鼓動−第1章:追憶−(2)

「わー!! 遼! 何やってんだ!?」
その日の夕方、部屋でうとうとしていた伸は、秀の素っ頓狂な叫び声に慌ててベッドから飛び起きた。
「遼!?」
シーツをはねのけ、部屋を出ると、伸は息を切らせて階段を駆け下りる。
「…………!?」
1階のキッチンのうすく開いたドアの隙間から、モクモクと煙が立ちのぼっているのを見て、バタンと勢い良くドアを開けた伸は、部屋の中一面のドライアイスを焚いたかの様な真っ白な煙の中で、激しく咳き込んでいる遼の様子に、一瞬表情を凍り付かせた。
伸の頭の中に、忘れたくても忘れられない、ある光景が浮かぶ。
「…………」
煙の中。炎の中の。
ドクン……!
おもわず左胸を押さえた伸は、心の中に浮かんだものを振り払うように激しく頭を振り、急いでガスの元栓を切り、窓を全開にすると、換気扇をまわした。
「……一体どうしたんだい? 遼」
「……オレ、少しでも伸の役にたてばと思って…………」
「……えっ?」
遼の視線の先に、コンロの上で丸焦げになっている鯖の切り身があった。
「…………」
恐らく、先程具合の悪そうだった伸の身体を気遣って、代わりにキッチンに立ったのだろう。
伸が食べられるようにと、きちんと頭を取り、形が解らないようにして網の上に並んでいる鯖は、強すぎた炎の為に、真っ黒に煤けてしまっている。
「…………」
「ごめん……伸」
「……謝ることないよ、遼。それより大丈夫? 火傷とかしてない?」
「大丈夫」
自分の不甲斐なさに腹を立てているのか、口を一文字に結んだまま憮然とした表情をしている遼を見て、伸は小さく肩をすくめると、秀に後かたづけを頼み、遼を連れて居間へと移動した。

 

――――――「オレって何やってもダメだな」
「そんな事ないよ」
「だって、魚ひとつ上手く焼けない」
「…………」
「いつも迷惑ばっかかけて……たまに何かやろうとしてもかえって手間増やすばかりで……」
「……遼……」
遼はいつも、何をやるにしても真剣そのものだ。
慣れない手つきで、それでも必死に何かをしようとする。
いつだって真剣な遼。
以前の烈火と、そういう所はとてもよく似ているのかもしれない。
でも、烈火は器用に何でもこなした。
明らかに遼とは違う。
いつも、何をやっても敵わなくて、追いつけなくて。

遼は、過去の記憶を持たない。
持つべき過去はないのだから。
遼は、あの時、命を懸けた彼の人の身代わりなのだから。
守りたくて、守りたくて、守りきれなかった彼の人の。

「伸はオレを見てないな」
「……えっ?」
突然の遼の意外な言葉に無理矢理現実に引き戻された伸は、真っ正面で自分を見つめる二つの瞳が少し潤んでいる事に気付き、慌てた。
「ちょっ……何? どういうこと? 遼」
「気付いてないのか?お前。全然オレを見てないじゃないか」
「……そんな事ないよ」
「見てない!!」
とうとう大粒の涙が一粒、遼の頬を流れ落ちた。
「りょ……遼!?」
遼の変化にとまどい、それでも心配気にのばされた伸の手を振り払うと、遼はキッと睨み付けるように伸を見た。
「解らないよ。遼。どうして急にそんなこと言い出したのか」
「……急じゃない。ずっとだ。伸はいつもオレを通り越して他の誰かを見てる」
「…………」
伸の瞳が僅かに見開かれる。
「伸の見てるのはオレじゃない。オレじゃないんだ……!」
「…………」
いつも見ていたのは、あの人の優しい笑顔。
遼と同じ赤い鎧を身にまとって、戦いの炎の中に飛び込んでいった人。
「ごめん……遼……」
遼の顔を直視できず、俯きながら伸が言った。
「なんで、謝るんだよ」
「……それは……」
「オレが言ってることは無茶苦茶な事だっていうの、オレにだって解る。なんで、お前はすぐそうやって謝るんだよ」
「…………」
それは、君を哀しませたくないから。
伸は無言で、涙で潤んだ遼の顔を見上げた。
「伸は優しい。いつもいつも。オレがどんなドジ踏んでも、バカな事しても怒らない。当麻や秀にはポンポン嫌みも言うのに」
「…………」
「なんで、オレに対してだけ、そんなに無理するんだよ」
「……何言ってるんだよ、遼。僕は無理なんかしてない……」
「してるよ。めいっぱい」
伸の言葉を遮って遼が言った。
「お前はいつだって、オレを傷つけないようにって気を遣って喋ってる」
「…………」
「否定できないだろ」
「……遼……」
「無理なんかして欲しくない。そんなの、伸の本当の気持ちじゃないじゃないか。オレが聞きたいのは……お前のそんな言葉じゃない……オレが見たいのは……お前のそんな顔じゃない……」
言いながら、再び遼の瞳に涙が盛り上がってくる。
「……遼……」
どう言えばいいのだろう。
どう言えば伝わるのだろう。
君だけが(あなただけが)大事だったのに。
「……オレ、何言ってるんだろ……ホント……」
「…………」
「ごめん…………」
そう言って遼は涙に濡れた瞳のまま立ち上がると、伸の止めるのも聞かず、居間を飛びだした。
「遼!! 待ってよ! ……遼!!」
「遼!?」
ちょうど居間に入ってきた征士と入り口の所でぶつかりかけ、遼はその潤んだ瞳で一瞬征士を見上げると、そのまま無言で2階へと駆け上がって行った。
「…………」
物言いたげな視線を伸へ向け、征士はすっと伸の向かいのソファに腰掛けた。
「……伸……?」
「……どうしよう……あの子を泣かせてしまった。何やってるんだろう……僕は……」
「…………」
「最低だよ。どんどん自分が嫌になる」
うつむいてきつく唇を噛む伸を見て、征士がぽつりと言った。
「そういうお前は、泣かないんだな」
「……?」
顔をあげた伸を征士がその紫水晶の瞳で見つめ返す。
「お前は、いつもそうやって、泣きたい時も歯を食いしばって耐えているのか?」
「…………」
征士の真っ直ぐな目から視線をそらし、伸がつぶやいた。
「別に……そんな事ないよ。……ただ……」
「…………」
「……約束したから……」
「……? ……今、何と……?」
征士が聞き返す前に、伸はすっと立ち上がった。
「征士、当麻は何処?」
「え? ……ああ……いつもの書斎だと思うが……」
「ありがと」
征士の横をすり抜け、伸はそのまま居間を出ていった。

 

――――――ガチャリとノックもなしにいきなり書斎の扉が開いた。
古文書を紐解くのに夢中になっていた当麻がはっとして顔をあげると、後ろ手に扉を閉じて、伸が立っていた。
「……伸……?」
開いていた本をそのままデスクの上に置き、当麻が立ち上がる。
「どうした……?」
「とりあえず、此処に来るまで我慢してたんだから、感謝してよね」
そう言ったとたん、伸の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「伸!!」
驚いて当麻が伸のもとに駆け寄ると、伸は当麻のシャツの裾を握りしめ、俯いた。
ポタリと伸の頬を伝った涙が床に落ちる。
「…………」
「……何が……あった?」
そっと当麻が訊くと、伸は消え入りそうな小さな声で言った。
「あの子を泣かせてしまった」
「…………」
「どうして、こうなっちゃうんだろう」

当麻は自分のシャツの裾を握りしめ震えている細い肩をじっと見つめた。
小刻みに震える肩も、伏せられた緑の目も、こぼれ落ちた涙も、すべて遼の為。
当麻はきつく唇を噛みしめ、俯いた伸の顎に手をかけ、上を向かせた。
「遼と何があったんだ? さっき秀がキッチンで何か騒いでたのが聞こえたが、それか?」
「……それだけじゃない。最近ずっとだ……僕は何をやっているんだろう」
「…………」
「遼といると、別のことを考えてしまう。今までこんな事なかったのに……自分の中のもう1人の自分が暴れ出すんだ」
「…………」
「胸の鼓動がおさえられなくなる。」
そう言いながら、伸は崩れるように床に座り込んだ。
「どういう事だ。伸」
伸の目線と同じ位置に来るように一緒に床に座り込み、当麻が訊くと、伸は少し言いにくそうに首を振って前髪を掻き上げた。
「……伸……」
無言で先を促す当麻に諦めたようにひとつ瞬きをして、しばらく後、伸はようやく重い口を開いた。
「……最近、烈火の気配を感じるんだ」
「……!?」
当麻の身体が硬直した。
「昼も夜も関係なく、烈火の気配を感じる……この暑さもあの人の所為だ。烈火がいるんだ」
「……遼の……中にか?」
「違う、遼は烈火じゃない」
「…………」
「あ……そうじゃない……いや、そうなんだけど……」
「…………」
「まったく……こんな事言ってるから、あの子を泣かせちゃうんだ」
「……逢いたいのか?」
「……えっ?」
「そんなに烈火に逢いたいのか?」
「……当麻……?」

ここ最近の異常な暑さ。
みんながバテている中、遼だけが平気な顔をしていた。
それは、この暑さが烈火の熱さだからだったのだろうか。
当麻は自分の身体が震えださないよう、きつく拳を握りしめて立ち上がった。

「いつからだ?」
「……え?」
「いつから、烈火の気配を感じるようになった? ここ最近変わった事とかなかったか?」
「別に……何も……」
「正人から、連絡は?」
「……え?」
唐突な当麻の質問に顔をあげた伸の視線をさけ、当麻はパソコンデスクの脇に腰掛けた。
「……正人……?」
「…………」
無言で当麻は頷く。
「正人からって……・」
「…………」
「……ああ……この間、電話があったけど……」
「……」
「向こうの大学に進学することにしたからって」
「それで?」
「今、ちょうど準備の為、いったん萩に戻ってるんだけど、確かあさって日本を発つって。それからはめったに帰って来られないだろうって言ってた」
「……そうか……」
「でも、それが何の関係があるんだよ」
「……」
「当麻?」
伸が立ち上がり、当麻のそばへ歩み寄った。
「……何か……言ってなかったか? 奴」
「別に、何も。行って来るよって……それだけ」
「……」
「……当麻? ……今、正人の事は関係ないだろう。どうしたんだよ」
「…………」
「当麻?」
「関係……あるんだ」
「えっ?」
デスクについていた手を離し、当麻が伸の正面に回り込んだ。
少し青ざめたその顔を、伸は不審気に見上げる。
「どういう事?」
深い、宇宙色の瞳を僅かにふせ、当麻が言った。
「……正人は、烈火だ」
伸の身体がピクリと反応した。
「今、正人の心の中に烈火がいる。正人があれ程の力を持ったのは、半分は烈火の所為だ」

ピキーン……!
と、まるで音まで聞こえるのではないかと思うほど、一瞬で部屋の空気が凍り付いた。
伸は瞬きする事も忘れて、じっと当麻を見つめている。
何一つ音のしない部屋の中で、2人の鼓動だけがやけに大きく聞こえた気がした。

「今……なんて……?」
数分間はあっただろう沈黙の後、かすれた声で伸が言った。
「……何て……言った……? ……当麻…………」
「…………」
当麻は目を伏せ、伸から逃れるように視線を床へ落とした。
「どういう事? 当麻」
「…………」
「当麻!!」
肩を掴み、顔を覗き込んで、無理矢理伸が当麻と視線を合わせようとすると、ようやく当麻は苦しげな瞳を伸へ向けた。
「当麻?」
「正人は烈火だ。おまえが正人を助けたあの瞬間、烈火の心が正人に入り込んだ。時空を超える力も、記憶操作も、烈火の力があって初めて出来た事だ」
「…………」
「正人は、烈火なんだ」
当麻の肩を掴んでいた手を離し、伸はよろけながら一歩後ろへ後ずさりした。
横に積んであった数冊の本や資料が伸の手にぶつかり、派手な音を立てて床へと散らばる。
「知ってて……ずっと……」
「…………」
「知っててずっと黙ってたんだ。当麻……」
「…………」
「……何故? ……どうして、言ってくれなかったの?」
「……から……」
「…………?」
「……恐かったから」
「…………」
「言えば、お前が行ってしまうんじゃないかと……恐かったから」

伸がゆっくりと瞬きをした。

「……歯を」
「えっ?」
「歯を食いしばれ、羽柴当麻」
「……!?」
いきなり伸の平手打ちが当麻の頬に飛んだ。
「……!!」
赤く腫れ上がった頬を押さえもせず、伸を見つめ返した当麻の唇の端に血がにじむ。
じんとしびれた右手を握りしめ、伸は当麻を睨み付けた。
「……解ってない。当麻はちっとも僕の事、解ってない!!」
「…………伸……」

伸の瞳に涙が溢れ、こぼれ落ちた。
幾筋も、幾筋も、伸の頬を伝って涙がこぼれ落ちるのを、当麻は身動きも出来ずに見つめていた。

烈火。炎の中の彼の人。
いつも夢に見るのは、最期のあの人の笑顔。炎の中で逝ってしまったあの人の哀しい笑顔。
あの頃は、誰よりもあの人が大事だった。
あの人のいない世界など必要ない程。

「当麻はずるい。いつも、そうやって勝手に思いこむ」
「…………」
「遼の事を出せば、僕が動くと思ってる。烈火の事を言えば、僕の心が揺れると信じてる」
「…………」
「君は、僕の事なんか、何ひとつ解ってないんだ」
「…………」
「嘘つき」
低くそう言って、伸は書斎を出ていった。
独り取り残された当麻の耳に、扉の閉まる音が、重く響いた。

 

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