鼓動−第1章:追憶−(3)

「どうしたのだ、当麻、その顔は」
居間に入ってきた当麻の様子に、征士はおもわず読んでいた新聞から顔をあげた。
「……どうしたって……?」
「左の頬。赤く腫れ上がっているぞ。誰にやられたのだ?」
「……ああ、伸だ」
征士の座っていたソファの足下に崩れるように座り込み、当麻は頭を抱えた。
「珍しいな。伸が手をあげるなど。何をしたのだ、いったい」
「…………」
ソファの角に突っ伏したまま、当麻は答えようとしなかった。

あんなふうに泣くなんて。
伸の両目から涙がポロポロ溢れてきていた。
後から後から、涙が頬を伝って流れ落ちていた。
伸。
あんなふうに泣くなんて、思わなかった。
自分が伸を泣かせてしまうなんて。

「で、当麻。どっちが悪いんだ?」
新聞をたたみ、テーブルの上に置くと、征士は床の上に座り込んだままの当麻に訊いた。
「……オレ……です」
「…………」
「オレが全面的に悪かったんです」
くしゃりと前髪を掻き上げ、自嘲気味に当麻が言った。
「オレが人一倍欲深いのがいけなかったんです」
「…………」
征士の紫水晶の瞳が当麻をじっと見つめた。
「当麻、欲深いというのは、満腹なのにも関わらず、他の物にまで手をだして自分の前に積み上げる者の事を言うのだ。貴様が欲しいものはひとつだけだろう。そういうのは欲深いとは言わん」
「…………」
そっと、当麻が顔をあげた。
「それと、ひとつはき違えてはいないか? お前が真に望んでいるものは何だ」
「…………」
真に望んでいるもの。
「…………」
当麻を見つめる征士の涼し気な瞳は、何故かとても優しかった。
「オレの……望み……?」

望んだものはただひとつ。
誰にも譲れないただひとつの想い。
抱えきれないほどの記憶の渦の中で、たったひとつ忘れたくないと思った、この想い。
自分のすべてをかけて護るべき大切な想い。

「……オレは……」
「解っているならいい。」
ふっと唇の端で笑い、征士は再び新聞を手に取った。

 

――――――「5回目」
大鍋の中のシチューを掻き回している伸の手元を見ながら、キッチンの椅子の背にもたれて秀がぼそりと言った。
「えっ?」
何のことかと顔をあげた伸に呆れた顔で頬杖をつくと、秀はもう一度先程より大きな声で告げた。
「5回目だよ。さっきからお前がため息つくの」
「……あ……」
「気付いてなかったのか?」
「……うん……」
小さく頷き、伸は大鍋を再び掻き回す。
ほわんと、クリームシチューの柔らかな匂いが広がった。
結局、遼の作った魚は、食べられたものではなくなっていた為、伸は残り物の野菜を使い、クリームシチューを作っていた。
秀に手伝ってもらいながら、材料を切り、コトコトと煮込む。
灰汁をすくい、ホワイトソースを入れる。
単調な作業を繰り返しながら、伸はまたひとつため息をついた。
「ため息をひとつつくと、倖せがひとつ逃げていくんだぜ。知ってるか?」
「そういうものなの?」
コンロの火を弱火にして、伸が振り向いた。
「そうだよ。今、お前、少なくとも5つの倖せを逃したんだぜ。勿体ない」
「…………」
逃げていく倖せ。
ふと、伸はまだじんじんと痛む自分の右手を見た。

あんなふうに泣くつもりなどなかったのに、自分が抑えられなかった。
“嘘つき”
そう言った時、当麻は信じられないといった顔をした。
気付いてない。
嘘つき当麻。
そばに居るって言ったくせに。
もう何処へも行くなって言ったくせに。
その本人が、本当はちっとも信じてなかったんだ。

疲れたように伸はキッチンの椅子を引き寄せ腰掛けた。
「何かあったのか? どうしたんだよ、伸」
秀の眉が心配気に寄せられる。
「さっきの騒ぎのこと、遼にきつく言い過ぎたとか?オレも煙があまりにすごかったんで火事かと思って大騒ぎしちまったけど……」
「そうじゃないよ、秀。ごめんね。僕が悪いんだよ。何もかも」
「…………」

自分自身に整理がつけられない。
どんなに取り繕ってもぼろが出る。
遼の瞳はいつだって真実を見抜くこと、解っていたはずなのに。
遼も当麻も、ただ気付いていただけなのだ。
自分が、まだあの人のことを忘れていないことを。

秀が考え込むように椅子の背に体重を預けて天井を見上げた。
「煙の中に、烈火の幻でも見たのか? お前」
「…………!!」
秀の言葉に伸がビクリと顔をあげた。
「秀……?」
「その顔は図星だな」
「…………」
「実は、オレもさっき烈火が来たのかと思っちまった」
「…………」
ぽりぽりと頭を掻きながら、秀が言った。
「オレ、烈火が死んだ時って、当麻から訊いた話でしか覚えてないんだけど、さっき、ああ、こんな感じだったのかなって……お前の顔見て思った」
「……秀……」
伸がゴクリと唾を飲み込んだ。

そうなのだ。
鋼玉は見ていない。
烈火の死の瞬間を。
あの時、あの場所に居たのは、自分と、駆けつけて来た天城だけだったのだから。
炎の中の烈火の姿。

ドクン……!
伸は無理矢理胸の鼓動を抑えつけた。

「オレさ……ずっと前、当麻に訊いたことがあるんだ。烈火が死んだ後オレ達どうなったんだって。オレさ、よく覚えてないんだよ、これが。烈火が死んだ後の事。烈火の死んだ瞬間も見てないしさ……なんか、あいつ、ずっと生きてるような……何処かにいるような気がしてさ……」
「それ訊いた時、当麻はなんて答えたの?」
「ん……楽しいことなんか何にもなかったから、知らなくていいんじゃないかって」
「…………」
「オレ、すんげえ悪いこと訊いたなと思って、それから訊くのをやめた」
「……そう……」

楽しいことなんか何一つない、当麻が覚えている時間。
烈火が死んだ後の残された仁の珠と、壊れてしまった水凪の心。
それだけ当麻は教えてくれたのだと、秀はぽつりと言った。

可哀相な水凪。
あの少年はあの時のまま、今でも烈火を求め続けているのだろうか。
転生してもなお、消えない心のままで。

ドクン……!
また、伸の胸の鼓動が大きくなる。
烈火。あなたの為に、強くなろうと思った。
あなたと生きる為。共に戦う為。あなたを守る為。
あなただけが僕のすべてだった。

それなのに、あなたは逝ってしまった。僕をおいて。
あなたにとって、僕はどんな存在だったんですか?
捨ててしまっても構わない存在だったんですか?
僕はいらない子供だったんですか?

あなたがいなくなった後は、何も聞きたくなかった。
一言、何かを言ったら、あなたの声を忘れてしまうような気がした。
一つ、何かを見たら、あなたの笑顔を忘れてしまうような気がした。
誰かに心を向けたら、あなたが僕の中から消えてしまうと思っていた。

だから、誰の事も見ない。
誰の声も聞かない。

もう二度と……。

「伸……? 大丈夫か? お前、顔真っ青だぞ」
「……え?」
秀が心配気に手をのばした時、伸の身体がピクリと痙攣した。
「……!?」
左胸を押さえ、伸が椅子から崩れ落ちる。
「伸!!」
派手な音をたてて、床に倒れ込んだ伸の身体を慌てて秀が抱え起こすと、伸はぎゅっと目をつぶって苦しげな息をもらした。
「おい……伸?」
「……と……」
「……えっ? 何だ!? ……伸?」
「……と……う…ま……」
微かな声で、伸が当麻の名を呼んだ。
「当麻? わかった。すぐ呼んでくるから。しっかりしろよ! 伸!!」
伸の身体をそっとそばの棚にもたれさせて座らせると、秀は急いでキッチンを飛びだした。

 

――――――「当麻!!」
書斎を覗き、当麻の姿がないのを確認すると、秀は居間へ飛び込んだ。
「当麻!! 居るか!?」
「どうした? 秀。」
ソファに座り、新聞を読んでいた征士が、血相を変えた秀の態度に驚いて振り向いた。
当麻も、何事かと顔をあげる。
「当麻!! 来い! 伸が倒れた!!」
「伸が!?」
征士の足下にうずくまっていた当麻が、弾かれたように立ち上がった。
「早く来い! 伸が呼んでる!!」
顔を強ばらせて、当麻は居間を飛びだし、キッチンへと駆けつけた。

「伸!!」
キッチンの隅で胸を押さえ、うずくまっている伸を見て、当麻の血の気がさっと引いていく。
「伸!!!」
急いで駆け寄ると、伸が僅かに顔をあげた。
「と……う…ま?」
かすれた声で、伸が当麻を呼んだ。
ドクン……!
再び鼓動が鳴る。
「伸……」
苦しげな伸の額にすーっと汗がにじんでくる。
伸は必死で、胸の鼓動を抑えつけ、苦しげな息をもらしていた。
「伸……・大丈夫か?」
汗に濡れた前髪をかき分け、当麻が伸の額に手を当てる。
熱はないようだ。
その時、当麻の服の袖を掴む伸の手が小刻みに震えだした。
まるで、何かに怯えた小さな子供のようだ。
思わず、伸の身体を抱え直そうとのばされた当麻の手が、伸の表情を見てふと止まった。
「…………?」
当麻の眉が寄せられる。
「伸……?」
俯いた伸の身体から、その時、陽炎のような熱が立ちこめ、当麻の目の前で、伸の輪郭がぼやけて揺れた。
「…………!!」
ぼやけた輪郭の向こうに、小さな1人の少年の姿が写り、当麻は小さく息を呑んだ。
淡い、栗色の髪をした、幼い少年。
露に濡れた若葉のような緑の瞳。
何かを探すように首を巡らせたその少年の瞳は、何も映してはいなかった。

「秀……どういう状態で伸は倒れたんだ? 何をしていたんだ、一体」
背中越しに当麻が鋭い声で訊いた。
「何って……別に……話ししてただけだぜ。そしたら、いきなり倒れて」
「何の話だ」
「……えっ?」
「何の話をしていた」
「……何のって……」
「烈火か?」
烈火の名前に反応して、伸が当麻の腕の中で、ピクリと身体を震わせた。
「伸……」
当麻は伸の身体を抱えるようにそっと自分の元へ引き寄せた。
「伸……解るか? オレだ。当麻だ」
「……」
「オレの事、解るか?」
伸の耳元に口を寄せ、囁くように当麻が言うと、伸が小さく頷いた。
青ざめた伸の顔をじっと覗き込んでいた当麻は、やがて伸の身体をそのまま抱え上げ立ち上がった。
「2階へつれていく」
呆然とした顔をしている秀に一言、短くそう言うと、当麻はスタスタと階段を上がって行った。
「……水凪……?」
階段をあがる当麻の背中を見送りながら、秀が低くつぶやいた。

 

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