………」
ふうっと小さく息を吐き、伸は遼の目の前にトレイを置いた。
「じゃ、遼。これ、当麻に持っていってくれない?」
そう言って目の前に差し出されたのは、結局朝食に現れなかった当麻の為の食事だった。
温めなおした味噌汁に、大盛りのご飯。そして、伸が焼き直したベーコンエッグ。
当麻の好みに合わせ、黄身の中までちゃんと火を通した美味しそうなベーコンエッグを遼は黙って受け取った。
きっと伸は、朝食を食べなかったのが当麻じゃなくたって、同じ事をするだろう。
同じように気を遣い、同じように笑顔を見せて。
きっと。
そんな事はわかってる。
いつだって穏やかに微笑んで、みんなの事を気遣ってくれる。
それは今に始まった事じゃない。
わかってるんだ。
伸が誰にでも優しいことは。
「…………遼?」
遼がふと顔をあげてじっと伸を見つめた。
「…………」
誰にでも優しい伸の笑顔。
だから。
だからこそ、きっと、あの表情が欲しかったんだ。
みんなに向けるいつもの笑顔じゃなく、伸がふと見せる誰のものでもない表情。
桜の中の。
舞い散る桜の中の。
「遼? どうしたの?」
「…………」
「……遼?」
「オレ……伸が好きだな……すごく、すごく好きだな」
ぽつりと遼が言った。
伸は驚いて目を見張る。
「急に……どうしたんだよ、遼」
「……別に。ちょっと言いたくなっただけ。聞き流してくれていいよ」
「…………」
そう言って、遼はゆっくり伸に背を向けた。
開いた窓から、ふわりと風の匂いがした。

 

――――――「まったく、何をやっているのだ貴様は」
征士の冷たい視線を受け、当麻はうっとおしそうに前髪を掻き上げた。
「別に……オレは何もしとらん」
歯切れの悪い当麻の態度に、征士は呆れたようにため息をつく。
「何もしていないのなら、先程の遼の態度は何だ?」
食事の間中、じっと黙ったままだった遼を気遣って征士が言う。
「遼の事がオレの責任なのか? オレは別に何もしてないと言ったろう」
「あまり遼をみくびるな。あの子は勘がいい」
当麻がじろりと征士の紫水晶の瞳を見上げた。
「遼は……遼はただ単に、気に入ったおもちゃを取り上げられた子供と同じで、拗ねてるだけだ」
「……本気で、そう思っているのか?」
「…………」
征士の視線から逃れるように、当麻はうつむいた。
「……嘘です。そんな事、全然思ってないよ」
「どうしたのだ当麻。やけに落ち込んでいるようだが」
いつもの当麻らしくない態度に、征士が眉をひそめた。
「……実は、少し困ってる」
「何を?」
「……自分の感情が、制御出来なくなりそうで」
「…………」
くすりと征士が笑った。
「何を笑ってんだよ。征士」
むすっとして当麻が言う。
「今笑ったのは、別に私ではない」
「…………?」
「私の中の兄者が笑っている」
「…………コウ?」
征士の周りで、ザワっと風が鳴った。
「……存外、お前も子供なのだな」
そう言って、月の光の似合う男が、涼やかに笑った。
「当麻……」
その時、入り口で遠慮がちに声をかけてきた遼に気付き、征士はまるで子供でもあやすように、当麻の頭を軽く小突くと、竹刀片手に出ていった。
「…………」
征士が触れた頭にそっと手を置き、当麻はくしゃりと髪を掻きむしると、入り口のドアの所で、立ったまま入ってこようとしない遼に声をかけた。
「……遼、何だ? 用事があって来たんなら、入って来いよ」
「……伸が」
「……?」
「ちゃんと飯食えって。ほら」
つかつかと歩み寄り、遼は当麻の目の前に朝食の乗ったトレイを差し出した。
「伸が作ったんだ。食えよ」
「伸が……? 今朝はロビンが作ったって聞いたぞ」
「味噌汁はロビンだ。でも、卵はお前が来ないから、秀がお前の分まで食っちまって、伸がさっき作り直した」
「……なるほどね」
当麻はそっと箸で卵をつついた。
「ホントだ。伸が作ったやつだ」
「…………」
嬉しそうに目を細め、当麻が卵を口に運ぶのを、遼は複雑な表情で見守った。
やっぱり当麻には分かるのだ。一目見ただけで、それが伸の作ったものなのかどうなのか。
見逃してもおかしくない些細な違いを当麻は完璧に見分ける。
完璧に。
「当麻……あの……さ」
食事を半分ほど終えた当麻に、遼が言いにくそうに声をかけた。
「ん?」
「さっき……さ……」
「ああ、さっきはありがとうな」
遼の言葉を遮って、当麻が言った。
「……え?」
「止めてくれて助かったよ。あのままだったら何してたか分からなかったからな」
「…………なっ!!」
「ホント、助かった」
「……!!!!」
全身の血が全部顔面に集まったのかと思う程、遼の顔が真っ赤に染まった。
「と……当麻……お前」
「……」
「……お前……伸を、そんな目で見てたのか……?」
ふるふると震えだす遼を見て、当麻が肩をすくめた。
「冗談だよ」
「……!?」
「お前ってホント見てて飽きないよ。何でもすぐ信じるんだからな」
「……当麻!! おまっ……」
怒鳴りかけた遼が言葉につまった。
「…………!?」
うつむいてご飯を口に運ぶ当麻の表情が見えない。
「…………」
当麻はずるい。
そうやって、冗談ではぐらかして。
当麻はずるい。
さっき放り投げたクッションがまだ床に転がったままなのに気付き、遼は黙ってそれを引き寄せ、腕に抱え込んだ。

 

――――――「わあー気持ちいい風。見て見て、秀、空があんなに高いよ!」
ベランダで洗濯物を干しながら、嬉しそうにロビンが言った。
「ホント、いい天気だよな」
秀が相づちを打つと、ロビンはにっこり笑って大きく手を広げ、深呼吸する。
「空気も美味しい。いい所だよね、此処」
「まあな」
「秀達ってずっと此処に住んでるの? 別に兄弟とか親戚じゃないんだよね」
大きな目をした愛らしい顔で、ロビンが訊ねる。
「生まれた所も、育ってきた環境も違うけど、オレ達は仲間なんだよ」
「仲間?」
「そ、仲間」
軽くウインクをして秀はそう言うと、ポンっとTシャツを放り投げた。
ロビンはそれを上手に受け取ってロープに干す。
風がTシャツの裾をはためかせた。
「オレ達は、ずっと前から、出逢うべき仲間だったんだ。オレは、奴らに出逢う為なら、何でもする」
「…………」
「オレはずっと、自分の居場所を探してたんだ。きっと」
「居場所?」
「此処は、やっと見つけた、オレ達の居場所なんだ。今度こそ、平和に暮らす為の、オレ達の」
「……いいなあ」
眩しそうにロビンが言った。
「此処、いいよね。優しくって、暖かくって、ずっと居たくなるのわかる。みんなに出逢っちゃったら、帰りたくなんかなくなるもんね」
ロビンのさらさらの髪が風に舞う。
ふと、泣きそうな顔をしたロビンが、くるりと秀に背を向け、ベランダの手すりに寄りかかった。
緑に囲まれた、洋館。
木々のざわめきと、小鳥の声。
街へ出るにはバスに乗って30分もかかるこの家は、彼らにとっての聖域で、誰にも邪魔できない彼らだけの居場所。
大切な場所。
「……あっ」
手すりの間から下を覗き込んで、ロビンが小さく声をあげた。
「どうした?」
秀も隣に来て、下を見おろす。
庭では征士が恒例の朝の素振りをしている姿が見えた。
「……征士……素振りやってる」
「ああ、あいつ、真面目だからな。毎朝やってるぜ。いつもは朝食前にやってるんだけど、今日は出来なかったからな」
白い剣道着を着て、素振りをする征士。
毎日、毎日、この家に来てからずっと、征士は余程の事がない限り、朝の素振りを欠かしたことがない。
「剣道やめたわけじゃなかったんだ」
「……え?」
ロビンのつぶやきに、秀が驚いて隣を見た。
ロビンはそんな秀に気付かないまま、食い入るように素振りを続けている征士を見つめている。
「…………」
ぽりぽりと頭を掻き、秀は流れる雲を見上げた。
『夢はいつか覚めるものだ』
今朝方の征士の言葉がよみがえる。
「……なあ、ロビン」
秀の呼びかけに、やっとロビンが征士から目を離して、秀を見た。
「何?」
「夢、見ないか?」
「……?」
「ひとときだけのめちゃくちゃ楽しい夢。みんなで笑って、楽しんで、一生忘れられなくなるような、最高の夢」
「……秀?」
「んで、夢が覚めた時、オレ、お前の本当の名前を呼びたい」
「……!!」
ロビンが目を見開いて秀を見上げた。
「教えてくれるよな。お前の本当の名前」
「…………秀……」
笑った秀の顔は、ほんの少しだけ、寂しそうだった。

 

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