鼓動−第2章:烈火−(3)

胸の上に重い影がのしかかってくるような夜、あまりの息苦しさに夜光はうっすらと目を開けた。
月のない暗闇の中、隣でかさりと人の動く気配がする。
「……烈火? どうした?」
身を起こし、顔をあげると、隣で寝ていたはずの烈火が、枕元にあった剣を取り、すっと立ち上がった。
「烈火?」
「嫌な気配がする」
「…………」
「背中がざわざわするんだ。ちょっと見てくる」
「待て、烈火。私も行く」
夜光の言葉を待たず、烈火は外へと飛びだして行った。
急ぎ、自分の長剣を手に夜光も後を追って駆けだしたが、まるで昼の光の中を走るように何の抵抗もなく細い獣道を走る烈火の健脚に、さすがの夜光も見失わないよう務めることで精一杯だった。
ピンっと空気が張りつめていくのを感じる。
「…………!!」
やはり、何者かがいる。
そう思ったとたん、烈火の気が一気に高まった。
「…………!?」
周りの温度がばっと上がったかと思うと、次の瞬間、相手に反撃の隙一つ与えないまま、烈火の剣がうなりをあげて相手の背中を真一文字に切り裂いた。
声を発することもなく、刺客は前のめりに倒れ、そのままピクリとも動かなくなった。
あまりにも冷静な剣さばきと、少しも乱れない呼吸。
夜光の背筋に冷たいものが走った。

強くなった。
本当に、烈火はいつの間にこれ程強くなったのだろう。
夜光は声をかけることをためらい、しばらく木の影から烈火の様子を窺っていた。
もう動かない屍を前に烈火がきつく唇を噛む。
「…………」
ザッと地面に己の剣を突き立て、ふいに烈火は天を仰いだ。
「……いい加減にしろ……」
微かな烈火の呟きが夜光の耳に届いた。
「……いい加減にしろ。何を考えている。何故、このような者を送ってよこす。この程度の奴をいくらよこしても、オレを倒すことなど出来ないことは解るだろう!?」
「…………」
「何故、無駄なことを繰り返す。いつもいつも後ろにいて、高みの見物をして……貴様が欲しいのは、オレの命だろう? 貴様は、オレを倒したいのだろう? なら、オレの前に出てこい! 直接オレと戦え!!」
夜の闇を睨み付けて、烈火が叫んだ。
烈火の叫びに答えるように、遠くで梟が低く鳴く。
夜光はそっと額に浮かんだ汗を拭った。
「……これではオレは倒せない。オレは死なない」
「そうとも、お前はその程度では決して死なぬだろう」
突然、地の底を這うような不気味な声が辺りに響いた。
「……!?」
「お前は死なぬ。そして、お前の前には、お前が殺したあらゆる者達の屍の山が築かれていく。見てみろ、烈火。お前の殺した人々を。お前の剣はそうやって人々の血を吸い続ける。お前が強くなれば強くなるほど、お前の剣は血で重くなる」
「……オレは……」
「自分の手を見たことがあるか? 烈火。血に染まった己の手を」
烈火の手が小刻みに震えだした。
「お前の強さは充分儂を楽しませてくれる。お前の中には儂と同じものが流れている。強さを求める、戦いの血がな」
「オレは貴様とは違う!!! オレは、貴様のように人々の心を操って、無駄な血を流させたりはしない!!」
「ふはははは」
地面が震えるほどの高笑いが響き渡る。
「儂は心を操ったりなどしておらん。儂がやっているのは、人々の心の中に潜む欲というものを思い出させてやっているにすぎん。あれは、もともとすべての人間共の心の中に巣くっているものだ」
「…………」
「強くなれ、烈火。そして、己の強さゆえ傷つけ。お前のまわりの屍の山に、お前が埋もれてしまうまでな……」
引きずるような不気味な笑い声を残して、気配は闇に消えていった。
僅かに残った実体のない邪悪な気だけが辺りに漂っている。

「烈火」
夜光の気配に気付き、烈火が振り向いた。
「烈火、1人で走るな。次は私がやる」
「そして、オレのかわりにお前の手が血に染まるのか?」
「…………」
「それでは、何一つ変わらない」
そう言った烈火の手から、血の滴がしたたり落ちた。
「何も変わらないんだ、コウ」
「……烈火。そのままでは、一歩も前へ進めなくなるぞ」
「…………」
烈火が哀しげに笑った。

 

――――――潮の香りのする海辺の小さな村。
返り血を浴びた赤い鎧を指さし、煤で汚れた顔の1人の少年が言った。
「人殺し!」
決して泣くものかと、唇を噛みしめ、じっと自分を睨み付ける大きな二つの瞳。
「人殺し!! お前だってただの人殺しだ! あいつらと変わんないよ! ……正義の名のもとになら何をやってもいいのか? 父ちゃんを返せ!!!」
「…………」
「返せよ!!」
年の頃は水凪と同じくらいだろうか。
烈火は、何も答えられず、その場に立ちつくした。
少年の足下に倒れているのは、流れ矢にあたって命を失った彼の父親だ。
「…………」
どす黒い血で胸を真っ赤に染め、苦しげに顔を歪ませて、命の炎を消した男。
その矢を放ったのは、もちろん烈火ではない。
だが、この男を死に追いやったのは恐らく自分なのだ。
自分達の戦いに巻き込まれて、この男は死んだのだ。
自分は、この男を殺せる力があるのだ。

「……オレが憎いか? 少年」
低く烈火がつぶやいた。
「お前の父親を救うことが出来なかったオレを憎いか?」
「…………」
「憎ければ強くなれ。そして、オレを殺してくれ」
「…………!!」
少年が驚きに目を見開いた。
「今のお前ではオレを殺せない。だから、もっと強くなれ」
「…………」
「それが、お前の望む正義なら」

烈火は力を込め、刀の柄を握りしめた。
骨張った手。
跳ね返った返り血で、どす黒く汚れた自分の手。
もう、いくら洗っても消えない数々の染み。血の匂い。
血の匂い。

 

――――――「何をしている?」
じっと河の水に両手を浸している烈火の背に、夜光が声をかけた。
「……別に……」
言いながら、烈火は滴の垂れる両手を空にかざす。
「とれないんだ」
「……?」
「いくら洗っても……」
「……何が……?」
空にかざされた烈火の手は何処も汚れてなどいなかった。
「何がとれないんだ?」
「黒い染みだよ。どす黒い」
「……烈火……」
烈火はくしゃりと前髪を掻きむしった。
濡れた手で触ったため、髪から頬へと滴が流れ落ちる。
「烈火、何かあったのか?」
「何故そんな事を訊く」
「……最近、お前の笑顔をあまり見なくなった気がする」
「気のせいだよそんなの」
そう言って烈火は無理矢理作ったような笑顔を夜光に向けた。
「烈火、私は冗談で言っているのではない」
「……」
烈火の黒曜石の瞳がじっと夜光を見つめた。
「烈火。そのままでは、一歩も前へ進めなくなるぞ」
「……この間も同じ事を言ったな、コウ。どういう意味だ?」
「どういう意味もない。言葉通りだ」
「…………」
「最近のお前を見ていると、不安になるんだ。どうしてだか解らないが、とても不安になる」
「珍しいな、お前がそんな感情だけでものを言うなどと」
「烈火!」
立ち上がった烈火の瞳が太陽を背に鈍く光った。
「何故そんな事を言いだす、コウ。オレの剣に迷いでも見えるのか?」
「……それ……は……」
夜光は言葉に詰まった。
真っ直ぐに自分を見つめる黒曜石の瞳。
夜光は小さく首を振った。
烈火の剣には迷いなど見えない。それどころか、むしろこの頃の烈火の戦いには鬼気迫るものがあった。
的確な状況判断。何の躊躇もなく振り下ろされる剣。冷静な表情。
本当に、烈火がそばにいると負ける気がしなかった。
なのに。

「コウ……オレは昔、お前に言ったよな。強くなりたい……と」
「ああ」
「強くなったろう、オレは」
「…………」
「そう、オレは強くなった。強くなることがオレの願いだった」
「…………」
「そして、今オレは平気で人を殺せるほど強くなった」
「…………!!」
夜光がはっとして烈火を見つめた。
烈火はすらりと己の剣を鞘から抜き、夜光の目の前にかざす。
黒光りする使い込まれた烈火の剣。炎の剣。
「解るか? オレは平気で人を殺せるんだ。剣を手にしたとたん、目の前にいる敵はもうオレにとって人間でも何でもない。ただの物でしかなくなる。オレは何の感情も持たず、その目の前の物をぶったぎるんだ。哀しみも哀れみもない。涙も流れない。オレの心はどんどん鉛のように重く、固くなっていく」
「…………」
夜光は目を見開いてまじまじと烈火を見つめた。
「そして、返り血を浴びて、やっと気付くんだ。今自分が倒した相手は物ではなかったのだと」
「…………」
「時々思うよ。オレはもう人間の心を持っていないのかもしれない……と」
「烈火!!」
たまらず夜光は立ち上がり、烈火の剣を奪い取った。
「何故そんな言い方をする?!」
「…………」
「烈火。自分で自分の心を傷つけてどうする。そんな事を言うのはやめろ。お前が誰よりも戦いを疎んでいることくらい、皆知ってる」
「…………」
微かに烈火が笑った。酷く傷ついた目をして。
「解らないんだ。コウ。オレは何をやっているんだろう」
「烈火……」
「オレは人を殺せる。その力がある。どの間合いで、どう動けばいいのか。何処をねらって何をすればいいのか。心より身体が先に反応する。……剣を振り下ろす瞬間、オレの前にあるのはただの物体だ。それは決して人間などではない」
「…………」
「オレは何をやっているんだろう。自分がやっていることは正義なのか? オレの力で本当に人々は救われる時が来るのか?」
「…………」
「もし、救われるとしても、その過程でオレがしてきたことは正しいことなのか? 正義の為なら、人を殺めても許されるのか?」
「…………」
「ただ、手足が痺れてくるんだ。剣を振り下ろす度。返り血を浴びる度。……本当だ、コウ。お前の言うとおりだ。オレはもう、歩けないのかもしれない」
「烈火……」
「手足が重いんだ。重くて、もう持ち上がらない」
烈火が苦しげに瞳を伏せる。
烈火の肩にのしかかる戦いという現実の重さ。
強くなればなる程、烈火は己の強さゆえ傷ついていく。
人を殺せる、その忌まわしい力の所為で。

「烈火。お前には護るべきものがあるだろう」
「……コウ……」
「護るべき者の為に戦え」
はっとして、烈火が夜光を見た。
「お前のそばには、まだ愛しい者がいるだろう」
「……コウ……」
ふわりと夜光の髪が風に舞った。
長い長い髪。込められた想いと共に伸ばされた長い髪。
永遠の別れの時が来ても、ずっと夜光の心の中に生き続けるただ1人の女性の為。
「すまない……夜光……」

届かなかった手。間に合わなかった想い。
あと少しで城ごと崩れ落ちるのではないかと思うほどの怒りの放出。
そして、永遠に失ってしまった想い人。
夜光にとって、ただ独りの愛しい人。

知っていれば。
あの方が何処の誰だか知っていれば。そうすれば恋などしなかったのだろうか。

はらりとほどけた夜光の一房の髪を手に取り、烈火はその髪にそっと口付けた。

 

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