リトルバード−第1章:駒鳥−(3)

キッチンに戻り、夕食の支度を再開した伸と征士の元に、遼が嬉しそうな顔で報告に現れた。
「遼、どうだった?」
「うん。すぐ許してくれた。自分もびっくりして叫んじゃってごめんなさいって、逆に謝られちゃったよ」
そう言って、遼は伸の手元を覗き込んだ。
「仲直りできてよかったね」
「ああ。で、伸、今日の夕食の献立は?」
「ハンバーグにオムライス。ロビン好きかなと思って、お子さまメニューにしてみたんだけど」
「きっと喜ぶよ。ロビン」
伸はボールの中のミンチ肉を器用な手つきで取り出し、綺麗に丸く形を整えている。
伸の手にかかると、まるで魔法のように色々な食材が美味しそうな食事に変化していく。
「すごいよな、伸って」
肉をこねる伸の手元を覗き込んで、遼が言う。
そういえば、遼にはお母さんがいないんだっけ。今更ながらにそんな事を思い出し、伸はそっと横目で遼を見つめた。
今度、遼におふくろの味って奴を食べさせてあげたいな。僕では不足かもしれないけど。
心の中で色々なメニューを組み立てながら、伸がそんな事を考えていると、隣で遼が小さく、あっと叫んだ。
「何? どうしたの?」
「……伸、あのさ、昼間現像した写真、どうした?」
「あっ!……僕の鞄の中にしまったままだ。待ってて、すぐ取ってくるよ」
なんだか帰ってきてからバタバタしていてすっかり忘れていたと、慌てて伸は持っていたミンチ肉を台の上に置き、手を洗った。
「そんな、急がなくても、後でいいよ」
「大丈夫、すぐ取ってくるから」
タオルで手を拭きながら、伸は征士にちょっとごめんと、目で合図をしてそのまま2階へと駆け上がって行った。
「写真?」
征士がボールに卵を割り入れながら訊ねると、遼はちょっと焦った顔をして答えた。
「うん。桜の写真。この間撮った奴の残りなんだ」
「…………」
「……あの……そうだ、征士。よかったら夕食後、一緒に将棋やらないか?」
突然、無理矢理話題を変えて遼が言った。
「将棋? かまわないが、急にどうしたんだ?」
「うん、ロビンが教えて欲しいって言ってるんだけど、オレや秀じゃ軍人将棋や挟み将棋しか分からないから」
「当麻は?」
「当麻の教え方を理解できる奴なんて、そうそういないよ」
「確かにそうだ」
言ってから、おもわず2人は目を合わせて笑いだした。
当麻に言わせれば、解らないと言うことが理解できないらしいが、やはり、IQが高いとそういうものなのだろうかと、勉強にしても何にしても、皆あまり当麻に教えてもらうという事をしない。
もっぱら、そんな時、重宝されるのは一つ学年が上の伸なのだが、その伸本人は、たまに当麻のいる書斎に顔をだしている。
「なんか、楽しそうだね。何話してるの?」
片手に現像した写真とネガの入った袋を抱え、伸が戻ってきた。
「あ、伸。食後にみんなで将棋やらないかって話してたんだけど」
「将棋? いいよ。どうして?」
「ロビンが教えて欲しいって」
「ふーん」
やけに楽しそうな2人を不思議そうに眺め、伸は遼に持っていた袋を手渡した。
「じゃ、遼、これ」
「あ、サンキュー」
「綺麗に撮れてたよ。桜」
「…………っ!!!」
にっこり笑った伸を見て、遼の顔が引きつった。
「あ……あの、伸……」
「何?」
「中の写真……見た?」
「うん、ちょっとだけだけど……それが何?」
「……いや……その……」
「何かあるの? 全部綺麗に撮れてたよ」
「何が?」
「……何がって、桜の木」
「…………」
「遼?」
「あ、何でもない。ありがとな、伸」
やけに慌てて、遼は必死に袋を抱え込むと、パタパタとキッチンを出ていった。
「なんなんだろ、遼」
「さあ……?」
伸と同じく、征士にも理由が分からないらしく、2人は同時に首をかしげた。

 

――――――「当麻っ!!」
声と同時に、ノックをするのももどかしい様子で、遼が書斎へと飛び込んできた。
「遼? どうしたんだ?」
当麻が驚いて振り向くと、遼はつかつかと当麻のそばへ大股で歩み寄り、無言で手を広げて当麻の目の前へ突きだした。
「…………?」
なんとなく、そろそろ来る頃だと思っていたのか、少しも動じない笑顔で、当麻は椅子に座ったまま、遼を見上げた。
「この手は何だ? 遼」
「分かってるだろ。返せよ」
「何を?」
「当麻っ!!」
にやにやと意味ありげな笑いを口の端に浮かべる当麻を、遼はかっとなって睨み付けた。
「当麻! はぐらかすなよ! 抜き取ったんだろお前が。分かってるんだぞ!」
「だから、何を?」
「…………」
ふるふると怒りに震えながら、遼は蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「……返せよ……写真……」
「…………」
当麻のにやにや笑いがすっと消えた。
「当麻」
「まったく。そんな目をして見るなよ。オレがお前を苛めてるみたいに思えてくるじゃないか」
やれやれと立ち上がった当麻の顔を、遼は思い切り睨み付けた。
「あのな、遼。オレはお前に感謝されるならともかく、そんなふうに睨み付けられるような事をした覚えはないぞ」
「よく言うよ。人の写真、勝手に抜き取っておいて」
「伸の目に触れる前に隠してやったんだぞ、オレは。感謝してほしいね」
当麻の言葉にはっとして顔を上げた遼は、次いで耳まで真っ赤になってうつむいた。
「…………」
「お前、ホントにわかりやすい性格してるな」
「うるさい! 子供扱いすんなよ。もういいから、さっさと返せよ、写真!」
「分かったよ。今出すから」
遼の迫力に気圧されて、当麻が渋々、昼間抜き取ってしまっておいた写真をポケットから取りだすと、遼はひったくるようにそれを取り上げた。
「…………」
写真に注がれた遼の目が、安心したように輝きだす。
ほっと息を付く遼を、当麻はなんともいえない顔で見つめた。
「……しかし、お前に隠し撮りの趣味があったとはな」
多少、嫌みを込めて当麻が言う。
「…………」
「自分が隠し撮りされたなんて知ったら、伸はなんて思うかな?」
「うるさい」
むすっとした表情で遼が当麻の言葉を遮った。
遼の手の中の写真。
それは、桜の中の伸の姿だった。
舞い散る桜吹雪の中で、ふと遠くを見て、何かを想っている伸の表情は、儚げで、それでいて胸が痛くなる程、綺麗に見えた。
何を想っているのか。何を見つめているのか。
儚げな伸の表情は、遠い昔の1人の少女を思い出す。
透き通った緑の瞳をした。優しい少女。
「……あの時、伸の周りだけ、急に突風が吹いたろ。まるで、桜の花びらが伸を包み込むように飛び回ってるのを見て、オレ、気が付いたらシャッター切ってた」
「…………」
「絶対、残しておきたいって思ったんだ」
「…………」
その時、遼を突き動かしたのは、写真家としての衝動か、それとも相手が伸だったからなのだろうか。
舞い散る桜の花びら。
遠い思い出。遙かな記憶。
届かない想いを胸に抱いたまま、散っていった1人の少年の事を思い出し、当麻はふと、目を閉じた。
桜の季節は、柳の季節。
あれほどに舞い散る桜が似合う少年はいないだろう。
狂うほどに美しく儚い、淡い桜。
桜の花びら。
「……なあ、遼。ものは相談なんだが」
大事そうに写真を袋に入れようとしている遼に当麻がつっと近寄った。
「…………?」
「それ、オレにも焼き増ししてくんない?」
遼が目をまん丸に見開いて当麻を見上げた。
「……はぁ?」
「な、頼むよ、遼」
両手を合わせてお願いポーズをする当麻に対し、遼は迷うことなくきっぱりと言い放った。
「絶対やだ」
「おまっ……顔に似合わず、冷たい奴だな」
「うるさい。さんざん人の事苛めておいて、都合いいと思わないのか?」
「遼ー!!」
「やだったら、やだ。絶対誰にも渡さない。特にお前なんかに……」
当麻の伸ばした手から逃れて遼が身を反転させた時、突然書斎のドアが開いた。
「…………!?」
「当麻、食事の用意が出来たから、そろそろ……あれ? 遼、どうしたの? こんな所で」
「……伸!!」
硬直したまま2人は、入り口で不思議そうな顔をしている伸を見つめた。
「…………?」
「あ……何でもないない」
ぶんぶんと首を振り、遼は気付かれないように、なんとか写真を袋にしまうと、とりつくろった笑顔を見せた。
「ふーん。何もないならいいけど……」
「そうそう、ちょっと遼に休み明けの数学のテストの事、訊かれてただけ。な、遼」
「そ……そうなんだ。ホントは伸に訊きに行こうかと思ったんだけど、伸、忙しそうだったから、仕方なく……なっ、当麻」
なんとなくぎこちない2人に、納得のいかない顔をして、伸は腕を組んだ。
「ふーん、そう。僕はまた当麻と何か、よからぬ相談でもしてるのかと思ったよ」
「おい、伸、よからぬ相談って何だよ。オレがいつ」
「いつもだろ」
「お前なー」
口では文句を言いながら、少しも不満そうじゃない当麻を見て、遼の心の中に何だかもやもやしたものが膨れ上がってきた。
本当に、当麻はなんて幸せそうに伸を見るのだろう。
なんとなく居心地が悪くなって、遼はふと視線を逸らした。
「何、当麻。人の顔じろじろ見て。何かついてる?」
やけにじっと見つめられて、伸が多少たじろいでそう訊ねると、当麻はその質問に答える代わりに、背中越しに遼に向かって言った。
「遼、やっぱいいや、さっきの」
「…………」
「写真なんかより、実物の方が全然良い」
「……は?」
話が見えなくてきょとんとした伸を、いきなり当麻が抱き寄せた。
「ちょっ……とっ……当麻? 何すんだよ」
じたばたと暴れだす伸の身体を、しっかりと抱きしめる当麻を見て、遼の血管がブチンと音を立てて切れた。
「伸っ!!!」
「……はい」
おもわず振り向いた一瞬の隙をついて、遼は伸の腕をつかむと、書斎のドアを開け、そのままずるずると伸を引っ張って出ていった。
「…………」
「ちょっと……遼? どうしたの? 遼?」
とまどったように投げかけられる全ての問いかけに一切答えないまま、遼は無言で伸の腕をつかんだまま離さなかった。

 

前へ  次へ