鼓動−第1章:追憶−(1)

ドクン……!
と、あまりの自分の鼓動の大きさに、おもわず伸は息を詰めて辺りの様子を窺った。
まるで、心臓の音を誰かに聞かれるのではないかと思う程の大きな鼓動。
「…………」
幸い、隣に寝ている秀は心地よさそうな寝息をたてており、起き出す気配は無い様子で、伸は多少安心して詰めていた息を吐き出した。
ゆっくりと視線を落とし、少し痛む胸を押さえると、伸は静かにベッドを抜け出し、ベランダへと続く硝子の扉を開く。
キーっと耳障りな音をたてた扉を細心の注意を払って閉じ、伸は降るような星空の下へと歩き出した。
まだ昼間の暑さが残っているような、むっとするほどの熱帯夜。
風ひとつない澱んだ空気を押し分けるように手すりにもたれ、伸はふと宇宙を見上げた。
「ケンタウルス。ヘラクレス座。……あれがさそり座のアンタレス」
知っている星や星座の名前を数え上げる。
遠い遠い星の光は、遙かなる時を超えてやっと此処へたどり着くのだ。
この星の光が地球へ向けて旅立った時、自分は何処に居たのだろう。
「乙女座のスピカは270光年離れてるはずだから……」
繰り返される戦いの中、どの時代にあの光は生まれたのだろう。
ドクン……!
その時、再び心臓が大きな音をたてた。
左胸を押さえ、しゃがみ込むと、伸は自分の身体を抱えるようにうずくまった。
ドクン……ドクン……ドクン……!
どんなに押さえようとしても、鼓動は早く、大きくなっていく。
押さえきれない想いが今にも爆発しそうになる。
「…………!!」
思い詰めた瞳をして伸が顔をあげた。

呼んでる。
呼んでいるのだ。これ程に逢いたいと。
せめて、一目だけでも逢いたいと。

ドクン……ドクン……ドクン……!
自分の意志に反して鼓動が大きくなる。
逢いたい……逢いたい……逢いたい……!
「…………!!」
声にならない叫びが伸の口から発せられた。
これは……誰だ?
誰の想いだ?
伸は、彼方に揺らめく黒曜石の瞳をじっと見つめていた。

 

――――――「なんか最近やけに暑くないか?」
汗でしぼれるほど濡れたTシャツを着替えながら秀が言った。
季節は初夏。ようやく梅雨が明けたばかりの時期だというのに、ここ数日やたらと暑い日が続いていた。
「今からこんなんじゃ先が思いやられるよね」
アイスティーを渡しながら伸も秀の発言に同意する。水滴のついたガラスコップの中で、氷がカランと気持ちのいい音をたてた。
「伸、お前水滸だろ。サーっと雨かなんか降らせてくれよ」
「無茶言わないでよ。そんなの自分の意志で出来るものじゃないんだから」
「よく言うよ。お前が落ち込むとすぐ雨が降るじゃないか」
「……秀。夕食抜きにされたいみたいだね」
「失言でした」
秀だけじゃなく、皆この暑さは異常だと感じている。
当麻はエアコンのきいた書斎に相変わらずこもりっぱなしだし、征士も心なしか元気がなく、いつもきちんと閉めていたシャツのボタンを一番上だけ外している。
ただ、さすがに遼は平気なのか、パタパタと元気良く伸の手伝いに走ってくれた。

「伸! やっと風がでてきたみたいだ」
5人分のシーツを干し終えた頃、ようやく風が吹きだし、微かにシーツの裾が風にはためいた。
いい具合に太陽も眩しく光っている。
「風が吹くと、多少涼しくなるね」
頬の汗を拭いながら伸が言うと、遼も大きく頷いた。
「でも、オレ暑いのも好きだぜ。夏生まれだからかな?」
気持ちよさそうに両手を広げ、遼は大きく深呼吸した。
少し日に焼けて浅黒くなった健康的な肌をして、遼は楽しそうに笑う。
「暑いの平気なのは、君が烈火の戦士だからだよ」
眩しそうに遼を見つめて伸が言った。

翻る真っ白なシーツの中で、遼の黒髪だけが鮮やかに目に映る。
漆黒の髪。
あの人もそうだった。
風になびく癖のある髪と黒曜石の瞳。
懐かしい彼の人。
包み込むような優しい声で、そっと名前を呼んでくれた。
“水凪”……と。
声を聞くたび嬉しくて、姿を見つめているだけで幸せで。
本当に幸せで。

伸は懐かしそうに目を細めてじっと遼を見つめていた。

あの頃。幸せなあの頃。
あの人が居て、笑っていたあの頃は、遙か昔。遠い過去の出来事。

「伸? オレの顔に何かついてるか?」
じっと自分を見つめる伸に気付き、不思議そうな顔をして遼が小首をかしげた。
「あ……何でもないよ」
そう言って笑いながら、洗濯物に手を伸ばそうとした伸の動きがビクリと止まる。
ドクン……!
「…………!?」
鼓動が鳴る。自分の意志とは関係なく。
おもわずそのまましゃがみ込んだ伸を見て、遼が驚いて駆け寄ってきた。
「どうした!? 伸!」
「…………」
ドクン……ドクン……ドクン……!!
外へ出たがっている。
自分の中のもう1人の自分が。
「伸……?」
遼の心配そうな瞳が、伸の顔を覗き込んだ。

遼。
烈火が託した赤ん坊。
腕に抱いた感触は今も鮮明に残っている。
熱ささえ感じないほどの、真っ赤に燃えた炎の中で、引きつったような泣き声をあげた小さな赤ん坊。
彼の人の最期の微笑み。
哀しい、哀しい、最期の微笑み。
何度、転生を繰り返しても、忘れることはないのだろうか。

どんなに願っても、あの人はもう炎の中から出てきてはくれないのだろうか。

“生きろ”と。
“生きるんだ、水凪”と。
最期のあの人は、微笑みながらそう言った。

もう、いない。もう、逢えない。
ドクン……!!
またひとつ、胸の鼓動が大きくなる。

おいていかないで。つれて行って。
僕だって戦える。
だからお願い。つれて行って。
足手まといに思わないで。
あなたと一緒にいたいんだ。あなたと共に戦いたいんだ。あなたを守りたいんだ。
あなただけを……
烈火……!!!

「……!?」
伸の肩を支えようとのばされた遼の手に緊張が走った。
はっとして伸が顔をあげると、遼は目を見開いて伸をじっと見つめている。
「…………」

何を……言った……?
僕は。

伸の顔からさっと血の気が引いていく。

僕は。
何て事だ。何をやってる。
この子を哀しませない為に、どれだけ自分が気を張っているか自分で解っているのか?
もう1人の自分を無理矢理心の奥にしまい込む。
大丈夫。まだ大丈夫。
落ち着くんだ。
必死で願う。

「ごめんね、遼。ちょっと、日にあたりすぎたみたいだ」

うまく笑えただろうか。
ちゃんと僕は笑えただろうか。

「もう、大丈夫だから」

遼は、そんな伸の様子をしばらくじっと見つめた後、ふいに立ち上がった。
「いいよ。きっと身体が本調子じゃないんだろ。伸は暑いの苦手だからな」
「…………」
「あとはオレ、やっとくから。伸は部屋で休んでろよ。」
「でも……遼」
「大丈夫だから、行けって」
そう言って、遼は洗濯籠を取り上げ、くるりとうしろを向いてしまった。
ゆっくりと立ち上がると、伸はもう一度小さくごめんねと言い、ベランダを後にする。
パタンと背中で硝子扉が閉まる音を聞いて、洗濯ロープに手をかけた遼の動きが止まった。

 

――――――廊下を曲がり、自分の部屋の前まで来ると、伸はドアノブに手をかけたまま小さくため息をついた。
「何やってるんだろう。僕は」
そのまま、部屋には入らずに、伸はドアを背にずるずると廊下に座り込んだ。
膝を抱えてうずくまる。
立ち上がる気力も、何かをしようという気も起こらない。
ただ、後悔の念が頭を駆けめぐる。

本当に、何をやっているのだろう自分は。
自分で自分の心が解らなくなる。
気が付くと、心が何処かへ飛んでいきそうになる。
あの人の気配を感じる度、胸が痛む。
あの人が居るような気がする。何処かに。

「何をバカなこと考えてるんだ」

居るわけはないのに。
あの人は、もう、何処にも居ないのに。
遼の中になど決して居ないというのに。

どうして、心がこんなにも呼ぶのだろう。
ずっとずっと。気が遠くなるほどずっと。
守りたくて、守りたくて、守りきれなかった、彼の人。
あなたと共に居たかった。あなたを守りたかった。
炎の中の、彼の人。
永遠の人。

ドクン……!!
また、胸の鼓動が激しくなる。
おさえきれない、今にも爆発しそうな想い。
何故、こんなにも。

ドクン……!!
違う。
これは、僕の心じゃない。これは、僕の想いじゃない。
これは、あの時、立ち止まってしまった小さな子供の。
動けないまま、ずっとうずくまっている、あの少年の心だ。
あの人がいなくなってから、一歩も前に進めない。
助けて……!!
叫んでいるのが解る。
助けて……!!
叫んでるんだ。
この、押しつぶされそうな哀しみの中から誰かが救い出してくれないかと。
助けて……助けて……助けて……!!

誰か!!!

「……伸……?」
呼ばれて伸が顔をあげると、当麻の心配気な顔が自分を覗き込んでいた。
「…………当麻……」
「オレを、呼んだろ。……伸」
ささやくように当麻が言った。
「今、オレを呼んだろ」
「…………」
そっと、手をのばし、当麻は伸の身体を自分のほうへ引き寄せた。
「オレを、呼んだろ」
「……うん。」
当麻の胸に顔を埋めて、伸が微かに頷いた。

 

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