心より深い場所 (5)

一輝が蒼龍達の洞窟を訪れてから三日後、ようやく朱雀は起きあがれるほどに回復した。
久々に洞窟の中から顔を出した朱雀に疾風が嬉しそうに笑顔を向ける。
折れてしまっていた腕には添え木がまだ必要だったが、不幸中の幸いか、足には異常はなく、歩くことは出来そうだ。
大きく伸びをして深呼吸をした朱雀は、次いで不機嫌そうに顔をしかめた。
「どうした? 朱雀」
疾風が首をかしげる。
「息すると痛えんだよ。まだ」
「そんだけ内蔵ぐちゃぐちゃだったってことじゃないの? まあ、肋骨が折れて肺を突き破ったりしてなくてよかったねって兄者も言ってたし、それくらい我慢しなきゃ」
「……けっ」
笑えない冗談に軽く舌打ちをして朱雀は山の中へと歩きだした。
「何処行くの?」
「水浴び」
疾風の問いにぶっきらぼうにそう答え、朱雀はまだ痛み続ける身体を押して、岩場の影に消えていく。
一瞬ついていったほうがいいかなと走りだしかけた疾風は、目の端に映った亜門が大丈夫だと言いたげに首を振ったので、足を止めた。
「大丈夫?」
「ああ、嫌な気配は周りには感じない」
亜門に言われて、疾風はぐるりと空を見回した。
確かに、つい数日前まで張りつめていた、ピリピリとした気配は、今はもうない。
島の中央にある活火山の麓に戻っていったという一輝の殺戮の噂ももう聞こえてこない。
今となっては、最初に聞いた一輝の噂も真実だったのかどうか怪しいものだ。
島の人間を追い立てるように殺戮を繰り返しているという噂は確かにあったが、実際殺されている死体を見たわけではない。
もしかして、一輝はこの島にいる人間全員を追い出そうとしていただけなのだろうか。
だとしたら。あの男は独りになりたかっただけなのだろうか。
誰も信用できず、何処にも居場所がなくて、独りになりたかっただけなのだろうか。
「あいつ……何者なんだろう……」
ぽつりと亜門がつぶやいた。
独り言のようなその言葉に疾風はふっと笑って肩をすくめる。
「何者って……あの人はあの人だよ。フェニックスの青銅聖闘士。一輝」
「…………」
「一輝様は一輝様だよ」
「…………」
「あの人の心の奥がどうなっているのかは、亜門が一番わかるんだろう」
「……そうだな」
一番解る。確かに。
何故なら、本当に隠しもしないのだから。何もかも。あの人は。
一点の曇りもない、その本心で、一輝は自分達を妙な奴と言いながらも、人間だと思ってくれていた。
光の中にいる青銅からも白銀からも黄金からも目を背け、自ら暗黒の闇の中を歩こうと決めた自分達を、卑下する心も、排除しようとする心も、何もなく、むしろ一輝が向ける憎しみの先にはもっと別の何かがあるような気がした。
深くて深くて深すぎて、そこまで辿り着けないような心の深いところに、何かがあった。
真っ白な雪の上に散った一点の黒い汚れのような染み。
そんな何かがあった。

 

――――――ずっと洞窟の奥にいた所為か、太陽の光が眩しい。
焼けるように熱い岩肌に手をかけて、よじ登ると、もわりと熱い空気が肺に流れ込む。
額に浮かんだ汗を拭い、その岩を飛び越えて、朱雀はようやく島の奥深くにある小さな泉の前に来た。
「案外遠く感じたな……身体がなまってる証拠だぜ、まったく」
自分自身を叱咤しながら、朱雀は衣服を脱ぎ冷たい水の中に飛び込んだ。
まだ包帯を巻いている左腕がズキリと痛んだが、そんなことより水の中にいるという気持ちよさの方が上をいく。
まだ傷が完治していないのに何をやっているのだと、怒る蒼龍が目に浮かんだが、そんなことに構ってなどいられない。
先程よりかは幾分楽に呼吸が出来るようになり、朱雀はようやく人心地ついたよう水に浮かんだまま空を見上げた。
光が眩しい。本当に眩しい。
もう二度とこの景色は見られなくなると思っていた。
諦めなのか、絶望なのか、あの時はよく分からない感情が心の中を支配していた。
悔しくて、歯がゆくて、そして、同時に感じた妙な安心感。
これで終われるのかもしれない。
「……何言ってんだ。死んだって地獄であの親父が手ぐすね引いて待ってるだけだっていうのに……」
自分で自分の考えに苦笑する。
何が終わる。終わりなど何処にもないのに。
地獄は何処まで行っても地獄なのに。
「…………」
「その様子では体力は随分と回復したようだな」
「…………!?」
突然の声に朱雀はザンッと水飛沫を上げて水中に身体を隠した。
「誰だ……!?」
叫びかけた朱雀の言葉が途中で途切れる。
見間違うわけはない。額に大きな傷跡の残るその男の顔。
「お前……フェニックス?」
「…………」
一輝はじっと水の中にいる朱雀を見下ろしていた。まるで探るようなその視線に朱雀が居心地悪そうに身じろぎをする。
「傷は……もういいのか?」
「見りゃわかんだろ。三途の川は渡りそこねた。せっかくあんたが舟に乗せてくれたってのにな。残念かい?」
「…………」
「と言っても、その舟から引きずりおろしたのも、同じあんただっけ? ホント、変な奴だよね、あんたって。傷の治り具合が見たいならこのまま水からあがって見せてやろうか? あんた相手に奉仕する気はないけど、穴の中くらい見せてやるよ」
「…………!?」
一糸まとわぬ姿のままで恥ずかしげもなく水からあがってきた朱雀に、思わず一輝の方が後ずさりした。
「それとも、ここでもう一戦やるか?」
「な……何を言ってる。今のお前にオレが倒せるわけないだろう」
「どうかな……」
可笑しそうにクスクス笑いながら、朱雀はさっと一輝のそばまで駆け寄り、その首に手を回した。
「あんた、随分動揺してる。今なら隙だらけなんじゃないのか?」
「…………」
濡れて雫の垂れている朱雀の絹糸のような髪を掴み、一輝はぐいっと朱雀の身体を自分から引き剥がした。
「そういう態度にでるなら、今度こそ容赦しないぞ」
「どう容赦しないんだよ。あんたにオレは殺れないんだろう」
やはり可笑しそうに朱雀はクスクスと笑い続ける。
一輝はじろりと朱雀を睨みつけた。
「…………」
「亜門が言ってた。あんたにオレは殺せない。何があっても」
「……奴が……?」
一輝が驚いたように目を瞬いた。
朱雀はそんな一輝を見て、ついに吹き出し、腹を抱えて笑いだした。
「冗談みたいだ。まさかと思ったけど本当なんだな」
「…………」
「何のしがらみがあるんだ? アンドロメダの鎖に縛られているのは、オレよりあんたの方だって、あいつが言ってた。オレにはその意味するところなんて分からない。分からないけど……」
「…………」
「けど……ちょっとあんたに会って興味が湧いた」
「…………本当に、お前を殺せていたら、オレは解放されたのかも知れないな……」
意味深な一輝の台詞に朱雀が呆れたように肩をすくめた。
「何言ってんだ。どうせあんたは今まで誰のことも殺せてないんだろう?」
からかうように朱雀が聞いた。一輝は不機嫌そうに眉を寄せ、小さく息を吐く。
「人を殺したことくらい、ある」
「ふーん。じゃあ、オレと一緒だ」
まるで、何でもないことのように朱雀は笑ってそう言った。

 

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